エリザベトはマリアが家に入るのを見たとき、彼女がもう子どもではなくなったことに気づきました。おそらくエリザベトは、マリアが生まれ、成長していく様子を見ながら、彼女が幼い頃から特別な存在であったことに気付いていたでしょう。その後、二人は離れた土地で暮らしていました。今、自分の家の戸口にいるマリアを認めたとき、エリザベトは喜びでいっぱいになりました。福音書は、彼女が「声高らかに」マリアを迎えたと伝えています。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」(ルカ1・43)。その深い喜びは、祈りに満ちた生活から湧き上がったものでした。聖書によると、エリザベトは夫のザカリアと共に、聖なる人(神の前に正しい人)として、人々からある種の敬意を抱かれていました(ルカ1・6参照)。しかし、神と共に過ごした長い年月のもつ真の意味を知っていたのは、彼ら二人だけでした。二人の経験は、わたしたちにも起こるように、他の人に言葉で伝えるにはあまりにも豊かなものでした。エリサベトの喜びは、痛みと希望、苦難と再会に満ちた過去から生まれ、その出来事一つひとつが彼女と神との関係をより一層深めていったのでした。イスラエルの女性にとって、母親になるという祝福は何よりも待ち望まれるものだったにもかかわらず、母親になれないという事実がどれほどの困惑と動揺を味わわせるかを知る者は、彼女の他には誰もいませんでした。しかし、主はエリザベトにその経験をさせることで、ご自分とのより深い親密さに彼女を導こうとされたのでした。
聞き届けられる祈り
わたしたちと神との関係、わたしたちの祈りも、エリザベトの場合のように、常に唯一で、他者に伝えることができない何かがあります。人生においてわたしたちも、詩編の中の「孤独な鳥」(詩編102・8参照)のように感じる時があるものです。けれども、神はその鳥を鷲のように太陽をじっとみつめることができるほど高く舞い上がらせてくださるのだと聖ホセマリアは言いました。神だけが、一人ひとりにとって適切な時と瞬間を知っておられます。神は、わたしたちの想像を超えるほど、わたしたちを「神化させる親密さ」を望んでおられるのです。とは言え、神だけがその時を知っておられる(洗礼者ヨハネがいつ生まれるべきだったのかを知っておられたように)ことは、わたしたち一人ひとりが、あらゆる瞬間に主とより深い親密さを持ちたいと切望し、絶えずそれを主に頼み、より高みを目指すことの妨げにはなりません。聖書の中のザアカイがしたように、通り過ぎるイエスを見ようと、人混みの中で首を伸ばし、必要なら木に登っても良いでしょう。わたしたちはエリザベトが何度も心を神に向け、夫にも同じことをするよう促していた様子を想像することができます。そしてついにザアカイはこう告げられたのです。「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(ルカ1・13)。
エリザベトの主への信頼に満ちた祈りは、時間と逆境という試練の炉を通る必要がありました。彼女の人生は夕暮れを迎えようとしていましたが、神は依然として重要な点を隠されたままでした。なぜエリザベトの長年にわたる祈願を神は聞いていないかのようにされたのか?なぜ彼女に子を授けて下さらなかったのか?ザアカイの祭司職さえもそのためには十分ではなかったのか?自分にとって明らかに必要な事を彼女が祈り求めても、効果がないこと、神が沈黙をしているように思われること、こうした事を通して、彼女の信仰、希望、愛は清められていったのです。それは、彼女がただ忍耐しただけでなく、日々自分が変えられていくに任せ、常に、そしてあらゆることにおいて主の御旨を受け入れた結果でした。正に十字架との一致──エリザベトは、ある意味で主の十字架を先取りしていたのですが──こそが、わたしたちの祈りの真実性を確かめる最良の方法なのでしょう。旧約の義人たちがこうした受諾を生きたように、そして、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22・42)という御父に対する態度をイエスがご自分の全生涯を貫く動機としたように、わたしたちキリスト者もこのように神との一致に召されています。常に次のように祈ることがわたしたちにとってふさわしいのです。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4・34)。
思い出す時
