年間第11週・金曜日 95 あなたの心のある所

― 家庭は「福音の種を蒔くのに最も適した場所」。 ― 神が私たちに託された人たちに対する細やかな心遣い。 ― 他の関心事に勝って、彼らのために必要な時間を使う。家庭における祈り。

年間第11週・金曜日

95 あなたの心のある所

― 家庭は「福音の種を蒔くのに最も適した場所」。

― 神が私たちに託された人たちに対する細やかな心遣い。

― 他の関心事に勝って、彼らのために必要な時間を使う。家庭における祈り。

95.1 福音の種をまく第一の環境である家庭

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。この世でどんなにたくさん蓄積しようとしても、ほとんど意味がありません。この世で心をすっかり打ち込む価値のあるものは何もありません。私たちの心は、神のため、神においてこの世の高貴なことのために創られています。頻繁に以下のことを自問するのはすべての人にとって役に立つでしょう。心を何に与えていますか? 自分の宝は本当のところ何ですか? 普段、何について考えていますか? 最も深く関心を寄せていることは何ですか? 心を占めているのは、住んでいる所や勤めている会社の近くのご聖櫃におられる神ですか? それとも、自分のビジネスや自分の勉強あるいは自分の仕事でしょうか、または、十分満たされていない利己的な夢やもっと所有したいという渇望でしょうか? 男性も女性も正直であれば、多くはこう答えざるをえないでしょう。自分自身について、自分自身が関心のある人たちと物事についてだけしか考えていません、と。しかし、私たちは、神に、神からいただいた使命に、神のために人々と物事に、心をしっかり据え続ける必要があります。無限の知恵を持っておられるイエスは、私たちにこう話されます。「富は天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところにあなたの心もあるのだ」。

主こそ、真の絶対的な宝ですから、私たちの心は主にあります。健康も評判もどのような幸福感も私たちの宝ではなく、キリストだけが宝なのです。そして、キリストを通して、正しい秩序に従い、召し出しに応じてこの世界に生きる普通のキリスト者の日々の気高い仕事が続きます。神的な召命によってまさに世の中の今置かれている場所に自分がいるのだと気がついているキリスト信者の生活の義務です。主は、特に人間的あるいは超自然的な特別の家族に、私たちが心を入れて奉仕することを望んでおられます。通常、その人たちこそ、私たちがまず初めに神に導き、聖化しなければならない人々だからです。

人々のことに関心を持てば、利己主義から解放され、寛大さに成長し、その結果として、真の喜びを見出すことになります。主にしっかりと従うように呼ばれていることを知っている人は、もはや自分を宇宙の中心としてみなしません。キリストが助けようとされているのがわかり、奉仕すべき多くの人々に気がつくからです

家庭での、両親、兄弟姉妹の模範は、他の家族にとって、本当に価値のあることが多いです。それによって、キリスト教的見解から世の中を見ることを学ぶからです。家族は、神のみ旨に適ったとても重要なものです。なぜなら、教会の福音的活動はまず家庭で始まるからです。 福音の種を蒔くために、生きた細胞のように、両親と子どもたちが神と兄弟に仕えるキリスト教的理想を体得し学んでいく、第一の相応しい環境なのです。 家庭は使徒職にとって素晴らしい場所です。今日、私たちの家族がそうであるか、共に住む人たちを日毎、少しずつ変え続けるパン種のようであるか、糾明してみましょう。兄弟姉妹や子どもたち、そして両親の召命のために、主に絶えず祈っているか、糾明しましょう。彼らが神への完全な奉献に心を向けるためです。というのも、これこそがあなたの助けによって彼らの多くのが見出す、主が彼らにお与えになる本当に貴重な宝である最高に素晴らしい恩恵だからです。

