属人区長の手紙(2026年10月16日)| 観想について

この司牧書簡において、フェルナンド・オカリス師は、オプス・デイの100周年に向けた準備として、イエスの生涯と聖ホセマリアの模範に照らしながら、世界のただ中で観想的に生きるという召命について、さらに深く理解するよう招きます。

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目次

最愛の子どもたち、イエスが皆さんを守ってくださいますように!

1. 今年3月のメッセージで、わたしはオプス・デイ100周年に向けた準備として、今年10月から来年10月までの間、「世界のただ中で観想的に生きる(観想者となる)」という召命について、さらに理解を深めるよう提案しました。「これは、創立者のパドレがオプス・デイの精神の多くの要素を要約して表した言葉です」[1]。

わたしたちに固有の召命は、日々の普通の状況のただ中で観想的に生きたいと望むよう、わたしたちを導きます。オプス・デイは、ある宗教上の義務を果たすための道ではありません。それだけでも大きなことですが、同時に、それだけでは十分とはいえません。わたしたちの精神は、はるか遠くを目指しています。神の愛を通して世界を見つめ、愛し、神のまなざしにあずかるよう導くのです。これは大きな目標への招きです。そのために自分の力だけではなく、何よりも神の助けを頼りにします。ですから、わたしたちの召命を深く生きたいという大きな望みをもってオプス・デイの100周年に備える中で、次のように自らに問いかけることができるでしょう。わたしは、観想への召命を受けていると考えているだろうか。自分の欠点や困難にもかかわらず、神はわたしが世界のただ中で観想的に生きることを望んでおられると知っているだろうか。神は、歩みの一歩一歩に、起こる一つ一つの出来事に、各瞬間瞬間において、ご自身を見いだすようわたしを招いておられることを自覚しているだろうか。

2. 観想とは何かを理解するために、教会の神学的伝承は、聖トマス・アクィナスによる古典的な定義を示しています。観想とは、simplex intuitus veritatis ex caritate procedens、すなわち、愛から生まれる、真理への単純で直観的なまなざしです[2]。それは、純粋に知的な努力でも、抽象的な思索でもありません。観想とは、愛情に満ちたまなざし、愛から生まれる「見ること」です。ベネディクト十六世は、次のように説明しています。「キリスト者の計画は──それはよいサマリア人の計画であり、イエスの計画でもあります──『見ることのできる心』です。それはどこで愛が必要とされているかを見、そこから行動する心です」[3]。心が神への愛で満たされると、知性と感情は、一つの素朴な「見る」という行為のうちに結ばれます。愛するものを見つめ、そのまなざしによって、観想する人自身が少しずつ変えられていくのです。

イエスと御父との絶えざる対話

3. イエス・キリストは、わたしたちにとって、単に見倣うべき模範以上の方です。イエスはわたしたちのいのちであり、わたしたちのうちでご自身のいのちを生きることを望んでおられます。 主は地上で過ごされた間、さまざまな状況や場所において、御父と絶えず語り合っておられたことを示してくださいました。例えば、ヨルダン川で洗礼を受けられたときに祈る姿(ルカ3・21参照)、御父と静かに過ごすために人里離れた場所を求める姿(マルコ1・35、ルカ5・16、9・18参照)、人里離れた山へ向かわれる姿(マタイ14・23、マルコ6・46、ルカ6・12、9・28-29参照)が見られます。そして受難においても、オリーブの園で苦悶のうちに祈られたときから(マタイ26・36-44参照)、十字架上に至るまで(ルカ23・34・46参照)、御父と語り合っておられる姿を見ることができます。

しかし、イエスの祈りがどのような時に、どのような形でなされたかという具体的な記述を超えて[4]、実際にはイエスの全生涯が御父との絶え間ない対話、すなわち、行いやまなざし、仕事や休息によっても織りなされる語らいであることを、わたしたちは知っています。「イエスの祈りはその生涯を貫いています。それは隠れた水路のように、イエスの生涯と人とのかかわりと行いを潤します。そして、父である神の愛の計画に従う完全な自己奉献へとますます強くイエスを導きます」[5]。

聖ホセマリアは、キリストがナザレで30年間の隠れた生活において、観想的に生きておられたことに、とりわけ目を向けていました。イエス、マリア、ヨセフのこの生活は観想的であると同時に、何一つ特別なことのない、ごく普通の生活でした。「イエスは​一人の​人間と​して​成長し生活しながら、​人間の​生活や​日々の​平凡な​出来事に​神的な​意味が​ある​ことを​示しておられます」と聖ホセマリアは語っていました。「​隠れた​生活と​言っても、​私たちに​とっては​太陽のような​光を​与える​ご生活です。(…)​キリストの​隠れた​ご生活に​よって、わたしたちの​日々は​照らされ、​日常生活の​真の​展望が​明らかに​されます」[6]。

