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「私はあなたがたを友と呼ぶ」(1) ~神様には友がいるのか?~
神様はいつもご自分から私たちとの友情を求められます。ご自分との交わりに生きるよう私たちを招いて下さるのです。たとえ人間に弱さがあっても、人々が道の途上で埃を立てることがあっても、神様がお考えを変えることはありません。この無条件の愛に包まれるに任せるならば、私たちは光と強さに満たされ、周囲の人々の良い友となることを学ぶでしょう。キリスト者の生活についての新しいシリーズが始まります。
「主を知り、あなた自身を知ること」(1): キリストの心を「盗む」
「善良な泥棒」は「ただひとことで、キリストの心を盗み、天国の扉を自分のために開いた」。「祈り」を私たちは「キリストの心を盗むこと」と定義することができるかもしれません。そして「祈り」はいますぐ私たちがキリストのすぐ近くで生きることを可能にしてくれます。
新たなる〈地中海〉、内的生活のあり方を変える新たな発見
神は私たちの父であり、イエスは私たちの友人であり、聖霊は私たちの心に宿り、私たちには母としてのマリアがいます。これらの現実のそれぞれは、聖ホセマリアにとって「新しい地中海」であった。彼の発見は、今の私たちの内的な生活の風景を変えることもできる。
新たなる〈地中海〉 (V):「マリアを通ってイエスに」
聖ホセマリアは子供の頃から聖母に祈っていましたが、成長するとさらに多くのことを発見しました。天国のように近い母親の腕の中にいることに気がついたのでした。
新たなる〈地中海〉 (II): :「イエスはわたしの親しい友」
聖ホョセマリアは、私たちの悩みや困難を理解してくださる「偉大な友」であるイエス様に伴われていることを、いつも知っていました。なぜなら、イエスも人でもある」からです。
新たなる〈地中海〉:(I-II)「十字架を担うということは、キリストとひとつになること」
神との親子関係の自覚は、私たちの人生のある局面に特別な仕方で結びついています。その局面とは、悩み苦しむとき、つまりわたしたちがイエスの十字架に与るときです。