オカリス師「平和のために働く決意を新たにする」

聖ホセマリア帰天50周年にあたり6月26日にフェルナンド・オカリス師がスペイン紙『エル・ムンド』に寄稿した記事の和訳を掲載します。

『エル・ムンド』記事へのリンク(スペイン語)


ひと月半ほど前、ローマの春のあの歴史的な午後に、新たに選出された教皇レオ十四世は、復活したキリストの挨拶を自らの最初の言葉として、サン・ピエトロ広場のバルコニーから全世界に向けて「あなたがたに平和があるように!」と発しました。そして続けてこう述べました。「この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。皆さんの家庭に、どこにいたとしてもすべての人に、すべての民族に、すべての地に届きますように」。

この教皇のメッセージは、「心の平和」から「全地の平和」へと向かうひとつの道筋を示しています。数ある可能性の中から、レオ十四世が選ばれたのは平和を告げることでした。日々、新聞の一面には、不穏な平和の欠如が映し出されています。そして大国間や社会的な出来事ばかりでなく、親族、隣人、友人、職場の同僚の間における日々のささいなやり取りにおいても平和は不足しています。また、心のうちにも、不安、疑念、焦り、心配が支配し、平和は見られません。

このような状況にあって平和を願うことは、良く解釈してもユートピアのように思われ、悪く捉えれば守るべき理想の放棄とさえ受け止められてしまいます。けれども私たちキリスト者は知っています。キリストこそ私たちの平和であり(エフェソ2・14)、私たちが願う平和は神からの贈り物で、それを受け入れ他者に伝えることを私たちは学ぶ必要があるということを。

今日、オプス・デイ創立者、聖ホセマリア・エスクリバーの帰天から50年を迎えるにあたり、彼のもっともよく知られた言葉のひとつが思い起こされます。それは「平和と喜びの種蒔き人」になりなさいという呼びかけです。美しいが非現実的な言葉に思えるかもしれません。しかしこの言葉は、スペイン内戦と世界大戦という破壊的な時代を身をもって経験した人物の証言に他なりません。その劇的な時代において、聖ホセマリアは〈塹壕〉ではなく〈橋〉となり、分断ではなく一致を生み出そうと努めました。司祭として、またキリスト者としての信念は、彼が「右の人、左の人、向かいの人、背後の人、すべての人に大きく開かれた」生き方をするよう導きました。十字架上のキリストのように両腕を広げ、敵のためにゆるしを願い、歴史において──ベネディクト十六世が好んで語ったように──「愛の革命」を推し進めたのです。

このように暴力が〈最後の言葉〉となりそうなとき、攻撃が唯一の選択肢に見えるときにこそ、地上的な論理を超えて、キリストの模範へと視線を向ける機会が生まれるのです。「キリストはわたしたちに先立って歩んでくださいます」と、選出直後のスピーチで教皇レオ十四世は述べています。そして続けて言います:「世界はキリストの光を必要としています。人類は、神とその愛を受けるための橋として、キリストを必要としています」。平和は、私たちが一致して願い求めるべき神からの賜物なのです。

さらに私たちは皆、それぞれの場所で、心と人間関係に平和をもたらすことができます。それはたいてい、家庭、近所、職場などにおける、ほんの小さな和解の振る舞いから始まります。同時に平和は、愛によって生かされた正義の上に築かれる必要があります。自らが神の子であると知る者は、他者の中に「兄弟姉妹」を見出すのです。聖ホセマリアはこう勧めました。「​私たち一人​ひとりが​キリストに​おいて​生まれ​変わり、​その​結果、​新しい​被造物、​つまり神の​子と​なった。​したがって、​私たちは​兄弟であり、​兄弟らしく​振る​舞わなければならない」(『拓』317番)。

平和への普遍的な渇望は、ますます目に見えて切迫したものになっています。暴力を嘆くだけでは足りません。信仰の有無を問わず、誰もがそれぞれの場で〈平和の生態系〉を育むよう招かれています。平和を持つ人は、その存在によって平和を伝えます。それは人と接するときの態度やものごとに対する反応に表れます。この平和を育むという使命は小さなことから始まります──言葉づかい、会話の内容、家庭や職場、大学、デジタル空間などにおけるさりげない態度などです。教皇レオ十四世は数日前こう語りました。「平和はユートピアではありません。それは日々のささやかなしぐさによって織りなされた小さな道です。そこには忍耐と勇気、傾聴と行動が織り込まれています」(2025年6月17日)。

聖ヨハネ・パウロ二世は列聖式において、聖ホセマリアを「日常生活の聖人」と呼びましたが、それはこのような意味においてです。それは創立者のメッセージの核心を表しています。つまり神は日常の中におられ、そこには平和が築かれるということです。そこで通常求められるのは、英雄的な行いではなく、忍耐や親切、ゆるしを通して絆を作り上げていくことです。日常生活の中の〈戦争〉は爆弾から始まるのではなく、きつい言葉、ちょっとした軽蔑、自己中心や無関心の態度から始まるのです。

真福八端の「平和を実現する人々は幸い」(マタイ5・9)という教えについて考察しながら、教皇はマスコミ関係者にこう呼びかけました。「情報の〈伝え方〉は根本的に重要です。言葉と映像による〈戦争〉にノーと言わねばなりません」(2025年5月12日)。

だからこそ、平和の種を蒔く最初の場所は、私たち自身の心なのです。内的平和を得ることは、不安や恐れに満ちた現代における大きなチャレンジです。聖ホセマリアはこう語っています。「多くの人の心には平和がありません。彼らは魂の不安を紛らわせようと、絶え間ない忙しさや、小さな満足に身を委ねます。しかしそれが彼らを満たすことはありません」(『知識の香』73番)。

聖ヤコブの言葉は、まるで今の時代について語っているかのようです。彼は人間の中にある善と悪の緊張関係についてこう記しています。「ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがある(…)。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順(…)です」(ヤコブ3・16-17)。

内なる平和から周囲への平和が生まれます。私たちはそのような経験を持っています。〈平和の匠〉と呼べるような人がいます。その人は光をもたらし、心の一致と調和を紡ぎ出し、視野を広げ、喜びを伝播させます。人生において、このような人と出会ったとき、私たちは感謝の気持ちで一杯になります。これが教皇フランシスコが言うところの「お隣の聖人(saints next door)」です。彼らは平和を築く「お隣さん」なのです。彼らは、その生き方を通して、私たちに平和を伝えます。

多くの場合、私たちができる周囲の人たちに対する「平和への貢献」は、他者を理解する姿勢を育むことにあります。聖ホセマリアはこう教えました。「愛徳とは​与える​ことより​むしろ理解する​ことに​あります(…)。人々を​理解する​心は​神の​よい​子が​持つキリスト教的愛徳の​証拠です。​毒麦ではなく、​愛と​平和と​赦しと​寛容と​いう​兄弟愛の​種子を​広める​ために(…)働く​私たちを​神は​必要となさるからです」(『知識の香』124番)。​

今日、聖ホセマリアを記念するということはまた、平和のために働くという決意を新たにすることでもあります。それは「すべての人の兄弟となり、平和と喜びの種蒔き人」になるということです。教皇レオ十四世がその最初の演説で告げた復活されたキリストの「〈武装〉しない平和、〈武装解除〉させる平和」は、私たちの毎日を照らし導いてくれることでしょう。それは抽象的な理想ではなく、具体的な姿勢、生き方であり、この世界に和解と希望と一致を生み出すものなのです。