95.2 神が私たちに委託した人々に向けられる私たちの行き届いた心遣い

私たちの富があるところに、自己奉献と最大の犠牲である愛があります。このため、私たち一人ひとりが受けた特別の招きと、共に住んでいる人々の召命を特に尊重しなければなりません。彼らは、私たちが所有するこの宝の恩恵を直接受けることになるからです。あまり価値がないと思われるものを愛することはやはり難しいものです。そのうえ、主は、自然の血族者であろうと超自然的な親族であろうと、神が私たちの保護のもとに置かれた人々を優先することを否定するような愛を望んではおられないでしょう。なぜなら、それは神から命じられたものでも真理でもないからです。

家族は、社会の基本的な最も重要な単位で、神が社会の最も堅固な土台と定められたものです。それは多分、あらゆる面から、最も狡猾に情け容赦なく攻撃される社会の部分でもあります。社会的重要性と家族の価値を無視して税金が取りたてられます。思想的政治的に動機づけられたものが教育に向けられ、子どもの相応しい形成に悪影響を及ぼします。物質主義や快楽主義は、両親や教師の視野を歪め、もっともらしい人口統計学と社会的な理由で生命そのものに対するキャンペーンを促進し、家族の真髄を攻撃し、自由と独立の間違った意味が若い人々に教え込まれ、進歩的な社会のプログラムは、母親が子どもたちの世話をするための時間を少なくします。両親が自分の子どもを教育する権利を持つという事実を、多くの人々が見失い、本質的にも諦めることのできない基本的な権利を放棄することになっています。時には、抵抗しないがために、行き過ぎた干渉に慣れてしまい、唯物論的な教授法、教科書、図表、プログラム、教材によって、意図的に、霊的人間的本性を隅に追いやるのです。

両親は、子どもたちとの関係において、この世のどんな力も、神が彼らに与えた責任を免れさせることはできないことに気づいていなければなりません。私たちは皆、それぞれ異なった方法で、主から、他の人々の世話をするように任されています。司祭には託された霊魂があり、教師には託された生徒がいます。同様に、霊的形成を与える責任を受けた大勢の人がいます。神のみ前で、「あなたに任せた人々はどこにいますか?」と聞かれた時、誰も私たちに代わっては答える人はいないでしょう。しかし、私たち一人ひとりは「あなたが与えてくださった人をわたしは一人も失いませんでした」と答えることができるでしょう。 なぜなら、主よ、あなたの恩恵のお陰で、私たちは誰一人迷わないように普通の手段と並外れた手段の両方の使い方を知っているからです。

私たちは誰でも、主から託された人々に対して、「私たちの心は絶えず向けられている」と言うことができなければなりません。この言葉は、ロ一マの町にある数多くの聖母像の碑文です。主は、私たちがすべての霊魂を世話するようにと望んでおられますが、まず何よりも、主が私たちに託された霊魂の世話をするようにとお望みです。

主は、ある人が神に対する義務を怠っていることに気づき、親切にその人を助けることができる愛、またはある人が悲しんだり仲間から離れ孤立したりしていることに気づくことのできる愛、心配りのできる愛を要求され、その人にもっと注意を払うように要求されています。別の時には、ある人が告解に行くように優しく導き、好機が訪れればもっと強く行くように説得するかも知れません。よく心配りできる心を持っていれば、キリスト教的な家庭に相応しくない振舞いが忍び込んでくると、敏感に気づきます。たとえば、事前に選択せずにテレビが見るとか、度々、陳腐な話題に終始する会話を続ける、仕事を一所懸命にしない、人のことを考えない、など。よく心配りできる心を持っていれば、忍耐をもって、祈りともっと濃やかな愛情で良い模範を示すことに関心を持つのです。そして、私たちが愛徳と人間的な思いやりの心を持って剛毅と堅固に生きることができますようにと、聖ヨセフに仲介をお願いしましょう。誰かが病気になったら、心ある人たちはその思いやりを倍に増やします。なぜなら病人は神から特に愛される人たちであり、今苦しんでいる人たちは、家庭の宝であることを知っているからです。病人は、祈り、自分の病気を捧げることができます。そうすることによって、苦しみをできるだけ小さくするのです。愛は、苦痛を軽くし、苦痛から解放さえしてくれます。少なくとも、苦痛をもっと耐えられるものにし、幾分和らげてくれます。