聖ホセマリアの生涯における観想

4. 「市井の観想者(contemplativo itinerante)」──これは、聖ホセマリアの英雄的徳に関する教令が聖ホセマリアを表現した言葉です。「その人物像の最も特徴的な面は、活動家としての並外れた資質だけに見いだされるのではなく、祈りの生活と、絶えず神との一致を経験するその生活にも見いだされる。この経験によって、彼は『市井の観想者』となった」[7]と、この文書は述べています聖ホセマリアの子であるわたしたちも、またオプス・デイに近づくすべての人も、まさにこのことへと召されています。市井の観想者となり、町の道々や生活の喧騒のただ中で神との対話のうちに生きること、どこにいても──家庭でも、仕事でも、日々の生活環境の中でも──いつも神とともにいることへと召されているのです。

「イエスよ、私の注意散漫が、逆向きのものとなりますように。あなたと語り合うときに世間のことを思い出すのではなく、この世の事柄に携わるときに、あなたを思い出すことができますように」[8]と、聖ホセマリアは祈っていました。創立者は、起こるすべてのことの背後に神を見いだそうとし、一見すると最も『世俗的』に思える事柄のただ中におられる神の存在を読み取ろうとしていました。そして、一見すると取るに足りない、あるいは些細に思える行いの中にも、詩を見いだそうとしていました[9]。

5. 聖ホセマリアは、世界の喧騒のただ中で経験した深い祈りの体験から、この召命が神からのものであることの確証を見いだしました。新聞を読みながら、路面電車に乗って、大都市の喧騒の中に身を置きながら──つまり、どこにでもあるわたしたちの生活の中での出来事でした。

「少し珍しいことなので書き留めておきたいのですが、新聞を読んでいると、イエスはよくわたしに祈りを与えてくださいます」[10]と、あるとき記しています。その数日後にも、同じようなことを書き残しています。「先週の土曜日、レティーロ公園に行き、(…)新聞を読もうとしました。祈りがあまりにも強く押し寄せてきたので、意に反して読むのをやめなければなりませんでした。そして、そのとき、イエスはどれほど多くの愛と委ねの祈りを、わたしの心と唇に置いてくださったことでしょう」[11]。また、日常の交通の中での祈りについても記しています。「最も深い祈りをしたのは、(…)路面電車に乗っているときでした。その後、マドリードの街を歩きながら、この素晴らしい現実を観想していました。『神はわたしの父である』と」[12]。まさにこの手紙を皆さんに送る今日、その体験から丸95年を迎えます[13]。

20世紀も後半に入ったころ、世界の富と文化が集まった大都市の一つ、ロンドンを初めて訪れた際にも似たことが起こりました。「その光景を見ていると、途方に暮れ、自分には何もできない、無力だと感じました。『ホセマリア、ここでは何もできない』と。わたしの考えは正しかったのです。わたし一人では何の成果も上げることができず、神なしには、地面から一本の藁さえ持ち上げることができないでしょう(…)。すると突然、世界各地から来た人々が行き交う通りのただ中で、わたしの内に、心の奥底に、神の御腕の力を感じました。『あなたは何もできない。しかし、わたしにはすべてができる』」[14]。

これこそ、聖霊が聖ホセマリアを通してわたしたちに招いておられる道です。神に愛されている子どもであるという確信と力をもって人生を歩み、すべてを神とともに生き、神と分かち合うことです。あるいは、愛する弟子の心に消えることのない記憶を残した師のあの言葉を借りて言えば、神のうちにとどまることです[15]。

せわしなく動く世界の中で

6. 現代世界についてのさまざまな分析は、わたしたちの社会が、活動主義、つまり人生を仕事だけに費やす傾向があることを示しています。多くの人々の努力は、物質的な資源や経験、社会的地位を手に入れることによって、より豊かな生活を実現しようと、生産性を高めることだけに向けられているように見えます。そこには、ほとんどあらゆる領域において、テクノロジーが絶えず介在する影響も加わります。テクノロジーは、賢明に利用されなければ、人を孤立させたり、他の人々との接触を妨げたり、さらには、神や他の人々の声に耳を傾けるために心を開くことさえ難しくしたりします。実際、内的生活や人々を愛するために不可欠な善である、心を静めて集中すること、周囲に関心を向ける注意力が、まさに危機に瀕しているのです。集中力は、多種多様な関心事に振り回され、注意散漫になっています。少し前にレオ十四世が指摘したように、「新しいテクノロジーが人工的な環境を生み出し、人生の根本的な選択が試練にさらされています」[16]。

