年間第11週・木曜日 94 口祷

― 必要性。 ― いつもの口祷。 ― 祈るときの注意。機械的になったり注意散漫になったりする事と戦う。

年間第11週・木曜日

94 口祷

― 必要性。

― いつもの口祷。

― 祈るときの注意。機械的になったり注意散漫になったりする事と戦う。

94.1 口祷の必要性

主は、今日のミサの福音で私たちに告げておられます。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」。神に聞き入れられるためには、長い口祷の祈りをしなければならないと思い込んでいた、当時の多くのユダヤ人の考え方から、弟子たちを解放したいと思われました。主は、息子が父親に話すように神に単純に話しかけることを教えられました。口祷は神にとても喜ばれますが、それは真の祈りでなければなりません。言葉は、心に感じるものの表現でなければなりません。決まりきった祈りでは不十分です。神は、外見だけの祈りを喜ばれないからです。神は、私たちが神と親しく触れ合うことを望んでおられます

口祷は、一日中神の現存を保ち、神への愛や私たちの必要事について神に話すのに欠くことのできない、簡単で、しかも効力のある、私たちに最も適した祈り方です。ミサの福音にあるように、主は、わずかな言葉で神に願うことすべてを言い表すことができるように、最高の口祷「主の祈り」を残すことを望まれたのでした。 何世紀にもわたって、この祈りはあらゆる状況にいる無数の霊魂を希望と慰めで満たしつつ神へと立ち上っていきました。口祷を怠ると霊的生活がかなり低下するでしょう。一方、この祈りが頻繁に用いられ、短くても神の愛に満ちている時、世界の只中、つまり活動の中で、観想の道が開かれ容易になりました。大勢の人々が子どもの時から繰り返している口祷から始めてみましょう。口祷は、神に、そして我らの母なるマリアに捧げられる、短いながらも熱烈な愛の言葉です。今でも私は、毎日、朝も夜も、両親から教わった奉献の祈りを唱えています。「み母マリアよ、あなたに私のすべてを捧げます。あなたを愛し、私の目、耳、舌、心のすべてをあなたに捧げます」。これはすでに、ある意味で、観想の始まりであり、信頼に満ちた委託の明らかな証拠ではないでしょうか。愛し合っている者同士が出会うとき、どのような言葉を交わすでしょう。どのような仕草をするのでしょう。愛する人のために、自己の存在と所有するすべてを捧げるのではありませんか。

「まず、射祷を一つ唱えることから始めて、次第にその数を増していくが、燃えるような射祷とはいえ、そのうちにそれだけでは充分でないと感じ始める。言葉ですべてを言い尽くすことができないから。そこで、神との親密な交わりへの道が開かれ、倦まず弛まず神を見つめるようになる」。また、聖テレジアは、すべての聖人と同じように、あらゆる人が神に到達するために手に入れやすいこの方法を良く知っていました。聖テレジアは述べています。「口祷を唱える多くの人々が、なぜが分からないままに、神によって高い観想に上げられていることに、私は気がついています」。

今日、口祷の祈りにどのように関心を持ち、潜心するか、一日中どれほど多く唱えるか、主に話すことがただ次々に続くだけの言葉でないように、必要な区切りについて考えてみましよう。真の奉献と真の愛の死を意味する、型にはまった言葉の繰り返しを避けるために、僅かな努力を惜しまないようにしましょう。愛の行いである一つひとつの射祷、一つひとつの口祷を唱えてみましょう。

94.2 口祷

良いキリスト者の実りある生活の秘訣は、祈りにあります。十分にしかも頻繁に祈ることにあります。私たちが、自己否定と犠牲の力を引き出し、仕事の疲れに打ち勝ち、神に労苦を捧げ、そして、日々の小さな英雄的な行いに忠実であり続けるのは、念祷であれ口祷であれ、祈りによります。祈りは、私たちが神と親しく付き合うようになり、神をもっと知り、愛するようにさせるので、私たちの食べ物であり霊魂の呼吸であると言われてきました。本物の信仰は、キリスト者が神の観点から毎日の仕事を評価する習慣的で変わることのない態度です。物事をこのように見ることによって、徳を実行し、仕事をよくやり終え、小さな犠牲を捧げる機会を見出します。私たちは、殆ど気づかずに神に没頭し、次第に申し分のない仕事をとおして祈りの行為を表さなくても祈っていることがわかります。十字架や聖母のご絵を一瞥することや、射祷、短い口祷の祈りはすべて、霊魂の落ち着いた状態をその場で維持するのを助けてくれます。そして私たちは絶えず祈ることができるようになり、あるいは、常に主が望まれるように祈ることができます。 仕事に集中しなければならない時が何度もありますが、このような時は、精神は、直接神のことを考えると同時に、行っていることに注意を集中することはできません。それにもかかわらず、私たちが神に一致して、奉献する心構えを持続しているか、少なくとも、神のためにすべてのことを行う意向を持っているならば、実際は中断することなく祈っているのです。

