啓示の発展(1)

神は、人間に対して少しずつご自身を啓示し、受肉によってその啓示を完成されました。キリストは教会を設立されました。教会は、キリストの記憶を生き生きと保ち、キリストをこの世に生き、復活し、永遠に私たちの間にとどまっておられる方として示します。そして教会は、聖書に記された神のことばを守り、伝承を伝え、聖霊に照らされながら、それぞれの時代においてキリスト者としてどのように生きるべきかを教えること(教導職)によって、この使命を果たします(シリーズ「カトリック教会の信仰」)。

シリーズ「カトリック教会の信仰」


1.啓示の発展──アブラハムからイエス・キリストまで

啓示は、人間の創造そのものとともに始まります。聖書は、私たちの最初の父母であるアダムとエバが、すでに神との関係を持ち、神と対話していたことを伝えています。創世記の最初の場面に見られるように、二人は神とある種の親しい交わりを持っていました。これは、二人が神との交わりのうちに生きるために創造されたことを考えれば、当然のことです。しかし、この親しい交わりは罪によって失われます。それ以後、人間にとって、個人の生活の中においても、社会的な環境の中においても、神を見いだすことはかなり難しくなります。それでも神は、すでに最初の父母に対して、いつの日か罪が「女の子孫」(創世記3・15)によって打ち負かされることを約束されました。このようにして神は、キリストによって成し遂げられる贖いのわざを予告されました。この贖いのわざは、それに先立つ救いの歴史を通して準備されていったのです。

聖書は、これらの起源についての物語において、出来事を歴史的に詳細に語ることを目的としているのではありません。むしろ、人間について、また、人間と神との根本的な関係についての本質的な教えを、イメージや物語を用いて示すことを目的としています。そして、それらの物語がどの程度歴史的なものであるかについて、最終的な判断を下すことは困難です。このため、聖書そのものが、同じ出来事について、細部の異なる物語を並べて記していても、何ら不思議ではありません。たとえば、創世記には、男と女の創造について異なる二つの物語が記されています。このようにして、私たちは、起源についての聖書のさまざまな物語から、多くの教えを引き出すことができます。その際、そこで語られているすべての出来事が、まさにそのとおりに起こったと考える必要はありません。

創世記はまた、最初の罪の後、この世界が大きな混乱と不正に満ちるようになったことを語っています。そして神は、それを忌まわしいものとしてご覧になりました。その結果として、洪水の物語が語られます。聖書はそこに、人間の数多くの罪に対する神の罰を見ています。しかし、洪水の後、神はノアとその家族との友情を新たにされました。ノアとその家族は、正しく生きたために洪水から救われました。そして、彼らを通して、神は全被造物との友情も新たにされました。神は、かつてアダム、エバ、そしてその子孫との間に築こうと望んでおられた関係を、ノアとの間に新たにされたのです。神は、人間の心が罪に傾いていたとしても、創造されたものには価値があり、それは善いものであることをご存じでした。そして、アダムに命じられたのと同じように、人間に対して、増え、そして繁栄するよう求められました。ノアの物語を通して、神は人間という被造物に、神との友情のうちに生きる第二の機会をお与えになったのです。

しかし、救いの歴史の真の出発点となったのは、それから何世紀も後、神がアブラハムと契約を結ばれた時でした。ここには、すでに神による選びが見られます。アブラハムは神を唯一の主として認め、大いなる信仰をもって神に従いました。そして神は、アブラハムを「多くの国民の父」(創世記17・5)とすることをお定めになりました。こうして神は、罪によって散らされた人類を、一つの頭のもとに集めるというわざを始められました。それから二世代後、神はヤコブの名を変えさせ、彼をイスラエルと呼ばれました。そして、その十二人の息子たちがイスラエルの民の基礎となりました。すなわち、イスラエルの十二部族です。

