イエス・キリストを知り、イエス・キリストを知らせる

J. エチェバリーア著、Itinerario de vida cristiana、第二章からの抜粋。

キリスト・パントクラートル、セファルー大聖堂(シチリア)

イエス・キリストが御父に遣わされたのと同じように、キリスト者は自らの生き方と行いで、神の国の福音を告げ知らせるために、キリストによって遣わされた者であることを自覚すべきです。「時が満ち、神の国が近づいた。改心して、福音を信じなさい」。この言葉をもって、キリストはその使命を果たし始めました。洗礼の恩寵の助けを受け、キリストとともにキリストにおいて、私たちの言葉と行いを通して、周りにいる人々の耳に「福音を信じなさい」と繰り返すための条件がそろったと言えます。言い換えれば、知性と心をイエス・キリストに向かって開きなさい。救い主に信頼しなさい、と告げることなのです。

イエス・キリストはその教えが世界に広がることをお望みです。キリストの使信がつねに有効でつねに新しいと確信する人に固有な凛々しさと楽観をもって、教えを広げるよう望んでおいでなのです。キリストの教えは愛の永遠の新しさを備えているので、あらゆる時代の、あらゆる状況にいる人々の行いに、いのちを与える力を持っています。

聖ホセマリアがその著書の一つに書いている質問はつねに時宜にかなった適切な問いかけです。「わたしのまわりにキリスト教的な生き方を広めているだろうか。毎日、考えてみなさい。」この単純ながら中途半端な返事を認めない問いかけに、各々が自らの返事をするならば、私たちがキリスト者としての召し出しの奥深くまで入り込んだか、あるいはイエス・キリストに敵対的な雰囲気や考え方を前にして勇気が欠けたのではないか、明らかになるのではないでしょうか。

この問いかけを誠実に受け止めるなら、特に今のように文化の面で変革が起こっているようなとき、内的な首尾一貫性の欠如、個人的私的な生活と社会生活や仕事の生活との間の分裂への傾きを克服できるでしょう。こういう傾きに負けると、真理と善、徳を隅っこに追いやってしまいます。これら放棄すべきでない諸価値の代わりに、楽な考え方、いわゆる「政治的に正しく」、誰をも傷つけない態度をとっていることの証拠です。

キリスト者には人々にイエス・キリストを示すという気高い課題が与えられています。ある人は説教を通して、またある人は奉献生活によって、この課題を果たします。大部分の人々、世の直中で自らを聖化するよう召されている多種多様なキリスト者は、各々に固有な仕事と義務を完全に、またキリストの精神に従って、立派に果たすことにより、主であるイエス・キリストを人々に知らせなければなりません。聖ホセマリアはこう書いています。「主なるキリストは十字架に付けられ、十字架の高見から世界を贖って、神と人間との間に平和をもたらせた。イエス・キリストはすべての人に思い出せておられます。“私は地上から上げられるとき、すべてを自分のもとに引き寄せる”(ヨハネ12,32)。あなたたちが地上のすべての活動の頂点にわたしを据え、各瞬間の義務を果たし、大きなことや小さなことにおいて私の証人となるなら、すべてをわたしのもとに引き寄せる。わたしの国はあなたたちの間で実現する。(・・・)。