7. このような状況を前に、今日の世界の多くの人々は、息をつく余裕を与え、慌ただしい活動を超えた意味を人生に見いだすための方法を探しています。これは、すでに数十年前から一部の国々で見られる「霊的なもの」への関心の高まりを、少なくとも部分的には説明するものかもしれません。こうした求めに応えるものは次々と提示されますが、その多くは部分的なものにとどまっています。というのも、一般的には、イエス・キリストがわたしたちに与えてくださる、人間的かつ超自然的な完全な人生の豊かさには及ばないからです。物質的なものが与える脆い安心感や、世俗的幸福を超えない提案がある一方で、「同時に、宗教的な感覚の目覚め、人生にとって神が重要であることの再発見、人生を単に地上的・物質的に捉える見方を超えたいという要請、霊性への渇望を示す多くのしるしも見られます」[17]。わたしたちは皆、神の観想、神との親しさ、神の平和を見いだすことを切望しています。周囲にこのような霊的な渇きを感じ取ったことがあるでしょう。

8. 聖ホセマリアは、すべてのキリスト者に「祈りの人になる」こと、世界のただ中で観想的に生きることを、どの時代にも通じる言葉で勧めていました。それは、今日の世俗化が進み、テクノロジーがますます発展している時代においても通用するものです。「わたしは、​命ある​限り​休みなく​説き続ける​つもりです。​あらゆる​時、​あらゆる​状況に​おいて、​いつも​祈りの​人である​ことが​第一に​必要であると。​神が​私たちを​お見捨てになるような​ことは​決してないからです(…)。​このように​主を​探し求めれば、​私たちの​一日は​朝から​晩まで、​神との​親密な​信頼に​満ちた​会話に​変わる。​これに​ついては、​幾度と​なく​断言し、​また​書いてきましたが、​ここで​再び繰り返したいと​思います。​昼夜を​分かたず絶えず​祈り続ける​ことが​確実な​生き方である​ことを、​主が​模範で​示してくださいました」[18]。実際、わたしたちは、このような見方を伝えるのにとても恵まれた状況に置かれています──世界そのものが、それをわたしたちに求めているのです。

昨年、聖ホセマリアの記念日のミサの説教で、わたしは次のように考えました。「わたしたちの『無限への渇き』はさまざまな形で現れますが、そのすべてが心を満たしてくれるわけではありません。物質的な財、成功、快適さだけを土台に築いた幸福を求めて、時間を無駄にしてしまった経験があるかもしれません。しかし、すべての現実に意味を与え、わたしたちの心の望みを満たしてくださるのは、神だけであることをわたしたちは知っています」[19]。すべての人の心の奥底にあるこの霊的な渇き、この神への望み──教会から最も遠く離れているように見える人々の中にもあるこの望み──を前にして、世界のただ中で観想的に生きるよう神が招いておられることを告げ知らせることが、とりわけ必要となります。

「主よ、あなたの顔を尋ね求めます」

9. 愛の最も内奥にある動きとは、愛する者を探し求めることです。愛する人は、表面的に知ることや、愛する者についていくつかのことを知るだけでは満足しません。その顔を見つめ、その人のもとにいて、その声を聞くことを切望します。真のキリスト教的な祈りには、詩編作者の子どもとしての嘆願が刻まれています。Vultum tuum, Domine, requiram(詩編27[26]・8)、主よ、あなたの顔を尋ね求めます。

創立者のパドレは、日常生活のただ中でキリストの顔を情熱をもって探し求めることを生き、教えていました。ある説教の中で、実際に生きた経験から生まれる力をもって、神を愛する人は、絶えず神を探し求めずにはいられないという必要をどのように体験するかを語っています。「まず、​射祷を​一つ​唱える​ことから​始めて、​次第に​その数を​増していくが、​燃えるような​射祷とは​いえ、​そのうちに​それだけでは​充分でないと​感じ始める。​言葉で​すべてを​言い​尽く​すことができないから。​そこで、​神との​親密な​交わりへの​道が​開かれ、​倦まず弛まず神を​見つめるようになる。​そうなると、​捕われ人、​虜に​なったように​感じる。​そして、​力に​限りが​あり過ちを​犯しつつも、​最善を​尽くして、​職業上、​身分上の​義務を​果たしている​ならば、​心は​そこから​逃れて神に​向かう​ことを​熱望する。​ちょうど鉄が​磁石に​吸い寄せられるように、​甘美な​驚きの​うちに、​いとも​効果的に​イエスを​愛し始めているのです」[20]。

