年間第8週日曜日・C年 63 死に対する勝利

― 死は、罪の結果。この世の生活からは善行の功徳と罪の負債だけが引き出される。 ― 死のキリスト教的な意味。 ― 四終に関する黙想の実り。

年間第8週日曜日・C年

63 死に対する勝利

― 死は、罪の結果。この世の生活からは善行の功徳と罪の負債だけが引き出される。

― 死のキリスト教的な意味。

― 四終に関する黙想の実り。

63.1 死は罪の結果である。この世の生命を終える時、私たちは自分がした善行と罪の悔い改めの功績だけを携えて行く

聖パウロはミサの第2朗読でこう教えています。 復活し、栄光を受けた御体が不滅をまとい、死は最終的に征服されます。次に私たちはこう尋ねることができます。「死よ、死の勝利はどこにあるか? 死よ、痛みはどこにあるか? 死の痛みは罪である…」。世界に死をもたらしたのは罪だった。神が人間をお創りになった時、恩恵の超自然的賜物に加えて、自然の秩序において自然を完全にする賜物をお与えになりました。その中に身体の不死の賜物がありました。人祖は生命と共に子孫たちにそれを伝えようとしました。原罪は神との友情の消失と不滅の賜物の結果的な消失を生じました。罪の報酬である死が生きている者の土地として創造された世界に入り込みました。啓示は、「神は死を創られなかった、また、神は生きている者の死を喜ばれなかった」と教えています。 「罪によって、死がすべてのものに訪れました。正しい者も正しくない者も、同じように死ぬ。善い者も悪い者も、清い者も清くない者も、犠牲を捧げる者もそうでない者も。同じ最後が、聖人にも罪人にも降りかかる。それは誓う者にも誓わない者にも降りかかる。人間と動物は皆同様に塵と灰に戻る」。すべてのものは、それぞれ相応しい時に終わる。物質世界とそこに含まれる物は皆、私たちもそうであるように、最後の完成に向かっている。

死とともに、人は現世で持っていたすべてのものを失います。神は、たとえ話のお金持ちのように、自分のこと、自分の幸福のこと、また、自分の慰めと安逸だけを考える人に言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。(…)自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。一人ひとりは、自分がした善行の功績と自分が犯した罪の重みだけを携えていくのです。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである』」。永遠の生命のために功績を得る機会は、死とともにあるのです。次のように主は警告される。「誰も働くことができない夜が来る」。死に際して、私たちは、神との友情に留まるか、永遠の恩恵を拒むことで、善か悪に永遠に定められるだろう。

この世の生活の終わりについて黙想すれば、「神に関することに対するやる気のなさや生温さ、直ぐにもこの世に残さざるを得ない現世の物事への執着心を捨てるのに役に立ちます。また、仕事を聖化し、この世の生活が功徳を得るためには短い時間に過ぎないことが理解できるでしょう。

私たちの身体は消滅する泥に過ぎないことを思い出しましょう。それにもかかわらず、私たちは永遠の生命のために創られたということ、霊魂は決して死ぬことがないこと、そして、神との友情のうちに死ぬなら私たちの身体はいつか再び栄光に上げられることを知っています。だから私たちは喜びと平和に満ち、この世で、神の子として生きることができるのです。

63.2 死のキリスト教的意味

キリストの復活によって、ついに死は克服されました。人間はもはや死の奴隷ではなく、人間を支配するのはキリストです。 というのは、死の鍵を握るキリストに一致するまでこの支配を主は成し遂げられますから。 罪こそ真の死です。大変な別離の状態、つまり霊魂が神から離れるという別離は、恐ろしい離別です。それに比べれば、霊魂と体の分離という別離は対して重要ではありません。そのうえ、後者の分離は仮のものです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」10。キリストにおいて、死はその力と痛みを失います。死は征服されました。死の確実さ、痛み、悲しみ、責め苦を恐れて後ずさりし、差し迫った死の恐怖に苦しむ人を見る時、この信仰の真理は逆説的に思われるかも知れません。悲しみと死が人間の霊魂を混乱させるのは本当です。それは神を信じない人々にとって、常に不可解な謎なのです。しかし、信仰によって、私たちはこの悪が克服され、その勝利を、贖い主イエス・キリストの死と復活の内にすでに得ていることを私たちは知っています11

霊魂の不滅を否定する一方で、物質主義は、歴史を通じて、神が人間の心に据えられたと思われる永遠への望みを説明するために、様々な論義を取り入れました。それで、この間違った哲学は、人間に、現世での行いの結果や、まだ生存している人たちの思い出と愛情の中に残っている慰めを見出したわけです。それは、私たちの後に続く人たちが私たちを思い出すには確かに良いことですが、主は私たちに更にこう言われます。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを怖れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」12。これは神への聖なる畏れです。それは時に私たちを罪から引き離すのに大変役に立ちます。

