創世記第1章の創造の物語の記述において、神は自らの被造物を「良いものであり、美しいものである」とされました。創造主は7回にわたり、自らの業を満足しながら、父親のような眼差しで眺め、それらを「良いもの」(ヘブライ語で「トーブ(tôb)」)として認められました。創造の業における神の満足は、人間を神の似姿として創造した際に「極めて良かった」という言葉で頂点に達します。旧約聖書の他の箇所でも、世界の美しさやそこに住む多様な生き物を喜ぶ創造主の姿が描かれています(箴言8・22-31、シラ43章、詩篇104参照)。
世界の善性を認めるということは、創造がそれ自体で価値を持っているということを意味しています。それぞれの存在は一つの「善」なのです。世界を構成する被造物、ならびにそれらを支配するダイナミズム、法則、関係性を通じて表現されるそれぞれの固有の性質もまた「善」であるのです。世界の善性と尊厳の最も深い理由は、受肉したみことばの神秘に照らして理解されます。全宇宙の神秘的かつ根源的な秩序は、神の御子の人性を受け入れるためのものです。「万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1・16)。様々な被造物の秩序や特性、そのプロセスが持つ内在的な目的、そして時間および空間における宇宙の歴史的発展は、この受肉した御子へと秩序づけられているのです。
世界に対する眼差し
創造主である神の世界に対する眼差しが父性的であるならば、私たちの被造物に対する眼差しは「子としての」受容と感謝に満ちたものであるということができます。私たちは生命を賜物として受け入れ、私たちを受け入れる宇宙の調和と美しさに感嘆します。私たちは、各被造物が神の計画において意味を持ち、尊重されるべき自律性を備えていることを理解することができます。特に、人間の自由は「神の似姿の特権的な印」であるため、最高の考慮に値します。自由のおかげで、人間は子として責任を持って行動し、仕事を通じて、創造を完成へと導くことに協力できるのです。神の子であるという在り方、自由への尊重、そして被造物の自律性の認識は、互いに関連し合っています。
しかし、近代を通じて、神を創造主であり万物の究極の意味であると認めることは、しばしば人間の自由や世界の自律性を認めることと対立してきました。第二バチカン公会議の教父たちは、「現代の多くの人々は、人間活動と宗教とが密接に結びつくことにより、人間や社会や学問の自律性が危うくされることを危惧しているように見える」(『現代世界憲章』36番)と記しました。この対立は、時には「超人」や「神としての人間(ホモ・デウス)」を中核に置く人間の勝利を謳い上げるような高揚した調子を帯び、また時には、様々な形態のニヒリズムや実存主義的無神論のように、苦悩に満ちた色合いを帯びてきました。神と人間が敵対するものと見なされることは珍しくありません。一方を肯定するためには、他方を貶める必要があるかのように見えるのです。このような枠組みの中では、人間の自由は、あらゆる規範的な結びつきの不在として解釈されることになります。そのような自由は、自然に対してさえ、その法則を意のままに拒絶したり覆したりできる力、何ら拘束も受けないものとして理解されるのです。この点を象徴的に示しているのが、技術的あるいは科学的に可能なことはすべて実行してよい、という絶対的自由として理解された「研究の自由」の要求なのです。また、道徳的にデリケートな問題、とりわけ人間の生命の神聖さに関わる問題において、「選択の自由」が誤って理解される場合も、これを象徴する例であると言えます。
キリスト教神学は、人間と神の間のいわゆる二者択一という仮定には根拠がないことを教えてきましたし、今も教え続けています(『現代世界憲章』34-36番参照)。キリスト者は、創造主であり私たちの主である神と世界との結びつきを信じることが、自らの自由や世俗性(すなわち、この世と歴史の中での生活)、そして被造物の正当な自律性を認めることを妨げないことを知っています。受肉したみことばの真理に照らされ、信者は「神の国」を築こうと努めると同時に、「人間の国」を築くことを望みます。この二つの視点の統合は、神の前における人間の「子としての在り方」に重点を置くことで可能となります。この資質こそが、キリスト者のすべての行動(子としての自由、子としての従順、子としての仕事、子としての祈りなど)を形作ることを可能にするのです。