日常生活の中で主の顔を探し求める魂は、まさにその日常生活の中に、その出会いのための特別な場を見いだします。観想は、限られた少数の人々だけに与えられるものでも、世を離れる人だけが目指すものでもありません。神を見るという望みは、日々の活動の中心において具体的なものとなります。わたしたちは、仕事机に向かうとき、家族の世話をするとき、人との交わりの中で、そして休息のときに、主と出会います。愛によって、わたしたちを見つめておられるキリストのまなざしを見いだし、そのまなざしに自分のまなざしで応えるよう招かれていることに気づかされるのです。

すべての中に神を見る

10. この愛に満ちたまなざしは、現実の理解を根本から変えていきます。以前は問題しか見ていなかったところに、感謝と賛美の理由を見いだすようになります。以前は自分の運命を自分に委ねられていると思っていたところに、絶えず心を配ってくださる神の配慮を感じ取るようになります。以前は自分の内なる独り言だけを続けていたところで、神と語り合うようになります。「わたしたちはどこにいようとも、街の喧騒の中でも、工場、大学、畑、オフィス、あるいは家庭で仕事をしているときでも、自分が神の子であることを素直に観想し、神との絶え間ない対話を続けることでしょう。なぜならすべてが──人も物事も仕事も──主との絶え間ない語り合いの機会やテーマを与えてくれるからです」[21]。

信仰は、今この瞬間にも絶えず働いておられる神の現存を感じ取るために、わたしたちの目を開いてくれます。こうして、わたしたちは、一瞬一瞬、一つ一つの状況に計り知れない価値があることを見いだします。いついかなるときにも、わたしたちが御父の無限の愛の対象であることを知るからです。そして、日々の大小さまざまな出来事の中に、御父の摂理による細やかな配慮を認めるようになります。喜びも、困難も、成功も、矛盾も、主との対話のための「材料」となり、そのための場となります。無関係なものは何一つありません。愛によって、そして仕えたい、人々の支えになりたいという望みをもって行うなら、超自然的な価値を持たないものは何もないのです。

足を地につけたまま、天を見つめる

11. 霊的生活を、日々の務めから感情的に逃避することや、抽象的な理想の中に逃げ込むことと取り違えてしまう危険があります。しかし、真のキリスト教的観想は、受肉に根を下ろしています。神は、効果のない夢想にふけって雲を見上げるよう求めておられるのではありません。わたしたちが生きている現実を、今まさに手にしていることを通して、天に目を上げるよう求めておられるのです。日常生活につきものの、予期せぬ出来事や思いがけない困難を通してもそうです。

祈りのために必要な沈黙と心を静める時間に加えて、仕事をきちんと果たすことや家族に心を配ること、社会の一員として責任を果たすことや友情における人との関わりも、わたしたちにとって観想の場です。聖ホセマリアは説教「愛すべき天地」の中で、力強く次のように表現しています。「皆さん、​平凡な​日常生活の​中で​主に​出会う​ことができるか、​いつまで​経っても​出会わないか、​これ以外に​道は​ありません。​それゆえ​わたしたちは​今、​ごく​ありふれた​ものや​状況に、​本来の​高貴な​意味を​取リ戻させ、​神の​国に​役立たせ、​霊的な​ものに​する​必要が​あると​言えます。​それには、​すべてを​イエス・キリストとの​絶え間ない​出会いの​手段とし、​機会にしなければなりません」[22]。

要するに、観想は、地上での責任からわたしたちを遠ざけるものではありません。それどころか、努力と愛情をもってそれらを生きるよう導きます。なぜなら、わたしたちは神とともに、そして神から、物事を見つめ、それらを愛するからです。だからこそ、創立者のパドレは「​各瞬間を​永遠との​つながりのうちに​生きる​」[23]ことについて語っていたのです。

12. 神の現存の甘美さを味わった魂は、聖なる緊張を体験します。一方では、天において神と完全に一致したいという望みがあり、他方では、主から世界の中で託された使命への自覚があります。聖ホセマリアは、口頭で考えながら祈る祈りが、より穏やかで深い観想へと変わっていくこの内的な状態を、次のように表現していました。「言葉で​すべてを​言い​尽く​すことができないから。​そこで、​神との​親密な​交わりへの​道が​開かれ、​倦まず弛まず神を​見つめるようになる。​思い巡らすこともなく​見つめるだけ。​そして、​心は​再び新しい​歌を​歌い​始める。​愛の​こもった​神の​視線を、​四六時中、​感じ味わうことができるからです 」[24]。

この観想は、わたしたちを現在から遠ざけないばかりか、むしろ現在へといっそう近づけます。神の恵みに導かれて、わたしたちは「天にいると同時に地上にいる」という喜ばしい逆説を体験します。わたしたちはしっかりと地に足をつけ、同時代の人々の問題や疲れ、希望を自分のものとして受け止めながら、心と知性は「唯一にして三位なる神の神秘である愛の流れ」[25]にしっかりと根を下ろしています。

