教会への愛、教会における責任

J. エチェバリーア著、Itinerario de vida cristiana、第五章からの抜粋。

教皇聖ヨハネ・パウロ二世と福者アルバロ

「一、聖、公、使徒継承の教会・・・」。「一、聖、公、使徒継承の教会を信じると唱えると時、あなたが言葉を区切って落ち着いて唱える気持ちがよく理解できる。」「心の奥底から心を込めて、私の母でなる教会を愛する、と言えるのは何というよろこびだろう。」『道』にあるこの言葉、聖ホセマリアの愛する心からほとばしり出る言葉は、キリスト者の確信の一つを要約しています。どういう確信でしょうか。それは、なんぴとといえども、孤立したキリスト者ではありえない、つまりキリスト者であるのは、教会において、教会によってである、という確信です。

教会は単なる人間的な組織ではありません。同じ信仰をもち、20世紀前にパレスティナに地に誕生した伝統を継続する人々の集まりでもありません。教会は、人間から成立っていますが、神から来るものです。神から来ると言うのは、人となった神の御子キリストが教会を立て、最初の弟子たちを呼び集め、その後、世界の隅々にまで福音を述べ伝えるために彼らを派遣したからというだけでもないのです。マテオによる福音書にあるように、約束なさったとおり、キリストが「世の終わりまで日々」教会と共においでになるから、さらに、御父との一致のうちに聖霊を遣わしてくださり、その聖霊はキリスト者が洗礼を受けたときからその霊魂内でお働きになり、牧者たちを助け、教会共同体を誕生させて導き、真理のうちに留まらせ、教会にいのちをお与えになるからなのです。

すべての信者は洗礼によって、キリストに従う者となるだけでなく、神秘体の成員・キリストの祭司職にあずかる者ともなります。洗礼を受けた人はみな、信者の共通祭司職を受けました。そして、そのおかげで、キリストが地上で実現させてくださった使命に協力するよう召されています。各々の信者は、自らに固有な召し出しに従って、その使命を果たします。ただし、信者は全員、叙階の秘跡によって付与された職位的(位階的)司祭職を有する牧者と一致して、使命を果たさなければなりません。

教会の秘義を深く知れば知るほど、教会に対する愛が深まり、日毎より忠実な子供として教会に仕えたい思うことでしょう。同じように、教皇職と司教の奉仕職に秘められた神の計画を深く理解するなら、当然の結果として、御父と御子と聖霊である神の摂理が、私たちの信仰への忠実と、道徳面での振る舞いの正しさを維持するために準備してくださった、諸々の手段に対して感謝することでしょう。この信仰と愛に浸された私たちキリスト者は、教会との一致の絆をしっかりと維持し、教皇並びに、ペトロの後継者と一致する他の司教たちと、堅く結ばれていなければなりません。教皇に対する子としての深く誠実な愛情があれば、世界中の司教たちを愛し、彼らのために祈るはずです。

こうして、各々の責任感、自発的な使徒職、そして教会的な感覚は、聖ホセマリアが好んで使った表現によれば、「全ての人がペトロと共に、マリアを通ってイエスへ」という望みとなって現れます。皆がペトロと教会に一致し、聖マリアの強力な執り成しに守られて、全人類と共に、私たちの最高の愛であるイエスに辿り着くことができるのです。