人間という存在の主体性および人間が持つ自由と、人間とこの世界は創造主である神に依存しているということを認める宗教的絆は、矛盾することなく両立することであると歴代の著述家たちは述べてきました。聖アウグスチヌスが主体としての人間とその日々の生き生きとした経験に与えた重要性や、聖ジョン・ヘンリー・ニューマンの思想における良心の優位性を考えれば十分でしょう。また、ブレーズ・パスカル、セーレン・キェルケゴール、ジャン・ムルーなどが強調した信仰の人格主義的・実存的な側面も想起されます。他の著述家たち、たとえば福者アントニオ・ロスミニを挙げることができますが、彼らは社会、政治、そして学問の分野における諸活動におけるキリスト者の自由と責任について考察しました。教会の社会教説においては、特に19世紀末以降、「人間の国」を築くことの重要性を強調し、この取り組みを「神の国」へと続く道の不可欠な一部として考慮してきました。
オプス・デイの創立者の教えも、この同じ展望の中に位置づけられます。それは本質的に霊的・司牧的な関心から生まれましたが、明確な神学的意味も含んでいます。世界で働くキリスト者の「神の子としての自覚」の強調は、聖ホセマリアの説教の鍵となる要素でした。イエス・キリストの信仰と道徳、そして教会の教えという枠組み以外に制約のない、プロフェッショナルな決断、政治的・社会的な決断におけるすべてのキリスト者の自由は、彼の著作の中で特に重要な位置を占めています。仕事の聖化と、キリスト者が各自の仕事を責任感を持って果たすべきことに関する彼のビジョンは、地上の諸活動が固有のダイナミズムと価値を持ち、それを遂行する者の専門性と知識によって規定される固有の法則に従うものであることを強調していました。
現代の社会および労働環境という文脈において評価するならば、近代のいくつかの潮流が、人間という主体の正当な再評価と、同じく正当であるはずの神の主権の肯定との間に提示してきた──そして、部分的には今なお提示し続けている──偽りの二者択一を克服するために、聖ホセマリアの説教と著作は貴重な手がかりを提供しています。仕事および人間の諸活動を、創造についての神の計画に照らして理解することは、それらの意味を無理に押しつけたり、それらを不当に扱ったり、あるいは無効にしたりすることを意味するのではなく、その正当な自律性を評価し、尊重することを意味するのです。これまですでに指摘してきたように、この考え方は、聖ホセマリアが「受肉の法則(lex incarnationis)」について有していた深い理解に由来しています。すなわち、受肉したみことばが真の人性をとったことによって、キリスト教的な眼差しは、罪という唯一の例外を除いて、人間的なものすべてを尊重し、その価値を消し去ることなく、キリストに引き寄せ、高め、あがなうのです。
「キリスト者は、自らの義務である仕事に従事するとき、人間的なものに固有の義務を避けたり無視したりすべきではありません。人間の諸活動を祝福するという言葉が諸活動に固有な働きを否定したりごまかしたりすることであると解釈されるようなことがあるとすれば、そのような表現を使いたくありません。個人的な考えとしては、付け足しの看板のように、通常の活動に宗教的な形容詞を仰々しく付すことには賛成できません。反対意見は尊重しますが、そうすることによって私たちの信仰をみだりに用いる危険があるからです。さらにもう一つの理由は、カトリックというレッテルを、必ずしも信義にかなうとは言えないような立場や運動を正当化するために使う人々もいたからなのです」(『知識の香』184番)。
聖ホセマリアの説教、そして彼が創立したオプス・デイが最初に想定している対象は一般信徒です。本質的な特徴である在俗性によって信徒は地上の現実を内側から聖化するよう招かれています。聖ホセマリアは彼らに対して、二つの国の市民としての取り組みを支え、聖職者至上主義(clericalismo)と世俗主義(laicismo)という両極端に陥るリスクを避けることができるように、霊的、修徳的、神学的な道具を提供したいと望んでいました。これらの理由から、私たちは今、これらの問題に関するオプス・デイ創立者のいくつかの教えを、より注意深く再読することにします。