聖アウグスティヌスは、世と天の双方に属するというこの二重のあり方を、特別な明晰さをもって次のように表現しています。「あなたの愛情は階段です。あなたの意志は道です。愛することによって上っていき、自分をおろそかにすることによって下っていきます。神を愛するなら、たとえ地上にいても、あなたは天にいるのです。心は、体を起こすようにして持ち上げるものではありません。体を持ち上げるには、その場所を変えなければなりませんが、心を持ち上げたいのなら、あなたの意志を変えることです」[26]。

時は短い

13. オプス・デイへの召命の世俗的な性格によっても、わたしたちの行き先を見失うことはありません。わたしたちは、自分たちの最終的な故郷が天にあることを知りながら、歴史の中を歩んでいます(フィリピ3・20参照)。光陰矢の如しという自覚は、わたしたちの生活に、愛することへの深い切迫感をもたらします。聖パウロは、Tempus breve est(一コリント7・29)、時は短い、とわたしたちに告げています。これは不安をかき立てるための考えではなく、神がわたしたちに与えてくださる一つ一つの機会を、愛徳の実を結ぶために、穏やかな心で生かすよう促すものです。

聖ホセマリアは、この現実についてしばしば黙想し、寛大に、喜びをもって自分をささげるよう、わたしたちを励ましていました。「Tempus breve est!(一コリント7・29)、この​世での​歩みの​なんと​僅かしか​続か​ぬことか。​(…)​愛し、​捧げ、​償う​ために、​残された​時間は​実に​短い。​それゆえ、​時間の​浪費は​不正を​働くに​等しく、​時間と​いう​宝を​窓から​捨てるような​無責任は​許されません。​神が​一人​ひとりに​お任せに​なった​人類史の​この​時期を​無駄に​過ごすことなどできないと​申し上げたいのです」[27]。

時間は、主がわたしたちの手に置かれたタレントであり、それを聖なるものとするために与えられたものです。仕事の一時間一時間、愛情を示す一つ一つの行為、他の人々への心配りの一つ一つが、永遠につながる一枚の硬貨です。栄光のうちにある最終的な目的地を思うとき、日々の大小さまざまなことに込める愛こそが、永遠に残る唯一のものであることが分かります。

観想は神の賜物

14. 観想は、単なる人間的なテクニックによってでも、精神集中の心理学的な手法によってでも生まれるものではないことも、心に留めておくとよいでしょう。観想は何よりもまず、神から無償で与えられる賜物であり、謙虚で素直な心に聖霊が与えてくださる恵みです。聖テレジアは、「これは神が与えてくださるものです」[28]と語っていました。

このため、観想には、神への信頼と子どもとしての委託の姿勢が求められます。神がご覧になるように物事を見るために必要な光を、主に願うことが大切です。聖ホセマリアは、次のように祈っていました。「主よ、わたしのキリスト、わたしの魂のイエスよ、あなたの目でわたしが見ることができますように」。あなたの真理の輝きと、あなたの心の優しさをもって、世界や人々、出来事を見ることができますように。また、別の機会には、主にこう嘆願していました。「​主よ、​見えますように!(…)​わたしの​知性を​光で​満たし、​キリストの​言葉を​精神に​染み透らせ、​キリストの​生命を​わたしの​魂に​定着させてください。​こうして、​永遠の​栄光に​向かうべく​自らを​変えることができますように」[29]。

15. 観想は、人間の力だけでは到達できない賜物ですが、それには、わたしたちの側からの積極的な応答が求められます。恵みは人間の本性を無にするのではなく、それを前提とし、完成させることをわたしたちはよく知っています。ですから、観想生活へと向かう道には、穏やかでありながら、絶え間ない戦いが必要です。

第一に、毎日の念祷に忠実であることが必要です。神と二人きりで出会うための、他のことから離れた時間が必要です。そこで、神の声に耳を傾け、その御心に自分の意志を合わせることを学びます。念祷によって魂は新たにされ、残りの一日を通して、たびたび言葉を伴わずに、神との絶え間ない対話を保つために必要な霊的な調子を身につけます。『カトリック教会のカテキズム』も、次のように思い起こさせています。「心して一定の時に祈るようにしなければ、『いつも』祈ることはできません。このような時間は、熱意を込めて、しかも長続きする、確実なキリスト教的祈りのときなのです」[30]。

