年間第15主日(A年)福音書の黙想

「イエスは種蒔き人です。キリスト信者を使って主は種を蒔き続けておられます。キリストは、傷ついた手で麦を握り締め、麦を御血にひたして浄めた後、畑の畝、つまり世界中にお蒔きになりますが、麦粒を一粒ずつ蒔いていかれます。キリスト信者がめいめい自らが置かれた場で、主のご死去とご復活の豊かな実りを証明するために」(聖ホセマリア『知識の香』157)。

年間第15主日(A年)の福音朗読ではマタイによる福音書13章1ー23節が読まれます。朗読箇所に関連する聖ホセマリアの言葉を紹介します(説教より抜粋)。


「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」[1]

この有様は今も続いています。神である種蒔き人は今も種を蒔いておられます。救いの業はまだ続行されており、主はそのために私たちをお使いになりたいのです。つまり、キリスト信者が地上のあらゆるところで主の愛のために道を切り拓くよう、お望みです。言葉と模範で、地の果てまで神の教えを広めるように招いておられるのです。私たちは教会や社会の一員としての義務を忠実に果たしつつ、各自もう一人のキリストとなって、自らの職業や義務を聖化しなければなりません。

神の手から出たこの愛すべき世界、私たちを取り巻く世界を見るならば、あのたとえ話の場面が実際に実現しているのに気づきます。イエス・キリストの言葉は実り豊かで、多くの人に自己を捧げ、忠誠を尽くそうという望みを起こさせるのです。神に仕える人々の生涯やその振舞いは歴史を変えました。そしてさらに、神について知らない多くの人々も、気づかないうちに、キリスト教に由来する理想を求めて生活しているのです。

一部の種は不毛の地や茨やあざみの中に落ちたことも事実です。信仰の光に対して自らを閉ざす人々がいます。平和や和解、兄弟愛などの理想は歓迎され、大声で叫ばれていますが、その理想と行いとは裏腹であることも多いのです。ある人々は暴力に訴え、またある人々は心を無感覚にする無関心という残酷な武器を用いて、神の声が広まらないうちに抑え込もうと空しい努力を繰り返しています。

このようなことを考えた後で、キリスト信者としての使命を再認識すると共に、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」[2]と言われるように、キリストの肢体となった私たちの中におられるイエスを、聖体のうちに見つめたいものです。神が聖櫃の中に留まる決心をされたのは、私たちに食物を与え、強め、神に近いものとし、私たちの努力や業を効果あるものとするためでした。イエスは、同時に種蒔き人であり、種、そして種蒔きの結実、つまり永遠の生命のパンでもあります。


イエスは種蒔き人です。キリスト信者を使って主は種を蒔き続けておられます。キリストは、傷ついた手で麦を握り締め、麦を御血にひたして浄めた後、畑の畝、つまり世界中にお蒔きになりますが、麦粒を一粒ずつ蒔いていかれます。キリスト信者がめいめい自らが置かれた場で、主のご死去とご復活の豊かな実りを証明するために。

キリストの手の中にいるのですから、私たちは救い主の血にひたされ、宙に蒔かれるに任せ、神がお望みになるままの生活を受け入れるべきです。実を結ぶためには、種が土に埋められて死ななければならず、その後で、茎が、そして穂が出ることを[3]、実を結ぶのは芽を吹き、穂が出た後であることを納得しなければなりません。姿を現した穂から、神がキリストの体に変えるパンが作られるのです。このようにして私たちは、種蒔き人であったキリストに再び一致することができます。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」[4]

まず種を蒔かなければ、実は結びません。従って、神の言葉をふんだんに〈撒き散らし〉、人々にキリストを知らせて、人々がさらにキリストを知ろうと望むよう努める必要があるのです。キリストの体、生命のパンである聖体の祝日こそ、人々が真理や正義、一致と平和を渇望する状態を黙想するためによい機会です。平和を渇望する人には、聖パウロと共に、「キリストはわたしたちの平和であります」[5]と繰り返し、真理を望む人には、イエスこそ、「道であり、真理であり、命である」[6]ことを思い出させるのです。一致を望む人がいれば、「(すべての人が)完全に一つになるように」[7]と望むキリストの前に連れて行き、正義を渇望する人があれば、人々の一致の根源、つまり私たちは皆、神の子であり互いに兄弟であるという事実を自覚させてやらなければならないのです。

