啓示の発展(2)

神は、人間に対して少しずつご自身を啓示し、受肉によってその啓示を完成されました。キリストは教会を設立されました。教会は、キリストの記憶を生き生きと保ち、キリストをこの世に生き、復活し、永遠にわたしたちの間にとどまっておられる方として示します。そして教会は、聖書に記された神のことばを守り、伝承を伝え、聖霊に照らされながら、それぞれの時代においてキリスト者としてどのように生きるべきかを教えること(教導職)によって、この使命を果たします(シリーズ「カトリック教会の信仰」)。

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シリーズ「カトリック教会の信仰」


2.教会の成立

「主イエスは、父に祈った後、自分が望んだ人たちを自分のもとに呼び寄せ、自分のそばに置き、また神の国を告げるよう派遣するために、十二人を任命した」(『教会憲章』19番)。イエスは、この世での使命を終えた後、これらの弟子たちがその使命を引き継ぎ、すべての国々に福音を宣べ伝えることを望んでおられました。そのために、使徒たちのグループを設け、その頭としてペトロを置かれました。最後の晩餐において、イエスは、いけにえとしてささげられる御自分の体と血の神秘へと使徒たちを導き、後にそれを現在化するようお命じになりました。また、彼らを御自分の復活の証人とし、使命において彼らを力づけるために聖霊をお遣わしになりました。こうして教会は完全に成立しました。教会は、それぞれの時代の人々がキリストに出会い、永遠の命へと至る道をキリストに従って歩むことのできる場となったのです。

教会は、キリストの記憶を常に生き生きと保ち、キリストを過去の存在としてではなく、ある特定の時代にこの世に生きられた後、復活し、永遠に私たちのうちにとどまっておられる方として示しています。

3.聖書、伝承、教導職

a)聖書

イスラエルの民は、神の霊感のもとに、何世紀にもわたって、太祖たち、預言者たち、そして正しく生きた人々になされた神の啓示のあかしを書き記しました。教会は、これらの旧約聖書の書物を受け入れ、敬います。それらは、神が大いなるイエス・キリストの啓示のために備えられたものだったからです。さらに、使徒たちとイエスの最初の弟子たちも、キリストの地上での歩みを目の当たりにした証人として、とりわけ、キリストの死と復活という過越の神秘の証人として、その生涯とわざについてのあかしを書き記しました。このようにして、新約聖書の書物が生まれました。それらは旧約聖書を補完し、完成に導くものです。旧約聖書において象徴や予型によって準備され、告げ知らされていたことを、新約聖書は、イエスの歴史上の出来事のうちに含まれている真理を展開しながらあかししています。

聖書は、神がイスラエルにおいてなされたこと、そして、とりわけキリストを通してなされたことについての、人間の記憶やあかしだけに基づいているのではありません。それらには、さらに深い基礎があります。なぜなら、その究極的な起源は、聖霊の働きにあるからです。聖霊は、人間の著者たちを照らし、その霊感と光によって彼らを支えられました。このため、教会は、聖書を単に価値ある人間の言葉と考えるのではなく、真の神の言葉であると考え、聖書を聖なるものとして敬います。しかし、これは、神が聖書の著者たちに本文を「口述された」という意味ではありません。そうではなく、神は、自分自身の能力と手段を用いる人々をお使いになり、彼らのうちに、また彼らを通して働かれたということです。こうして彼らは、「神が望むことをすべて、そしてそれだけを、真の作者として」(『カテキズム』106番)書き記したのです。

この意味で、聖書には、さまざまな時代と文化の中で書いた著者たちの、文化的、哲学的、神学的な限界もまた表れています。しかし、これは彼らが伝える真理を信じるための問題とはなりません。なぜなら、その真理は宗教的な次元に属するものだからです。つまり、それは、科学的な世界観を示すものでも、人間の歴史についての正確かつ詳細な年代記でも、謎めいた知恵を示すものでもありません。そうではなく、人間の人生の究極的な意味に関わるものです。人間は、イエス・キリストにおいて神の子として神との交わりへと招かれています。そして、この真理は、さまざまな仕方で表現することができます。たとえば、さまざまな文学的ジャンル、比喩や象徴、徳を教えるための物語、また実際に起こった出来事の記述などを通して表現されます。聖書の成立における聖霊が働きは、聖書が「神がわれわれの救いのために聖なる書として書き留められることを欲した真理を堅固に忠実に誤りなく教える」(『神の啓示に関する教義憲章』11番)ことを保証しています。

b)使徒伝承と「伝承」

キリストの生涯とわざについてのあかしを書き記す前に、使徒たちとイエスの最初の弟子たちは、イエスとともにいたときに自分たちが見聞きし、目の当たりにしたことを宣べ伝えました。彼らは各地に赴き、設立していった共同体に、キリストとともに生きたことを口頭で伝え、キリストの救いのメッセージを宣べ伝え、それを典礼と秘跡によって実践しました。そして、これらについて、後に新約聖書の書物に記録を残しました。したがって、イエスの生涯と教えについては、書き記された伝達に先立つ口頭による伝達があります。それどころか、その口頭による伝達は、後にそれらの書物の中に注ぎ込まれています。この口頭による伝達には、使徒たちがイエスから学んだ多くのことが含まれており、これを「使徒伝承」と呼びます。『カテキズム要約』の言葉によれば、「使徒伝承とは、キリスト教の初めから、説教、あかし、制度、祭儀、霊感による書き物によってなし遂げられてきた、キリストのメッセージの伝達です」(12番)。