第二に、一日を通して神の現存を意識することを培う必要があります。絶え間ない祈りの賜物を主に願うことに加えて、一日の中でその祈りを準備し、可能にするための人間的な手段があります。他にも色々な手段がありますが、なかでも、積極的に沈黙の時間を求めること、同じ一つの活動をやり続ける忍耐、コンスタントに仕事に取り組む粘り強さ、耳を傾ける謙虚さ、自然との触れ合い、心からの友情に心を開くことなどです。主が福音の中でわたしたちに考えるよう促しておられるように、神がいつもわたしたちに与えてくださっている恵みを、実り豊かに受け入れるために、心の土壌を耕すことは、わたしたちの手に委ねられています(マタイ13・1-23参照)。レオ十四世は少し前に、「真に健全な注意力をはぐくむこと」をわたしたちに勧めていました。それは「沈黙、深い研究、読書、思慮深い分析を含んだ生活リズムです。これらの要素がなければ、内的な自由が損なわれる可能性があります」[31]。そして、それとともに、祈る力も損なわれる可能性があります。

16. 聖ホセマリアは、霊的な成熟に、何もしないまま受け身でたどり着けると期待する人の幻想について、わたしたちに注意を促していました。時が過ぎるだけでは、人は完成されません。「年月を重ねたからといって、知恵や聖性が与えられるわけではありません」[32]。知恵と聖性をもたらすのは、神の恵みに対する謙虚で粘り強い応答です。日々、小さなことにおいて、疲れることなく戦う必要があります。聖性とは、欠点がないことではなく、神に支えられていることを知りながら、謙虚にいつも再び始めることなのです。この日々の戦いは、硬直した緊張であってはなりません。そうではなく、父である神に見いだされることを望む子どもの、愛情に満ちた信頼のうちの努力であるべきです。そして、善意にもかかわらずつまずいたり間違えたりするときにも、それによって神を喜ばせることができると知ることです。

心の清い人々は、幸いである

17. 福音書に描かれる真福八端は、観想生活のために不可欠な条件を示しています。Beati mundo corde, quoniam ipsi Deum videbunt、心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る(マタイ5・8)。心の清さは、貞潔の徳だけを意味するのではありませんが、必然的にその徳を含んでいます。心の清さとは、自己愛、富、個人的な成功、あるいは自分自身の考えへの、あらゆる無秩序な執着から魂が内的に自由であることです。心が清いとは、神と他の人々を愛するために、心が澄み、自由であることです。自分自身や自分の判断、利己心でいっぱいになっている人は、神を見ることができません。霊的な視界が曇っているからです。

このように考えると、心の自由のために、貞潔と清貧の徳が特別に重要であることも自ずと理解できます。聖性への道において、この二つが必要であることは、霊的生活における共通の経験です。聖ホセマリアは、1932年のあるメモの中でこう表現し、その後『道』に収めています。「イエスよ、​私の​心を​幾重にも​覆う、​腐敗した​情欲の​疥癬に​病んだ​皮膚を​取り除いてください」[33]。また、清貧についても、こう書き残しています。「神の​人であるなら、​世間の​人が​富を​手に​入れる​ために​注ぎ込むのと​同じくらい​必死に​なって、​富を​軽蔑しなさい」[34]。これは、神がお造りになったものを軽蔑すべきであるという意味では決してありません。しかし、物事に対してあまりに無邪気すぎる見方をしないように、との呼びかけではあります。 心がそれらに無秩序に執着すると、わたしたちは容易に自由を失ってしまうことを知っておく必要があるのです。世界のただ中で観想的に生きるためには、個人的な糾明において、こうした領域を細やかに心にかけなければなりません。また、困難が大きいなら、それに応じて大胆な手段を講じることも必要です。

18. 無秩序な執着から心を清めるために役立つものの一つが、内面的にも外面的にも行う犠牲と償いです。そのため、聖ホセマリアはしばしば、犠牲を「地上の事物に対する支配力」[35]を身につける道と考えていました。すなわち、本当に自由になり、自分自身を治める者となることなのです。聖ホセマリアが巧みに「五感の祈り」[36]と呼んだ犠牲を通して、神と他の人々へと自在に心を向けることができるようになるのです。この償いの道は、わたしたち自身を清め、観想的に生きるために欠かせません。その歩みにおいて、すべてが愛によって動かされなければならないことを見失わないことが大切です。なぜなら、「愛徳を欠いた犠牲には、何の価値もない」[37]からです。

他の人々の中に神を見る

19. 観想生活は、キリスト者を個人主義的な内向きの世界に閉じ込めるものではありません。それどころか、真の観想は心を広げ、兄弟姉妹へと目を開かせます。祈りの中で神を見ることを学ぶ人は、自分を取り巻く人々の中にも、神の似姿と現存を見いだすことを学びます。

