神のやさしさ (III) :神の開かれた心。慈しみと使徒職

キリストの歴史に対する支配はいつくしみによるものです。イエスは、私たちキリスト者が、いつくしみを世に示すことを望んでおられます。

イエスは「わたしの国はこの世のものではない」と、ユダヤ人の非難に関するピラトの質問にお答えになります。主は確かに王ですが人の世で言われているような王ではないのです。「わたしの国はこの世には属していない。もし、私の国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、私の国はこの世には属していない」[1]。少し前にゲッセマニでペトロに剣を鞘に納めるように諭された時同じようなことを言われました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」[2]。神は、人間の武器の強さで世に立ち入ろうとなさるのではありません。そうではなく「心の思いや考えを見分けることができるみ言葉の両刃の剣」[3] で、そうされるのです。イエスは「勢力範囲を広げようと戦うのではありません。囲いを破り、確実性を問題視されるのは、御父と聖霊ともども地上にもたらそうと望んでおられる神の慈しみの奔流に突破口をあけるためなのです。最高の善からほとばしり出る神の御憐れみは、新たなことを告げ、それをもたらして、心を癒し、自由にし、主の恵の年を宣言します」[4]

神は、形式的で中身のない従順そうな態度に対してなす術を持たない方です。主は一人ひとりを捜し各人の戸口でお呼びになります

心を見る神

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている、ego vici mundum」[5]。晩餐の高間でのイエスの司祭としての祈りは、あらゆる時代の弟子たちを励ます祈りです。福音書には主の勝利が宣言されているとしても、神が失敗すると思えるほどの大きな困難に遭遇します。Christus vincit, しかしこれは人間の論理にはそぐわない神の計画です。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」[6]

「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」[7]。悪魔はイエスに、地上の諸国と、その領土や栄華をこの世の管理を通して人間を自分の意志に服従させた結果として示したのではありません。悪魔は、私たちが毎火曜日に黙想している詩篇IIの御子に対する御父の「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とする」[8] と言う約束を歪曲して世俗的な苦難なしの救いを提案します。しかし「イエスは、世を救うのは、この世的な力ではなく、十字架、謙遜と愛の力であることを明確にされます」[9]。イエスは、誘惑を退けられた時、全てのキリスト信者のため同じ道を示し、人間には愚かなように思えるとしても、主こそ歴史の主であることが垣間見られるようにしてくださいます。神はいつくしみをもって支配されるのです。主の国がこの世のものではないなら、その慈しみもこの世的ではありません。しかし、それゆえ「高い所から」[10] 訪れるので世を包み込み、世を救うことができるのです。

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」[11]。神は、形式的で中身のない従順そうな態度に対してなす術を持たない方です。主は一人ひとりを捜し各人の戸口でお呼びになります[12]。「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ」[13]。これが神の支配です。ですから、私たちを穏やかにしようと、幸せへの熱望を抑圧するのではありません。この幸せへの熱意は主なしには死であることを、私たちに認識させようとお望みだからです。

あわれみ深い心は弱い心ではありません。あわれみ深くなりたい人は皆、強く揺るぎない心、誘惑者を退け、神に開かれた心を持っています(教皇フランシスコ)

「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らは私から去っていき」と主は預言者ホセアを通して嘆かれます[14]。けれども、人間が神の呼び掛けに抗うことができるとしても、キリスト信者なら、最終的にほんの僅かでも心を神に開くなら、命の道が開かれることを知っています。そして私たちは神の疲れ知らずの愛に屈服するのです。神のいつくしみは「常に進み続けるいつくしみとして、日々前進していこうとするいつくしみ、だれも足を踏み入れない、無関心と暴力がはびこるところに入っていく小さな一歩としてのいつくしみです」[15]。ですから、使徒職は信仰から生まれ、静けさに覆われています。「キリスト者の仕事、それは、否定的なキャンペーンをしたり、何々反対を叫んだりすることではない。そうではなくて、楽観に溢れ、若さと喜びと平和に満ちて、肯定をモットーに生きることである」[16]