時代を通じて、教会は使徒伝承を二つの方法で伝えています。すなわち、口頭で、キリストから学んだこと、また使徒たちが教えたことを宣べ伝え、それを実践することによって伝える場合と、書面によって、聖書を新しい世代のキリスト者に伝える場合です(『カテキズム』76番参照)。第一の方法(口頭による伝承、口伝)は、単に「伝承」と呼ばれます。

伝承は、イエスの生涯と教えについての使徒たちのあかしに由来します。したがって、その源は新約聖書の書物と同じです。しかし、伝承と聖書は、それぞれ少し異なる役割を持っています。伝承は口頭によるものであり、実践を伴うものであるため、聖書よりも豊かで柔軟です。また、ある意味で、聖書の真正性を保証する役割も果たします。これに対して聖書は、書き記されたものとして、イエスが宣べ伝え、生きられたことを固定された不変の形で示し、それを明確に定式化し、確定しています。そして、教えが時とともに変形したり、文化や考え方の変化に左右されたりすることを防いでいます。「言葉は飛び去るが、書かれたものは残る(Verba volant, scripta manent)」とは、ローマ皇帝ティトゥスがローマ元老院で語った言葉ですが、まさにその通りです。

このように、聖書と伝承は互いに照らし合っています。例えば、教会は伝承によって、どの書物が霊感を受けたものであるかを知っており、そのため、それらは聖書の正典を構成する書物となっています。キリスト教の聖書を構成する書物は、伝承が霊感を受けたものとして認めたものと常に同じです。同じ時代に書かれ、イエスについても述べている他の書物もありましたが、それらは決して霊感を受けたものとは見なされませんでした(外典)。逆に、聖書は、何が伝承に属するものであり、何がそうでないかを見分ける助けとなり、それを裏付け、強めます。一例として、新約聖書を見ると、イエスが荒れ野で四十日間断食されたことが分かります。このように、四旬節の時期に断食するという伝承の具体的な実践は、聖書によって支えられ、確認されているのです。

c)教会の教導職

時代の移り変わりには、物質的な進歩と文化や考え方の変化が伴います。新たな展望が開かれ、キリスト者の生き方に関わる新たな問題が提起されます。持続可能な環境開発や、仕事に就く権利といったテーマの道徳性は、古代には議論されませんでした。それらの問題が提起されていなかったからです。しかし、それらはキリスト者としての生き方に関わるものです。そこで、主は教会において、司牧者と信徒との区別を設けるにあたり、前者に、人々や共同体のキリスト者としての生活にとって何がふさわしく、反対に何がそれを損ない、破壊するものであるかを識別する恵み(カリスマ)をお与えになりました。このカリスマによって支えられた教えるという務めは、「教導職」と呼ばれます。教導職の役割は奉仕です。教導職は聖書や伝承の上に立つものではなく、むしろ両者に仕え、それらを正しく解釈し、その内容を忠実に提示するのです。

啓示の真正な解釈は、「教会の生きた教導職だけ、すなわちペトロの後継者であるローマ司教と、彼と交わりのうちにある司教たちだけ」(『カテキズム要約』16番)に委ねられています。彼らがこの務めを果たすことができるのは、司教叙階によって聖霊から特別な助け(真理のカリスマ)を受け、それによって、自らの務めを果たす中で啓示の内容を理解することが容易になるからです。個々の司教は誤ることがあり得ますが、教会全体(すなわち、ローマ教皇、彼と一致している司教たち、そして信者たちの一致)は、啓示に関わる事柄において誤ることがありません。具体的には、ローマ教皇が、公に、かつ荘厳に(ex cathedra)ある教義を、神の啓示に属するがゆえに、決定的なものとして受け入れなければならないと教える場合にも、誤ることはありません。同じことは、公会議の場合にも当てはまります。公会議に集まり、教皇と一致している司牧者たちが、ある事柄を、教会の信仰に属するがゆえに信じなければならないと示す場合、彼らは誤りません。このような場合やその他の場合において、教会が誤ることがないのは、聖霊が教会を助け、キリストの教えを真理において教えることができるようにしてくださるからです。

Antonio Ducay