死の瞬間は、すべての被造物にとって大変な危機です。しかし、キリストが行われた贖いからずっと、その瞬間は私たちにとって全く異なった意味を持つようになりました。それはもはや、罪に対する正当な罰として単にすべての者が罪のために支払わなければならない、残酷な代価ではありません。他の何物にも増して、贖い主のみ手の中に自分を委ねる極致です。この世から御父のもとへの門出です13。 永遠の幸福の新しい生命への通路です。キリストに忠実であれば、私たちは詩編作者とともに次のように言うことができるでしょう。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださるから」14。死を予想した上での落ち着きと楽観主義は、罪以外の人間のあらゆる弱さとともに喜んですべての人間性を受け入れられたイエス・キリストにしっかりした希望をおくことから生まれます15。 死によって、イエスは死の力を持つ悪魔を滅ぼし、死の恐怖のために一生涯奴隷の状態にあった人たちを解放なさるためにそうされたのでした16。 ですから、聖アウグスチヌスは、私たちが受け継ぐものはキリストの死であると、教えています17。 なぜなら、私たちは、死によって永遠の命を獲得できるからです。

自分の最期がどうなるのかが確かでないお陰で、神の憐れみに信頼し、神から受けた召命に忠実であろうとするはずです。どこにいようとも、生涯を神への奉仕と教会への奉仕に費やさなければなりません。私たちはいつも、特に最期の時が訪れたら、神は、子どもたちへの愛情に満ちた愛すべき御父であることを思い出すべきです。私たちを喜んで迎えてくださるのは神である御父です! 「来なさい、御父に祝された者は!」

イエス・キリストとの友情、人生についてのキリスト教的意味、神の子だという認識があれば、死を穏やかに見つめ受け入れることができます。そうして、子どもがその生涯を通じて仕える努力をした御父と顔を合わせることでしょう。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。

63.3 四終(死、審判-私審判と公審判-地獄、天国)の黙想がもたらす実り

教会は、四終と呼ばれるものを黙想するように勧めています。なぜなら、私たちは、そのことを考えることによって、数えきれない恩恵を引き出すことができるからです。人生は短いという認識を持っても、神が私たちに委ねられた家族、仕事、価値のある関心事や高貴な理想で私たちにかかわりを持つことを減らすことはありません。避けることのできない死という事実を考え、その結果を考えることは、私たちを地上的な事柄から離脱させ、それを大切にし、現世的な出来事すべてを聖化するのに役立ちます。こうして私たちは天国へ行くのです。友人、家族、愛する人の死を悼む時はいつでも、それは、臨終という避けられない事実を考えるためのとりわけ良い機会になります。

主は、「盗人が夜やって来るように」、思いがけない時に来られるでしょう18。 主は、私たちが地上的なものから離脱して、油断なく、寝ずに番をして準備しているのをご覧になるはずです。大きな誤りは、やがて去らなければならないこの世の事柄の奴隷になるのに甘んじていることです。私たちは足を地につけておかなければなりません。神がここに置かれた限り、キリスト者としての召し出しに相応しい者として、私たちは社会の只中にいますが、いつか自分たちのものになる天国とキリストに目を据えている旅人であることを忘れることはできません。私たちは、神と出会うために、とても急いで旅する巡礼者であるという認識をもって毎日生きるべきです。毎朝、神に向かって新たな歩みをし、毎夕、神にもう一歩近づいていることを知ります。そのために、神が私たちを呼び出そうとしておられるかのようにいつも生きるべきです。この世の終点のまさにその時に、神が私たちから隠れておられるという事実は、毎日を最後の時であるように過ごし、いつでも新しい住まいに移る準備ができているように生きるのに役立ちます19。 どんな場合でもその日は遠くありません20。 どの日も最後でありえますから。まさに今この日に、何千人もの人が異なる様々な状況の中で死んでいきます。多分、その多くの人は突然の死に、功徳を積む時間がこれ以上ないことなど全く考えてもいなかったでしょう。

人生の日々は、素晴らしいこと、失敗、汚れを書き込むことができる真っ白な本と言えます。神がお読みになる日、この本が終わる日までに、どれ程のページが残されているのか、私たちにはわかりません。

イエスとの友情、聖母マリアへの愛があり、私たちが人生に与えようと努めているキリスト教的意味を持っていれば、神との決定的な出会いを落ち着いて待つことができます。幸せな死の保護者である聖ヨセフには、彼がこの世を去る時、傍にイエスとマリアという、ありがたい喜ばしい友がいました。ですから聖ヨセフは、日々、神である御父とのこの言いようのないほど素晴らしい出会いを準備するように、私たちに教えてくださるのです。

聖パウロはコリントの最初の信者と別れるに当たり、今日のミサの第1朗読にあるように、非常に慰めに満ちた言葉を残しています。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」21。我が母よ、あなたの息子から、私たちがいつも天国を目指してすべてのことをする、その恵みを勝ちとれますように。私たちは、至聖なる聖母に呼びかけながらこの祈りを終えます。このようにして私たちは目を永遠に据えて勤勉に働くのです。神の御母、聖マリア、罪人である私たちのために今も死を迎える時も祈ってください。ア一メン。

1コリント15:54-58

ロ一マ6:23

知恵の書1:13-14

St Jerome, Epistle 39,3

ルカ12:20-21

黙示録14:13

ヨハネ9:4

1コリント3:2 参照

ヨハネの黙示録1:18

10 ヨハネ11:25-26

11 聖ヨハネ・パウロII世,Homily,16 February 1981

12 マタイ10:28

13 ヨハネ13:1 参照

14 詩編23:4

15 ヘブライ4:15 参照

16 ヘブライ4:15 参照

17 聖アウグスチヌス,Epistle 2,94

18 1テサロニケ5:2

19 聖ホセマリア・エスクリバー,『道』,744 参照

20 St Jerome, Epistle 60,14

21 1コリント15:58