世俗性、自由への愛、そして市民生活と職業生活における責任
世界に生き、行動するキリスト者の世俗的条件への言及は、聖ホセマリアの著作や説教において頻繁に見られます。これはオプス・デイの精神の中核の一部として示されています。なぜなら、その条件に基づいて、彼の霊的な子らは仕事や日常活動を通じて聖性を追求するよう招かれているからです。
「子どもたちよ、使徒が次のように書くことができたのも理解できるでしょう。『すべてのものは、あなたがたのものです。あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです』(一コリント3・22-23)。(…)聖書のこの教えは、知っての通りオプス・デイの精神の核心にありますが、あなたがたを、仕事を完全にやり遂げ、神と人々を愛することへと導くはずです。(…)今述べた真理から考えると、皆さんが生活しておられる世俗社会のたくさんの面に光を与えることができます。例えば、社会の一員としての行動について考えてみましょう。教会や聖堂だけでなく、この世界こそキリストとの出会いの場であると知る人なら、世界を愛するはずです。知的にも専門的にも良い形成を受けるよう努め、自らが活動する分野の諸問題について、自由に考えを育む。その結果、独自の判断を下すでしょうが、それは、単に自分の判断に留まらず、人生の大小様々な事柄の中に神のみ旨を見つけるために謙遜な努力を続けるキリスト者の判断になることでしょう」(『会見集』115-116番)。
「世俗性(secularidad)」という概念は、世界の無宗教的な見方を示す「世俗主義(secularismo)」とは大きく異なります。また、あらゆる形態の人間社会から神の存在や宗教的意味を排除しようとする歴史的プロセスとしての「世俗化(secularización)」とも区別されます。確かに「世俗化」という言葉の解釈の中には、社会や人間活動の自律性を再確認しようとするものがあり、そのため「脱聖職者化」や「脱神聖化」という肯定的な意味で用いられることもあります。聖ホセマリアは主に「世俗的(secular)」という形容詞と「世俗性(secularidad)」という名詞を用い、一方で「聖職者至上主義(clericalismo)」を批判しました。そうすることで、世俗化について語りながら、宗教の侵入的あるいは神権政治的な在り方に対して市民生活の自律性を再評価する人々が擁護するのと同じ価値観を肯定したのです。
「キリスト者は、全く自由に、教会の教導職が定めた範囲内で、政治や社会、文化などの問題に自ら望む方法で関与することができます。もちろん、自由の行使に伴う責任を負うのは当然です。万一、教導職の範囲を越えるようなことがあれば、その時こそ、私はその人の救いを思って心配することでしょう。その時には、告白する信仰と行いとが明らかに対立することになるわけですから、私ははっきりと注意するつもりです。しかし、神法から離れていない限り、意見を述べる自由は、侵すことのできない権利として尊重されなければなりません。ただ、このことを理解できない人々もいます。彼らは十字架上でキリストが勝ち得てくださった自由が本当に何を意味するかを知らないのです。このような人たちは互いに敵対する党派心に負けて、現世に関する意見を必ず信ずべき教義であるかのよう押しつけ、人間の尊厳を卑しめ、信仰の価値を否定し、その結果、信仰に関するとんでもない誤りを生じさせることになります」(『神の朋友』11番)。
彼は信者に対し、人間の争いに教会を巻き込んだり、「カトリック」という形容詞を使って、世間で行動する人々の個人的責任や専門性にのみ委ねられるべき関係に影響を与えたりすることなく、自由と責任を持って行動するよう励ましています。オプス・デイ創立者が用いるトーンは、多くの場合、力強く説得力のあるものです(『知識の香』99番、『会見集』34番、47番など参照)。簡潔で効果的な一言が彼の考えを要約しています。「キリスト者は教会に仕えるべきであって、教会を(自らの目的のために)利用すべきではない」(『拓』355番、『会見集』90番参照)。信じない人々の目に、教会を、福音の普及とはほとんど関係のない目的のために自分たちの利益になる関係や影響力を得るための圧力団体として提示してしまい、多くの信者が使徒職や福音化に与えてきた損害を考えれば、これは必要な勧告だとういうことがわかります。