平和、真理、一致、正義と言いますが、人間の共存を妨げる障害を乗り越えることは、時になんと難しく思われることでしょう。しかしキリスト信者は、〈兄弟愛という大きな奇跡〉を行うよう召されています。神の助けによって、人々がキリスト教的に接し合い、「互いに重荷を担い」[8]、完徳の結びであり掟の要約である[9]愛の掟を実行するよう努力するために仕事を与えられているのです。

なすべきことが多く残されていることは否めません。ある時、もう色づいた穂が風に流されて動くのを見ておられた時のことでしょう。イエスは弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」[10]。あの時と同じく今日でも、「一日の労苦と暑さ」[11]に耐えて働く、雇われ人は相変らず不足しています。もし、すでに雇われている私たちが忠実でないならば、ヨエルの預言通りになる恐れがあります。「畑は略奪され、地は嘆く。穀物は略奪され、ぶどうの実は枯れ尽くし、オリーブの木は衰えてしまった。農夫は恥じ、ぶどう作りは泣き叫ぶ。小麦と大麦、畑の実りは失われた」[12]

間断なく寛大に仕事を受け入れる心づもりがなければ、つまり、土地を耕し、種を蒔き、畑の手入れをし、刈り入れと脱穀まで、時には長期にわたる辛い仕事を続ける用意がなければ、収穫は期待できないのです。天の国は歴史において、時間の中で建設されます。そして神はこの天国の建設を私たち全員に託されました。誰も免除されていないのです。聖体におられるキリストを、今日、礼拝し、眺めるとき、まだ休息のときは来ていないこと、労働時間がまだ続いていることを考えたいものです。

箴言には、「自分の土地を耕す人はパンに飽き足りる」[13]と記してありますが、この一節を霊的に、私たちに当てはめればどうなるでしょうか。神の畑を耕さず、身を挺してキリストを伝えて神の使命を忠実に果たさない人は、聖体のパンの何たるかを理解できないことでしょう。苦労せずに手に入れたものを、誰もあまり大切にしないからです。聖体を大切にし、そして愛するには、イエスのお通りになった道を歩まなければなりません。つまり、麦粒となって自らに死んだ後、活力に溢れて復活して、豊かに実り、百倍の実を結ぶのです[14]

このような道は〈愛の道〉と呼ぶことができます。〈愛する〉とは、広い心をもち、まわりの人々の心配事を他人事と考えず、また、隣人を赦し理解できること、言い換えれば、イエス・キリストと共にすべての人のために自らを犠牲にすることなのです。キリストと同じ心で愛するなら、実際に仕えることができるはずであり、愛をもって真理を守ることができるでしょう。キリストと同じ心で愛するには、私たちの心の中にあってキリストの存在を妨げるもの、すなわち、安易な生活への執着、利己主義への誘惑、自己顕示の傾向などをすべて取り除き、毅然とした態度を維持しなければなりません。私たちの中にキリストの生命を再現したときはじめて、人々にもキリストの生命を伝えることができるからです。麦の粒のように死を経験してのみ、この世の只中で働き、世界を内部から変え、実り豊かにすることができるのです。

時には、このようなことはすべて美しく立派であるが、実現不可能な夢に等しいと考える誘惑に襲われるかも知れません。しかし、信仰と希望を新たにすることについて考えたばかりです。私たちの夢は神の素晴らしい働きによってことごとく実現されるという絶対的な確信を持ち、毅然として踏みとどまりましょう。ただし、そのためには、希望というキリスト教的徳をしっかりと身に着けなければなりません。

主が毎日司祭の手の中に降りて来られるという驚くべき奇跡、目前で実現する奇跡に慣れてしまっては大変です。イエスは私たちが目覚めているよう望んでおられます。主の力の偉大さに気づくために、また、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」[15]。すなわち、あなた方が効果的に働き、人々を神の方へ引き寄せることができるようにという主の約束を再び聞くためなのです。ですから、主の言葉に信頼しなければなりません。舟に乗って櫂を操り、帆をあげて、キリストが遺産として残された世界という海に漕ぎ出すのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」[16]

キリストが心の中に灯された使徒的熱意を、偽りの謙遜によって冷ましたり、失ったりしてはなりません。私たちが無力で哀れな存在であることは事実ですが、主が私たちの過ちをご存じの上でお呼びになったことも事実なのです。人間の限界や弱さ、不完全、罪への傾きなどが、神の慈悲深い目に留まらないことはあり得ません。けれども、主は戦いを要求し、欠点を認めるよう求めておられます、おじけづくためではなく、痛悔して自己改善の望みを強めるために。