95.3 必要な時間を捧げること、それは他の関心に優先します。家庭の祈り

今日、祈りの中で、家族や私たちが世話をする人々が、私たちの生活の中で神に望まれる場を占めているか、また、私たちがその人たちのために本当に心を砕いているかどうかを見ましょう。ここにこそ、私たちの召し出しとともに、永遠の生命に続く宝があるのです。以前は重要だと思われた他の富が遠のいてしまい、今、その魅力を失い始めたのは確かです。意向の正しさを欠いたために宝を単なる錆にしたり、あるいは偽りの宝、あるいは僅かなものにしたりしてしまうのです。

家庭生活を相応しく生きるということは、度々、互いに他の人のために時間を使うことを意味します。つまり、家族の行事を祝う時間や集いの時間、話をし、耳を傾け、理解し、共に祈るための時間を持つこと、など。一般的で表に現れない愛をもっていても十分ではなく、行いに現れ、見える愛情であるべきです。私たちは、それを育てなければなりません。このために、必要な人間徳と自己を忘れることを懸命に養い、実行し、意識的に努力し、祈らなければなりません。何のために、誰のために生きているのか? どんな関心事が私の心を占めているのか?と自分に問いただすことは無意味ではありません。

家庭を攻撃するものが増えたことが明らかだと思える今日、それを防ぐ最良の方法は、真の人間の愛情によります。自分の欠点と他の人の欠点を考慮に入れ、家庭の中に好ましいやり方で神を現存させるのです。これは、食事の時に感謝を述べ、夜の祈りに幼い子どもたちも加え、年配の方と福音書の数行を一緒に読んだり、死者のため、教皇と家族の意向のために、短い祈りを唱えたりすることで実践することができます。教皇様が、家庭内で唱えるようにと頻繁に勧められ、多くの恩恵をもたらす祈り、聖なるロザリオを忘れないようにしましょう。それは、旅をしている時、または家族に合った時間を設定するなどすれば、いつでも祈ることができます。またこれは、いつも母親やおばあさんに先導してもらう必要もありません。父親や年長の子どもならば、この喜ばしい仕事に立派に貢献することができるからです。多くの家族は、日曜日に一緒にミサに行く健全な習慣を保ち続けています。

家庭内で、たくさんの信心の業を実行する必要はありません。しかし、全員、または殆ど家族全員が、信者だとはっきり公言している家庭に全く信心の業がないなら、それは不自然でしょう。キリストに忠実に従う者と自認しているのに、信仰の誠実さが家庭生活に反映されていないなら、意味がありません。子どもとともに祈る両親なら、子どもたちの心を神に導く方法を見出すのは容易でしょう。また、子どもたちは、両親から受けた助けを絶対に忘れません。神と話すこと、どんな状況においても聖母を頼みにすること。母親の口から、おばあさんの口から、お姉さんの口から教わった、このような祈りのお陰で、どんなに多くの人が天国の門に到達することでしょう!

このように、素晴らしい愛情と揺らぐことのない信仰に一致して、彼らは、もっと良く、もっと効果的に、外の環境から来る攻撃に抵抗することができます。たとえ悲しみや病気に襲われた時であっても、容易にそれらを耐え、さらにもっと素晴らしい一致と深い信仰の機会にします。

私たちの母でもある聖母は、主の招きと招きが意味することすべての内に、自分の家と家庭、そしてその集まりに、様々な形で私たちとつながるようにと神がお望みになった人々のうちに宝があることを教えてくださるでしょう。

イエスのみ心のうちに、私たちは、限りない愛の宝を見出すでしょう。 私たちの心が主に似るように努めましょう。

マタイ6:19-21

F.Koening, Pastoral Letter about the family, 23 March 1977 参照

聖ヨハネ・パウロII世,Address, Guadalajara, Mexico, 30 January 1979

聖ヨハネ・パウロII世, Address to Bishops of Venezuera, 15 September1979

ヨハネ18:9

Roman Missal, Collect for Solemnity of the Sacred Heart of Jesus 参照