仕事の聖化というテーマは、責任ある自由に裏打ちされた世俗性を求める聖ホセマリアの勧告の論理の中に自然に組み込まれています。キリスト者が仕事において得たいと願う成果や、社会条件を改善しようとする正当な試みは、縁故主義や教会関係で築かれた人脈ではなく、徳と専門性に支えられなければなりません。実際、聖職者至上主義は、市民生活や職業生活の自律性を尊重しない聖職者だけでなく、自らが信者であることを利用して、本来なら質の高い仕事によってのみ達成されるべきことを得るための近道を探す信徒にも関わっているのです。
したがって、司牧者の任務は、信徒に取って代わったり彼らを指図したりすることではなく、各キリスト者が職業の場や家庭・社会生活において決定を下す際に、キリスト者としての基準を持って行動できるように形成することにあります。そのためには、信徒が教会の社会教説、特に自分の職業や活動に密接に関わる側面について深く知り、個人的な責任を持ってそれを適用できるようになることが必要です。これは、同様に教会の教えの対象である社会や家庭の務めについても当てはまります。世界の中で自らの日常の現実を聖化したいと願い、キリスト教的召命に従ってそうするための光と助言を求める人々にとって、これらの事柄が祈りや霊的指導の内容となるのは当然のことです。実際、地上の現実の正当な自律性を認めることは、自分の仕事を、良心を導く使命を持つ人々に対して閉ざされた「禁域」にすることを意味しません。イエス・キリストと一致したいという望みは、自らの活動のあらゆる側面に染み渡り、人生のあらゆる面を照らさなければならないのです。
「『私はなかなかの人物だ』と、あなたは考えている。私の研究(私の調査研究や著述)、私の社会的地位(私の家名)、私の政治活動(私の職責)、私の年齢、それにもう私は子供ではない、と。実にその通りであるからこそ、あなたには他の誰よりも指導者が必要なのである」(『道』63番)。
聖ホセマリアが一貫して固く守り抜いた守秘義務や専門職での機密保持は、信者の仕事や生き方をキリスト教的に方向づけることを可能とするような深い霊的指導と、何ら矛盾することなく共存することができるものです。
オプス・デイ創立者がこの分野で生きるよう教えた行動様式が持つ、最も興味深い神学的意味の一つは、奉仕的祭司職と信者の共通祭司職との関係についてのより深い理解です。これについては、第二バチカン公会議が非常に重要な記述を残しています(『教会憲章』2、10-11番参照)。公会議の数十年前から、聖ホセマリアは自らの霊的な子どもたちである司祭と信徒に対し、奉仕的祭司職は信者の共通祭司職に奉仕するものであり、後者は「目的」の秩序──世界を神へと秩序づけること──において働き、前者は「手段」の秩序──秘跡の授与と霊的指導──において働くことを教えていました。1968年に『オッセルバトーレ・ロマーノ』紙に掲載されたインタビューで要約したように、信徒の召命がより良く理解されれば、司牧者たちも自らの召命をより良く生きることになります。
「信徒が教会の聖性と使徒職に寄与する固有の仕方は、現世の諸構造のただ中で自由かつ責任をもって行動し、そこにキリスト教のメッセージの〈酵母〉をもたらすことです。キリスト教的生活の証し(生き方)、神の名において光を与える言葉、そして、他者に仕え、共通の問題の解決に寄与するための責任ある行動──これらはいずれも、そのような現存の表れであり、それをもって一般のキリスト者は自らの神的使命を果たすのです。(…)さらに付け加えたいと思います。信徒におけるこのような自覚の高まりとともに、司牧者たちの感受性にも、それに対応する発展が生じています。彼らは、信徒の召命に固有なものを認識するようになっています。この召命は、神の民のただ中で、神がそれを与える無限にしてきわめて多様な形における聖性と使徒職のカリスマを発見させる司牧を通して、促進され、支えられなければならないのです」(『会見集』59番)。