神の愛で愛する事

「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」[17]。神は人々を、悲嘆にくれたまなざしではなく、いつくしみに満ちたまなざしでご覧になります。そして、ご自分の子どもたちを通して全ての人に関わることをお望みです。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」[18]。主は、私たちを神の愛にどっぷりと浸って生きることができるようにして下さいます。これこそ、神が後の世につながる今この世でも与えようとお望みの生き生きとした環境、家族の雰囲気なのです。創立者が言っています。「私たちの愛を単なる仲間意識や感傷とない交ぜにするわけにはいきません。言うまでもなく、優越感を味わいたいがために他人を助けるという、不明瞭な野心とも異なります。(…)まわりの人たちと手をとり合って生きること、人々のうちにある神の像を尊重すること、さらには、人々がみずからの中に神の像をみつめ、キリストに近づけるよう、助けてあげること」[19]。と言うことで、神にすべてを委ね、神が私において生き、私を通して愛するように、私が神の愛で愛することです。

他者から受けることが多ければ多いほど、神が心に植え付けられた全ての事を光り輝かせることになるのです

「神の愛。それは確かに愛をことごく捧げる値打ちのある愛である」[20]。創立者はここで、無限に広い神のみ心と、小さな、しかし偉大なことに着手できるまでに広がり得る人間の心を眺め感嘆していました。神の愛は、主に満たされ、いつくしみを両手いっぱいに受けられるように全存在を傾ける値打ちあるものです。これは、大らかになり、高みを目指すようにと言う招きに他なりません。それは、日常生活のありふれた事柄に潜んでいることにおいてなされることです。「あわれみ深い心は弱い心ではありません。あわれみ深くなりたい人は皆、強く揺るぎない心、誘惑者を退け、神に開かれた心を持っています。聖霊に動かされる心、さらには兄弟姉妹に対する愛の道を歩むのです。それはつまり、貧しい心、すなわち自分の貧しさに気づき、自分を他者のためにささげる心なのです」[21]

他者の土地では履物を脱ぐ事

心が貧しいとは、貧しい心のことではありません。「貧しさを自覚している」人は神の愛を存分に頂くことが出来ます。「神は、私たちと共に苦しみます。神は、私たちの十字架を担うために人となられました。それは、私たちの石の心を変え、他者の苦しみを自分のものにするようにと望まれたからです。私たちに『人としての心』を与え(…)他者に同情し、癒し救う愛に導くようお望みなのです」[22]。すると私たちは、単に教えなければならないことがある人にだけではなく、たくさん学ぶべきことのある人にも近づくはずです。

他者から受けることが多ければ多いほど、神が心に植え付けられた全ての事を光り輝かせることになるのです。本当に語り合うのは心と心です ―cor ad cor loquitur ― と、福者ジョン・ヘンリー・ニューマンが言っていました[23]。「他者という聖なる土地で自分の履物を脱ぐ」[24]人は、彼に驚かれるままになる人であり、本当に彼を助けることが出来ます。

「人生に躓き、落ち込んでいる友だちに気づいたら、急いで手を貸しなさい。しかし尊厳をもってそうすることです。傍らに行って耳を傾なさい。(…)彼に話せるだけ話させることです。すると、あなたは少しずつ手を広げて行き、あなたはイエス・キリストの名で助けて行く事になります。しかし、乱暴なやり方だと、あなたは説教を始め、それを何度も繰り返しているうちに、かわいそうに相手は以前のように悪くなっていくでしょう」[25]

理由がなんであれ主から離れてしまったのなら、謙遜な心で主のもとに戻り、ふたたび始めなさい。毎日あるいは24時間中何度も、放蕩息子の役を演じるのです(聖ホセマリア)

現代のキリスト者は、非常に違う状況の人たちと出会います。本当に率直な心で他者に近づくなら、相手に「あらゆる人知を超える神の平和」[26] をもたらすことになります。一人ひとり自分なりにその跡をも心に残すでしょう。時に、信仰を実践していないキリスト者に関わる事があります。初聖体後しばらくして信仰生活を放棄したとか、あるいは長年、熱心に信心生活を続けた後、安楽さや相対主義、生温さの誘惑とかに屈服したのでしょう。

他に多くの場合、親しい語り合いの中で、一度も神のことを聞かなかった人の場合もあります。多分最初は、相手の自由を束縛するのを恐れて、遠回しな話し方をする人もいるかもしれません。