ちょうど、身体が食べ物を必要とし、肺が新しい空気を切望するように、霊魂は、主に向かうことを求めます。「人はふつう、心中の想いを言葉に表して安らぐものです。神ご自身がお教えになった『主の祈り』や天使の教えた『アヴェ・マリアの祈り』などの口祷を唱えて、心は安らぐのです。またある時には、時の流れとともに磨きあげられ、何百万という信仰における兄弟の信心の込められた祈り、たとえば、〈祈りの法典〉とも言われている典礼の祈りや『天主の聖母の御保護によりすがり奉る(…)』『慈悲深き童貞聖マリア、ご保護によりすがりて(…)』『元后あわれみの母、(…)』など、聖母に対する数多くの祈りのように、愛に夢中になった心から自然に涌き出る祈りを唱えます」。聖母に対する数多くの好まれている祈り、主に対する数多くの深く美しい詩、たとえば、聖トマスの『アドロ・テ・デヴォテ』(ご聖体の主に敬意を表して木曜日に度々唱えられる)などは、時には有名な人々によって、また、時には無名な人々によって作られました。これらの伝統的な祈りは、私たちがそれを使うことができるように、年月を越えて、高価な宝のように、教会の内部で忠実に守られてきました。多くの人々にとって、多分それは、母親の膝で教わった、生涯の土台となる教えとして、甘美さをもって思い出されるものでしょう。それは、様々な困難に直面する時に必要とする霊的知識として、とても重要な役割を果たします。

口祷は、溢れる愛の流出であり、必然的に一日の始まりから休む前に神に最後の思いを向けるまで、頻繁に使われます。また、予期しない時に声に出さずに静かにこの口祷が私たちの唇に上ってくるでしょう。「幼い頃、たぶん母親に習ったあの子どもの祈りを忘れないように。それらを、あの頃のように純真な心で、毎日唱えなさい」10

94.3 型にはまることや注意散漫と戦う

聖書によると、太祖エノクは、神のみ前を歩んだ11、つまり喜びと悲しみ、仕事において常に神の現存を保ったと教えています。「私たちも同じようにできればいいのですが。神のすぐ後について世界中を歩きさえすれば、非常に密接にその現存を生きてすべてのことを分かち合い、生涯の日向(ひなた)や不安な陰りのあらゆる時を神に捧げることができるでしょう。すべてを受け入れて、神は、呼びかけの最も小さな囁きにさえ従う私たちに意識して感謝を与えます!」12しかし不運にも、私たちにとって本当に関心があるのは神ではなく自分自身になることがしばしばあります。だからこそ、神に没頭し、自己中心の考えを避けたり、少なくともよい業を特に神のためにしたり、それを犠牲として捧げながら神の最も小さな要求にも応えるように注意を払う努力を継続して行う必要があります。

口祷の祈りは、日々の義務を果たしている最中に神の現存を保つためには他と比較にならないほど素晴らしい手段です。目標に達するためには、祈りの中で話していることに注意を払うことが必要になるでしょう。したがって、私たちは、時には非常に些細なことでも必要な小さいところで戦わなければならないでしょう。言葉をはっきり、ゆっくりと発音したり、慣れっこになることを避けたりして。完全には注意散漫を避けることができないのも事実ですが、声に出して祈っていることが、ある程度念祷になるように、黙想の時間になっていなければならないでしょう。

特別な神の恩恵がなければ、「言葉の語義と重要な意味」に絶えず完全な注意を集中し続けることはできません。時には、「発音」の仕方に注意が向けられるでしょうし、時には、「話しかけている人」に注意を払うでしょう。しかし、個人的な状況や周囲の環境が災いして上に述べた三つの注意集中のいずれもできない時があります。その時には、その本質が内的注意を妨げる外的な活動を拒否するか排除するように注意しながら、少なくとも私たちの外的態度を調べることが必要でしょう。たとえば、手仕事の中には、他のことに集中しても心が妨げられないものもあります。言ってみれば、家庭の母親が、家を掃除したり、小さな子どもに注意を向けたりしていても、ロザリオの祈りはできます。時々気を散らすかも知れなくても内的な注意を保つことはできます。それは、雑誌を読んだり、テレビを見たりしている間はできないでしょう。できる時はいつでも、きちんと集中できる、お告げの祈りやロザリオのような決まった口祷に必要な時間を向けることができるように、生活プランを立てなければなりません。他方、ほんのしばらく注意を逸らしてしまう、意識的ではない注意散漫なら、一生懸命に祈りに努力を傾けている私たちをご覧になる主はゆるしてくださいます。

口祷と共に、霊魂は念祷という日々の栄養を必要とします。「念祷のひとときと、口祷や射祷があればこそ、芝居がかったこともせずにごく自然に、日常生活を神への絶えざる賛美に変えることができるのです。愛し合っている者がいつも相手に思いを馳せるように、私たちも、このような祈りのおかげで神の現存を保つことができ、最も些細なものも含めすべての行いが霊的効果に満たされるのです」13。主は、満足してその行いを眺め、祝福されるでしょう。

マタイ6:7-15

聖シプリアニ,Treatise on the Our Father’

聖アウグスチヌス,Sermon 56 参照

聖ホセマリア・エスクリバー,『神の朋友』,296

聖テレジア,Tte Way of Perfection,30,7

R. Garrigou-Lagrange, The Three Ages of the Interior Life

1テサロニケ5:17;ルカ18:1

ルカ18:1

聖ホセマリア・エスクリバー,『知識の香』,119,聖ホセマリア・エスクリバー,『拓』,473

10 聖ホセマリア・エスクリバー, 『道』,553

11 創世記5、21 参照

12 R.A.Knox, A Retreat for Lay People, p.18

13 聖ホセマリア・エスクリバー,『知識の香』,119