世俗性と自由への愛着から、オプス・デイの創立者は、正当な意見の多様性が認められるべき問題において、信者に「公式にカトリック的な」立場を強要しようとする立場──時には善意で推進されていましたが──とは一線を画しました。歴史家たちが明らかにしているように、このことは、聖職者だけでなく信徒の間でも、不満や誤解を招く原因となりました。彼は手紙の中で次のように書いています。
「地上の様々な出来事や状況を判断する際、皆さんの信仰が指針とならなければなりません。皆さんは完全な自由をもって行動するでしょう。なぜなら、カトリックの教義は現世的な問題に対して具体的・技術的な解決策を押し付けるものではないからです。しかし、それらの人間的な問題に対する感受性と、それらに立ち向かい、キリスト教的な結末を与えるための責任感を持つよう求めています。すべての人への愛は、自らの良心に従って、勇気を持って現世的な問題に取り組むよう導くはずです。(…)もう一度繰り返します。皆さんには判断の完全な自由があり、個人的な自由をもって行動します。したがって、責任は皆さんのものです。皆さんの基準が常にキリスト教的なものであり、愛徳が皆さんの行動を動機づけるものでありますように。そうすれば、皆さんは使徒的活動を行うことになります。さらに、他者の正当な意見を尊重し、平和と理解の中で共に生きる術を知っていればなお素晴らしいことです」(『手紙14』28-29番)。
オプス・デイの創立者が、この世俗的で責任あるキリスト教的生活のビジョンを総合的に提示した最も有名で情熱的な一節は、1967年にパンプローナのナバラ大学キャンパスで行われた説教「愛すべき天地」の中にあります。神と人々の前で正しく行動するキリスト者について、彼は次のように述べています。
「このようなキリスト者であれば、自分は教会を代表するために教会から社会に下っているとか、自分の提案する問題解決が〈カトリックの解決法〉だとか、考えたリ述べたりすることはありません。およそあり得ないことです。万一そのようなことになれば、それこそ聖職者主義、〈官僚的カトリシズム〉とでも称すべきでしょう。呼び名は別にしても、物事の本質を著しく歪めることに変わりはありません。皆さんはあらゆる所に本物の〈社会人としてのものの考え方〉を広めてくださらなければなりません。それには三つの原則があります。
* 自分の言動について責任を負うという高潔な態度を維持すること。
* 誰もが自由に意見を述べうる事柄に関して、同じ信仰の兄弟が自分とは異なる解決法を提案したとき、彼らを尊重できるキリスト者であること。
* 人間的な派閥争いを母なる教会に持ち込み、教会を自らの利益のために利用しないカトリック信者であること」(『会見集』117番)。
人間の国を築くこと、それは神の国への道
人間が世界を変え、地上の国を築く仕事は、個人としても集団としても各々が神の国へと歩む道を妨げるものではありません。それどころか、仕事が真に神に向けられたものであるためには、人間の国において真正な「市民権」を行使する必要があります。教会の歴史における最初の数世紀から、正義にかなった法律や正当な権威を尊重し、模範的かつ誠実に生きることの現れとしての「信徒性」や「世俗性」は、キリスト教的使徒職のための不可欠な条件と考えられてきました。新約聖書はペトロの第一の手紙(一ペトロ2・13-21参照)において、その美しい証しを伝えています。そこでは、キリスト者が自らの責任を引き受けるよう勧告されています。なぜなら、人間の国は神の国と同じくらい、彼らに属しているからです。
『手紙29』の中で、オプス・デイ創立者は、神に属するものと皇帝に属するものを区別するイエスの教え(マタイ22・21参照)に対する彼の解釈を提示しています。キリスト教の最良の伝統に従い、聖ホセマリアは、そのような区別が現世の義務への無関心を意味するものではないことを明らかにしています。
「時々、主が神のものと皇帝のものを区別されたことについての誤解があります。キリストは、教会と国家という二つの法的な権威の領域を区別し、そのことにより、皇帝独裁と「聖職者主義」という有害な影響に対する予防を図りました。(…)しかし、キリストが定められた区別は、宗教を神殿(香部屋)に押し込めることでは全くありません。また人間的な事柄は、神とキリスト教の掟と関わりを持たない形で整備されなければならないということでもありません。なぜなら、それはキリストの信仰を否定することになるからです。信仰は、全人格的なキリストへの一致を要求し、そして人間は霊魂と体からなる個人であり、この個人は社会の一員だからです。