聖ホセマリアは、神への愛と他の人々への愛を切り離すことはできないと、わたしたちに思い起こさせています。身近な人々への愛情、同僚への理解、困っている人への愛徳、友人との真心からの友情…すべてが神の愛によって高められ変容されなければなりません。神を愛するための心と、被造物を愛するための別の心があるのではありません。同じ一つの心で愛するのです[38]。

わたしたちの観想は、兄弟愛の質によって確かめられます。他の人々との関わりにおける細やかな心遣い、その自由を尊重すること、喜びをもって仕える精神、そして人の話に耳を傾ける力は、真の祈りの生活の具体的な表れです。それらは、わたしたちが他の人々の中で神がわたしたちを待っておられることを見ていることの証しです(マタイ25・40参照)。

愛されている子どもとして

20. わたしたちの精神の土台にあるのは、自分が神の子であるという幸いな自覚です。わたしたちは、キリストにおいて、真に神の子です。神の子としての身分から、真の人間的・キリスト教的な兄弟愛が直接生まれます。同じ御父の子どもであると知るなら、他の人々を神によって「愛されている子ども」として見るようになります。すべての人が神の似姿として造られた存在であることを認めるとき、一人ひとりの尊厳を理解することができます。具体的には、一人ひとりの魂には計り知れない価値があると考えることが、心からの愛情へとわたしたちを動かすはずです。一人ひとりが、キリストの血のすべてに値する存在なのです。この真理は、外見や欠点によって他の人々を判断することからわたしたちを解放し、行いと真実をもって、心から互いに愛し合うよう駆り立てます。

キリストによる贖いの神秘を観想するとき、他の人々への愛は、選択的なものでも条件付きのものでもありえないことを、よりよく理解できます。愛徳は、偏見や性格、考え方の違いを乗り越え、つねに一致させるものを探し、交わりの橋を築くことを求めます。人間の限界や弱さが避けられない形で現れる日々の共同生活において、観想的な愛徳は、とりわけ忍耐、理解、そしてゆるしに表れます。

21. 神からゆるされていることを知る人は、恨みやわだかまりを抱え続けることはできません。聖ホセマリアは、ゆるしについて、自らの経験と深い祈りの生活から生まれた、忘れがたい教えを残しています。「ゆるすことを学ぶ必要はありませんでした。主がわたしに愛することを教えてくださったからです」[39]。理解すること、真の愛徳は、人の立場を弁護し、ゆるすことを知り、受けた悪をいつまでも数え上げないことによって成り立ちます。理解するとは、単に我慢することよりもはるかに深いものです。それは、相手の立場に身を置き、その過ちをゆるし、乗り越えていけるよう細やかな心遣いをもって助けることです。

ゆるしは弱さではなく、キリスト教的な愛の力の最も高い表れです。大小を問わず人から受けた仕打ちをゆるすことによって、キリスト者はこの世界に神のいつくしみ深い顔を映し出します。分裂と対立によって引き裂かれた世界にあって、キリストの弟子であるわたしたちは皆、それぞれの仕方で、信仰の光と愛徳の力によって憎しみの闇を消し去り、平和と喜びの種まき人となるよう召されています。

魂への渇きをもって

22. 「聖性が──真のものであるなら──器からあふれ出て、他の人々の心、他の人々の魂を、その豊かさで満たしていきます」[40]。だからこそ、世界のただ中で観想的に生きることから、自然に強い使徒職への熱意が生まれます。神が人類に向けておられる愛を感じるなら、その愛をすべての人と分かち合いたいという燃えるような望みを抱かずにはいられません。

観想的な魂は、使徒的なまなざしで世界を見ます。現代の困難や、神から遠ざかった社会が時としてもたらす障害を嘆くだけではありません。あらゆる場面で、福音の光をもたらす機会を見いだします。世界に向けるそのまなざしは、希望に満ち、道を見失って歩む人々への深い憐れみに満ちています。同時に、そうした人々より自分の方が善い人間だとは考えません(マタイ21・31参照)。

23. 聖ホセマリアは、観想と使徒職の結びつきを、次の言葉に要約していました。「内的生活とは、​パンと​みことばを​通して​キリストとの​一致に​成長する​ことです。​そして​使徒職への​熱意とは、​内的生活が​あれば​当然現れる​ものであり、​内的生活に​比例する​ものなのです」[41]。このように考えると、真の祈りの生活は、霊的な安逸という利己主義の中で消えていくものではないことが分かります。それは燃え、燃え上がり、使徒職へと駆り立てる火なのです。キリスト者にとって、使徒職は付加的な仕事でも、自由な時間にする活動でもありません。それは、自分の魂を満たしている真理と愛を、他の人々にも伝えずにはいられないという、生きる上での必要なのです。