さらに、道具にすぎない自分を常に自覚しているべきです。「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」[17]。私たちが伝えるべき教えや使信には、固有の豊かさ、無限の豊かさが備わっていますが、それを付与したのは私たちではなく、キリストであります。救いの業を続け、世の贖いを実現しておられるのは神ご自身なのです。

失望感に押し流されることも、あまりにも人間的な打算に拘泥することもなく、確たる信仰を持ちたいものです。障害を乗り越えるためには、まず働き始めなければなりません。そして、ひたすら仕事に専念するのです。そうすれば、仕事に専念しようという努力が新しい道を拓いてくれますから。どんな困難にも役立つ〈万能薬〉、それは聖性と神への献身であると言えましょう。

聖人とは、天の御父がお定めになった通りに生きる人のことです。聖人になるなど、難しいことだと言えるかも知れません。確かに高い理想には違いありませんから。しかし、同時に容易だとも言えるのです。手の届く所にあるのです。病気に罹ったとき、薬が手に入らないことが時々ありますが、超自然的なことにおいては、こんなことはありません。薬はいつも手近にあります、つまり、聖体に現存するキリスト、それのみならず制定なさった他の秘跡によっても恩恵を与えてくださるのです。

言葉と行いをもって繰り返しましょう。「主よ、あなたに信頼いたします。私にはあなたのいつもの心遣いと日々の助けだけで十分です」。大きな奇跡を神に求める必要はありません。けれども、信仰を強め、知性を照らし、意志を強めてくださるようお願いすべきです。イエスはいつも私たちの傍にいて、神に相応しい助けを与えてくださるからです。

私は司祭としての生活を始めたときから、誤った〈神化〉についていつも注意を促して来ました。ありのままの姿、泥でできている自分を見ても心を乱してはなりません。心配する必要はないのです。あなたも私も神の子であり ― これが正しい〈神化〉です ― 永遠の昔から神の召し出しによって選ばれているのです。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」[18]。ですから、私たちは神のもの、哀れで惨めな存在ではあっても、神の道具となった身ですから、自らの弱さを忘れない限り効果的な働きができるのです。誘惑は私たちがどれほど弱いかを教えるだけであることを忘れずにおきましょう。

自らの弱さを嫌というほど味わったとしても、そのときこそ神の手にすべてを委ねるときです。伝説によると、あるとき、アレキサンダー大王は施しを願う物乞いに会いましたが、大王は立ち止まってその男を五つの都市の領主にするように命じたのです。男は驚き、うろたえて叫びました。「そんなに大層なことは、願っておりません」と。すると大王は、「お前に相応しいことをお前は願った。それで、私は私に相応しい施し方をしたのだ」と答えたのです。

力の限界を痛感する時にはなおさらのこと、父である神、子である神、聖霊なる神に眼差しを向け、神の生命にあずかっていることを自覚しなければなりません。主が傍にいてくださるのですから、後ろを顧みる[19]理由などあり得ないのです。忠義・忠節を尽くし、頑張って義務を果たしましょう。他人の過ちを理解し、自らの過失を乗り越えるための愛と励ましをイエスに求めましょう。そうすれば、失望落胆はすべて、あなたと私の失望も全人類の落胆も、キリストのみ国を支える柱となることでしょう。

自らの病を認めると同時に、神の力に対する信仰を告白したいものです。楽観と喜び、さらに、神に役立つ道具であるという確信、これらがキリスト信者の生活の隅々まで行きわたらなければなりません。聖なる教会の一部であると感じ、ペトロの堅固な岩は聖霊の働きに支えられていることを自覚するなら、瞬間毎に少しずつ種を蒔くともいえる、日々の小さな義務を果たす決心がつくでしょう。そして、穀倉は収穫物で一杯になるのです。

(ホセマリア・エスクリバー『知識の香』150ー151、157ー169)


[1] マタイ13・3ー8

[2] 一コリント12・27

[3] ヨハネ12・24ー25参照

[4] 一コリント10・17

[5] エフェソ2・14

[6] ヨハネ14・6

[7] ヨハネ17・23

[8] ガラテヤ6・2

[9] コロサイ3・14、ローマ13・10参照

[10] マタイ9・38

[11] マタイ20・12

[12] ヨエル1・10ー11

[13] 箴言12・11

[14] マルコ4・8参照

[15] マルコ1・17

[16] ルカ5・4

[17] 一コリント3・4ー6

[18] エフェソ1・4

[19] ルカ9・42参照