それから数世紀後、モーセの時代になると、人間に対する神の歩みは、より目に見える、より深い関わりを伴うものとなりました。アブラハムと太祖たちの神は、イスラエルを御自分の民とし、エジプト人の奴隷状態から解放されました。神はモーセと契約を結び、民を御自分の保護のもとに置き、律法をお与えになりました。そして民は、この契約を厳粛に受け入れ、主に仕え、主を礼拝することを約束しました。イスラエルは、紅海を渡った時も、シナイの荒れ野を旅した時も、約束の地に入った時も、そしてダビデ王国を築いた時も、繰り返し、神が自分たちと共におられることを経験しました。それは、イスラエルが神の民だからです。神ご自身が、他のすべての民の中からイスラエルを選び、御自分の民として形づくられたのであり、イスラエルは神に属する「祭司の王国、聖なる国民」(出エジプト記19・6)だからです。

その後の数世紀にわたって、神はこの契約を衰えさせることなく、預言者たちを通して御自分の民を、最終的かつ決定的な救いへの希望へと導かれました。民が道を見失い、契約に対する自分たちの務めを忘れると、神は御自分の僕たちを起こし、民を従順と正義の道へと立ち帰らせる使命をお与えになりました。預言者たちは、希望を抱くよう民を励まし、力づけました。しかし同時に、選ばれた民であるという自分たちの身分を誤って頼みにすることの危険についても警告しました。なぜなら、この選びに応えなければ、それは裁きへと、すなわち罪に対する神の罰へと変わり得たからです。とりわけ二つの出来事には、罰としての性格が見られます。一つは、紀元前722年の北王国の滅亡です。これはイスラエルの十二部族のうち十部族に当たります。もう一つは、紀元前587年の南王国の捕囚です。南王国は、何世紀も前に分離した残りの二部族から成っており、その首都エルサレムもこの時に破壊されました。こうしてイスラエルは、民としての自治を失いました。イスラエルは、異国の土地で、捕囚の身として生きることになりました。しかし主は、イスラエルを罰されたものの、見捨てられたわけではありません。イザヤ書は、バビロン捕囚から民が自分たちの土地へ帰還し、民が再建されたことを伝えています。ただし、この再建は部分的なものにすぎませんでした。多くの人々がなお各地に散らされたままだったからです。

神がイスラエルと共に歩まれたこのすべての歩みを通して、イスラエルの民は神を知るようになり、神が忠実な方であることを知り、神が、王、すなわちダビデの子孫を通して、最終的かつ決定的な救いについての約束を果たしてくださるという希望を持ち続けました。その王は、時の終わりに新しい契約を結ぶことになっていました。この契約は、古い契約のように石の板に記されるものではありません。神ご自身が、聖霊の現存と働きによって、信じる者たちの心にそれを書き記されるのです。やがて、すべての民が新しいエルサレムの輝きに引き寄せられて大挙して集い、イスラエルの神を認める日が来ます。それは、永遠の平和の日であり、唯一の神のもとに世界が一つに結ばれる日となるのです。

神は、このすべての過程を、そのさまざまな段階を通して進めながら、御自分の民を、イエス・キリストにおける決定的な啓示に備えられました。イエス・キリストは、旧約聖書の約束の成就であり、イエスとともに、終わりの時に予告されていた刷新が実現します。地上で生活された間、イエスは、人々に神についての、これまで知られていなかった新たな側面を示されました。イエスは常に、旧約聖書の神、すなわち太祖たち、預言者たち、王たちの神について語られました。そして、その説教には、何世紀にもわたってイスラエルの民が共有してきた言葉遣いや考え方の特徴が見られました。しかし、イエスの神についての教えは、旧約聖書の諸文書や当時のユダヤ人の思想の中に類似するものが見られるとはいえ、まったく新しい響きを持っていました。そのため、それは他のものとはっきり区別され、唯一無二のものでした。イエスは、旧約聖書において待ち望まれていた神の国が、すでに間近に迫っていると宣言されました。それどころか、神の国は、イエスの言葉とわざのうちに、そしてイエス御自身において、すでに現存していたのです。

Antonio Ducay