「わたしたちは使徒職をするのではありません。わたしたちは使徒なのです!」[42]と、以前皆さんに書きました。同じ意味で、観想を実践するのではなく、わたしたちは観想者なのですと言うこともできるでしょう。観想は、ほかのことと並んで、ときどき行う何かではありません。それは、神のうちに生き、そして神の視点から人生を見るというあり方であり、わたしたちが行うこと、体験すること、感じることのすべてに浸透するものです。だからこそ、観想、仕事、兄弟愛、使徒職は、唯一のキリスト教的生活を構成する諸側面なのです。祈りの中で神を観想するとき、仕事の中に神を見いだし、兄弟姉妹のうちに神を愛し、喜びをもって全世界に神を告げ知らせるのです。

* * *

24. この手紙を締めくくるにあたり、日常生活における観想の師である聖母マリアに目を向けたいと思います。ナザレの家庭で、ごく普通の家事に携わりながら、マリアは御子を観想していました。「マリアはキリストから目をそらすことなく生き、キリストのことばをすべて胸に納めました。『マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた』(ルカ2・19、2・51参照)。彼女は御子のそばで過ごしたその生涯のさまざまな出来事を思い返すことになりました。なぜなら彼女の心には、数々のイエスの思い出が刻まれていたからです。ある意味でこれらの思い出は、マリアがその地上での生涯を通してたえず唱えていた『ロザリオ』だったといえます」[43]。

聖母マリアに、わたしたちが思いと心の目をイエスにしっかりと向けて、100周年に向かうこの道を歩むことができるよう、助けを願いましょう。そして、自分自身の弱さを起点として、世界のただ中でキリストの愛徳を忠実に証しする者となるよう努めましょう。

すべての愛情をこめて皆さんを祝福します

皆さんのパドレ、フェルナンド

Fernando Ocáriz

ローマ、2026年10月16日


[1] 2026年3月19日付メッセージ。

[2] 聖トマス・アクィナス『神学大全』II-II部、180問3項参照。

[3] ベネディクト十六世『神は愛』31番。

[4] 『カトリック教会のカテキズム』2598-2616番参照。

[5] ベネディクト十六世、一般謁見演説、2011年11月30日。

[6] 『知識の香』14番。

[7] 神のしもべホセマリア・エスクリバー・デ・バラゲルの英雄的徳に関する教令、1990年4月9日。

[8] 『鍛』1014番。

[9] 『会見集(Conversaciones)』116番参照。

[10] 「内的覚書」618番(1932年2月26日)。

[11] 同、619番(1932年2月29日)。

[12] 「聖ガブリエル職についての指針」22番、注28。

[13] 具体的には1931年10月16日のこと(A. バスケス・デ・プラダ『オプス・デイ創立者(El Fundador del Opus Dei)』第1巻、389頁参照)。数年後、この時のことを振り返って、次のように書いています。「自分のものではない光によって、その驚くべき真理を観想しました。それは、決して消えることのないよう、わたしの魂の中で燃え続ける炭火のようになりました」(『手紙15』41番)。

[14] 1958年11月2日の黙想(A. バスケス・デ・プラダ『オプス・デイ創立者(El Fundador del Opus Dei』第3巻、344頁に引用)。

[15] 例えば、ヨハネ15・4以下、一ヨハネ2・6以下、4・12以下参照。

[16] レオ十四世、演説、2026年6月6日。

[17] ベネディクト十六世、一般謁見演説、2011年5月11日。

[18] 『神の朋友』247番。

[19] 説教、2025年6月26日。

[20] 『神の朋友』296番。

[21] 『手紙6』15番。

[22] 『会見集(Conversaciones)』114番。

[23] 『神の朋友』239番。

[24] 同、296番および307番。

[25] 同、252番。

[26] 聖アウグスティヌス『詩編85編についての説教』6。

[27] 『神の朋友』39番。

[28] イエスの聖テレジア『完徳の道』17章2。

[29] 『神の朋友』127番。

[30] 『カトリック教会のカテキズム』2697番。

[31] レオ十四世『人間の偉大さ』146番。

[32] 『主との対話(En diálogo con el Señor)』48番。

[33] 『道』130番。

[34] 同、633番。

[35] 『知識の香』37番。

[36] 同、9番。

[37] 同、37番。

[38] 同、166番参照。

[39] 『拓』804番。

[40] 『鍛』856番。

[41] 『知識の香』122番。

[42] 司牧書簡、2017年2月14日、9番。

[43] 聖ヨハネ・パウロ二世『おとめマリアのロザリオ』11番。