老いたザカリアが天使のお告げを受けるまで、彼の祈りの炎を灯し続けていたのはエリザベト自身だったかもしれません。ついに彼女の夫に天使が現れ、不妊と呼ばれていた彼女に、主は子を授けるであろうと告げました。「神にできないことは何一つない」(ルカ1・36)のです。こうしてエリザベトは、自らを委ねる者に神が行う必要な浄化の作業を経て、導かれるままにper aspera ad astra(困難な道を通り、栄光の星へ)の道を歩みました。そうして何年も経った今でもわたしたちが毎日繰り返している祈りの言葉を叫ぶに至ったのです。「あなたは女の中で祝福された方です。あなたの胎内のお子さまも祝福されています」(ルカ1・42)。
神への道が十字架との深い一致を伴うことを知ることは、時に停滞のように見えるものが実は前進であることに気づくために不可欠です。そうして、より良い時や、自分の好みに合った祈りを待ち望み続ける代わりに、わたしたちは、神が我々に与えようと望まれる食物を感謝して受け入れることでしょう。「周囲を見渡すと、主から来たものではない、一見するとより満足感を与えてくれる食物がたくさんあることに気づきます。お金で満たされる人もいれば、成功や虚栄心で満たされる人もいる。また権力や自尊心で満たされる人もいます。しかし、わたしたちを真に養い、満たしてくれる食物は、主が与えてくださるものだけです。主がわたしたちに与えてくださる食物は、他のものとは異なります。そしてそれは、この世が提供するある種の食べ物ほど、わたしたちにとって美味しくは感じられないかもしれません。そうなるとわたしたちは、砂漠で肉と玉ねぎを懐かしんだユダヤ人たちのように、他の食べ物を夢見るのです。けれども彼らは、その食べ物が奴隷の食卓で食べられていたことを忘れていたのです。あの誘惑の時、彼らに記憶があったものの、それは病んだ記憶であり、選別された記憶でした。奴隷の記憶であり、自由な記憶ではなかったのです。」[1]ですから自問しましょう。どこから食べ物を得たいのか?わたしの記憶とは何か?わたしを救う主の記憶か、それとも奴隷時代の肉やニンニク、タマネギの記憶か?どの記憶がわたしの魂を満足させてくれるのか?固い食べ物を食べたいのか、それとも乳を飲み続けたいのか?(一コリント3・2参照)。人生において、イスラエルの民のように、過去を振り返って「エジプトのニンニクやタマネギ」を望む誘惑に駆られることがあるかもしれません。当時祝福と保護のしるしとして受け止められていたマナも、やがて彼らは飽きてしまいます(民数記21・5参照)。祈りの基本的な要素をおろそかにして、心が冷めてしまうなら、わたしたちにも同じことが起こり得ます。つまり、潜心を求めること、信心の小さな事にも気を配ること、最良の時間を選ぶこと、そして主に対して愛情深くあることなど・・・。だからこそ、よりしっかりとした動機を持って、今こそ思い出す時、記憶を辿る時、また祈りと霊的読書の中で、コリント人への手紙の中で聖パウロが語る、人生の視野を広げる堅固な糧を求める時なのです[2]。
磁石の力に引き寄せられるように
祈りの中で記憶を辿ることは、単なる思い出以上に深い意味を持ちます。それはイスラエルの宗教に特有の「記念」という概念に関わるものです。すなわち、救いの業を現在にもたらす救済的な出来事なのです。記憶をたどる祈りは、既知の事柄について改めて語り合うことであり、過去の思い出を現在との関わりにおいて再認識する行為です。神とわたしたちとの関係において中心的な出来事を、その都度、違う方法で理解し、経験するのです。おそらく、エリザベトも、母親という新たな立場を通して、彼女が神から与えた使命をそれまでと違った形で認識したのでしょう。
年月が経つにつれ、わたしたちの神への献身や抵抗のペースに応じて、主はわたしたちを御自身の神秘について様々な面を示し、更なる深みへと導いて下さいます。主はわたしたちを非常に高いところへ導きたいと望んでおられるのです。ゆっくり、ぐるぐると螺旋状に回転をしつつ上昇していくのです。もちろんわたしたちには上へ向かわず、水平面で円を描き続けることも、或いは激しく下降することも可能です。更には、創造主との関係を断ち切って、その道から外れてしまうことすらできるのです。しかし、主はご自分の計画を完遂するために、決して努力を怠りません。主の計画とは、選びと義化、聖化と栄光です。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(…)神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ8・28、30)。