神の子としての私たちの落ち着きは、いつものように素晴らしい武器になるでしょう。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心が全ての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」[27]。神のいつくしみによって私たちはイエスのように全ての人を迎え入れることができ[28]、またイエスのように全ての人に迎えられるようになっているのです[29]。人々と共に過ごし、彼らの困惑を共有し、問題を見逃さないことです。そして、彼らが自分のいる所で、視野を広めるように努め、助けを続けながらしっかりとしかし丁寧に要求すること。

「キリストに一致する教会は、傷ついた聖心から誕生する。その寛い聖心から命が伝わってきます」[30]。本物の使徒職は全て、常にゆるしの秘跡の使徒職でもあります。他者が神のいつくしみが溢れ出ていることを経験するよう助けることです。神は、放蕩息子の父親のように、私たちを親として抱擁しようと望んで、私たちを清め、主と他者をみつめることができるようにしてくださるのです。

「理由がなんであれ主から離れてしまったのなら、謙遜な心で主のもとに戻り、ふたたび始めなさい。毎日あるいは24時間中何度も、放蕩息子の役を演じるのです。神愛の真の奇跡である告解の秘跡によって、心を洗い清めなさい。このえも言われぬ秘跡において、神はあなたの心を清め、戦いにひるむことの内容、また、たとえ暗闇に迷ったようになった時でも疲れに負けず神に立ち戻るため、喜びと力を十二分に与えてくださいます。その上、神の御母であり私たちの母であられる聖母が母親特有の優しい心であなたを守り、足もとを固めてくださいます」[31]

それを言うことは不要なことのように思えますが、しかしそうでないことを私たちは知っています。特に神のいつくしみの対象になるのは信仰における私たちの兄弟です。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛する事ができません」[32]。私たちの使徒職の第一の対象は、私たち自身の家族で、神の家、つまり教会を形成している人々の間でなされるはずです。使徒職の熱意があると言っても、もし他のキリスト者に無関心ならそれは偽りです。ですから、時々、ごく親しい人々との共同生活に起こり得る事に慣れてしまうこと、自然な傾きから作り出してしまう人々との距離、あるいは日々の小さな緊張感などに打ち勝つことが必要になります。「キリストに従う初代の信者は、何と深く愛し合っていることかと噂されていたではないか。あなたも私も、四六時中、同じように言ってもらえるだろうか」[33]。神は、神のいつくしみの奔流[34] のためキリスト者の兄弟愛に期待しておられます。それは聖霊の力で人々の間に道を開かせるためです。そして世界は御父が御子を愛したように私たちを愛したことを理解するようにと御子を遣わされたのです[35]

Carlos Ayxelá


[1] ヨハネ18,36。

[2] マタイ26,53。

[3] ヘブライ書4,12。

[4] フランシスコ、2016年3月24日説教。

[5] ヨハネ 16,33。

[6] イザヤ 55,8。

[7] ルカ 4,6。

[8] 詩篇2,8。

[9] ベネディクト16世、年月日一般謁見。

[10] ルカ1,78。

[11] ①サムエル 16,7。

[12] 黙示録 3,20参照。

[13] 箴言23,26。

[14] ホセア11,2。

[15] フランシスコ、2016年3月24日聖香油ミサの説教。

[16] 『拓』864番。

[17] マタイ9,36。

[18] ローマ5,5。

[19] 『神の朋友』230番。

[20] 『道』171番。

[21] フランシスコ、2014年10月4日2015年四旬節メッセージ。

[22] ヨゼフ・ラッチィンガー枢機卿、2005年3月25日十字架の道行の紹介。

[23] 福者が枢機卿に任命された時のモットー。

[24] フランシスコ、2013年11月24日使徒的勧告「福音の喜び」169番。

[25] フランシスコ、2016年2月16日講話。

[26] フィリッピ 4,7。

[27] フィリッピ4,4-5。

[28] マタイ9,10-1;ヨハネ4,7参照。

[29] ルカ7,36;19,6-7参照。

[30] 『知識の香』169番。

[31] 『神の朋友』214番。

[32] ①ヨハネ4,20。

[33] 『拓』921番。

[34] フランシスコ、2014年3月24日説教参照。

[35] ヨハネ17,23参照。