キリストのメッセージは個人的な信心の実践という狭い領域だけでなく、人間の生活全体を初めから終わりまで照らします。世俗主義は行いによる信仰の否定です。信仰によって、この世の自治は相対的なものであること、そしてこの世のすべての事柄の究極的な意味は神の栄光と人々の救いであるということが分かります。世俗主義はその信仰を否定するのです」(『手紙29』31番)。
聖ホセマリアは、『拓』の「市民権」の章でこれと同じ展望を再び取り上げています。世界は「私たちのもの」であり、私たちに属していると彼は断言します。なぜなら、そこは大多数の受洗者が、自らをキリストに倣うものとする徳を行使すべき場所だからです。
「世界…、「世界は我々のものだ」。頭を上げて天を見つめたあなたは、自分の収穫物の間を君主然と闊歩する農夫のように、「キリストは支配しなければならない(regnare Christum volumus!)」、キリストがこの世界を支配すべきであると主張する」(『拓』292番)。
「良いカトリック信者であることと、忠実に社会に仕えることとの間に、対立があるというのは本当ではない。同じように教会と国家が、神から託された使命を果たすにあたり、それぞれの権威を正当に行使しても、両者が衝突するはずがない。これと反対のことを主張する人は、嘘、そう、嘘をついている。彼らこそ偽りの自由を口実にして、〈ご親切にも〉、カトリック信者はカタコンブ(地下墳墓)にお戻りなさいと言う人々なのである」(『拓』301番)。
冒頭で述べたように、キリスト教的聖性は世俗的な生活の文脈において十分に可能であると教えることは、オプス・デイの精神と使命の中核に立ち戻ることです。すなわち、子としての自由をもって「世(in saeculum)」、つまり地上の現実や一時的な事柄の中で働きながら聖化されることです。そのためには、世界の固有の法則、被造物の本質、そして人間の国に関することを熟知し、そのダイナミズムと自律性を尊重することが求められます。この取り組みは、人間社会をキリスト教化し、イエス・キリストの愛によって内側から変革することへと導きます。
「私たちが造られたのは、この世に最終的な神の国を建てるためではありません(ヘブライ13・14参照)。(…)だからと言って、私たち神の子がこの世の諸活動に無関心でいるわけにはゆきません。神は諸活動の直中に私たちをお置きになりましたが、それは、この世の諸活動を聖化し、その中に聖なる信仰を浸透させるためです。信仰のみが、真実の平和と喜びを、人々の心の中やその他色々な環境にもたらすことができます。これは1928年以来絶えず説き続けてきた考えです。社会のキリスト教化を急がなければなりません。社会のあらゆる階層に超自然的感覚を植えつけ、一人ひとりが互いに日々の義務、仕事、職務を、恩寵のレベルにまで高めなければならないのです。こうして初めて、人々の職業はすべて新たな希望に照らされ、時間を超えて、衰えを知らぬものとなるでしょう」(『神の朋友』210番)。
オプス・デイ創立者が説いたことは、地上の諸活動がイエス・キリストの過越の神秘によって照らされるとき、その意味と価値に関して、第二バチカン公会議の『現代世界憲章』の内容と、際立った一致を示しています(33-39番参照)。これらの箇所において、公会議は、地上の諸現実の正当な自律性を擁護し(36番参照)、神の国を築くことにおいて、人間の国を建設することの重要性を主張しています(34番参照)。また、このダイナミズムには、大きな業だけでなく、日常生活のありふれた状況も寄与することを認めています(38番参照)。公会議は、愛によって世界を変革するために人間の行為が担うべき「キリスト論的な形態」に言及することによって、聖ホセマリアにおいては明示的に示されている自由の「子としての」性格を、暗黙のうちに認めています。実際、人間の仕事が神の国に協力することは、自動的な仕組みの結果ではありません。人間の活動を完成へと導き、それによって被造物をその完成へと向かわせることを可能にするのは、恩恵と聖霊の賜物なのです。
このシリーズはジュセッペ・タンゼラ=ニッティ教授によってコーディネートされ、その協力者には教皇庁立聖十字架大学の教授が数名含まれています。