多くの作家たちと同様に、聖ホセマリアはこの過程を非常に現実的かつ美しく描写しています。魂は「ちょうど鉄が磁石に吸い寄せられるように、甘美な驚きのうちに、いとも効果的に、イエスを愛し始めているのです」[3]。神との親子関係、キリストと一つになること、御父の御旨への愛や主の贖いの協力者となる熱意などを黙想し、そのすべてが聖霊の賜物であることを実感する時、わたしたちは聖霊に対してどれほどご恩を頂いているかをよりよく理解することができます。そして、わたしたちの中で熱烈に感謝が沸き起こり、聖霊の働きに敏感になるのです。聖霊は、わたしたちが思っているよりもはるかに頻繁にわたしたちに働きかけて下さっています。「特別な状態について話しているのではありません。ごく普通にあり得る現象です。愛に夢中になれば、突飛なことや目立った振る舞いをせずに、苦しむこと、そして、生きることを学びます」[4]。
こうして、わたしたちは驚嘆しつつ、わたしたちが一生を通じて、日々、年々…胎児の時から神から受けてきた愛の広大さを徐々に悟っていくことになるのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(一ヨハネ4・10)。わたしたちは美しく、濃やかで心を解きほぐすような神の愛に気付き、圧倒されるのです。エリザベトもそうでした。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去って下さいました」(ルカ1・25)。長年の暗闇の後、彼女は、すべての愛の源である方から、自分が無限に愛されていることに気づきます。それは、彼女自身が値するものでも、完全にその価値を理解できるものでもなく、またそれに応じきることのできないものでした。「わたしの主のお母さまが、わたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」(ルカ・43)。どうして神は、わたしをこれほどまで愛してくださるのでしょうか?そして、少し戸惑いと痛みを感じつつ:どうして今までこの事に気づかなかったのだろう?わたしは一体何を考えていたのだろう?
すべての良い祈りは、わたしたちが何を神に求めればよいかを知り[5]、また求めたものを受け止めることができるよう心を整えます。信心の業の細部において、大きな事であっても、小さな事であっても、その一つひとつに神への愛を少しでも加えていくなら、道は容易になります。親しみを込めてイエス・キリストの名を呼び、ためらうことなく主に愛情を示すのです。わたしたちは、主がそっと示される愛に粘り強く、素早く応えるべきです。「主がわたしたち一人一人の人生において成し遂げてくださった、美しく偉大な事柄を記憶に留め」ましょう。なぜなら、記憶に留める祈りは「キリスト者の心に大きな益をもたらす」[6]からです。そのため、聖ホセマリアは説教の中で、よくこう勧めていました。「一人ひとりのために神がして下さったこと、そしてそれにいかに応えたかについて、それぞれが糾明しなければなりません」[7]と。
神はすべてであり、神のみで十分である
エリザベトは、主が彼女にしてくださったことを何度も思い返したことでしょう。彼女の人生はなんと大きく変わったことか!そして、彼女はどれほど大胆になったことか!それ以来、彼女の行動はすべて、独特の豊かさを帯びるようになりました。彼女は、よりきっぱりと確信を持って神の計画に従いました。「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」(ルカ1・60)。また、いとこの身にも神の御業が働いていることを垣間見ることができたのでした。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は何と幸いでしょう」(ルカ1・45)。こうしてエリサベトは、心を尽くして神と交わる者となっていったのです。
同様に、わたしたちの祈りにも愛と闘い、賛美と償い、礼拝と願い、情熱と知性が込められていなければならないでしょう。アルファベットのすべての文字、音階のすべての音、パレットにならぶすべての色を大胆に使う必要があるのです。なぜなら、祈りは義務を果たすことではなく、「心を尽くして愛すること」だと悟ったからです。信心の業、人々との関係、日々の仕事…それらは以前と変わらなくても、わたしたちの生き方は同じではありません。こうして、心の自由が培われます。「真の心の自由とは常に愛によって行動する能力であり、習慣的な態度のことです。特に各々が置かれた状況のもとで、神の要求に従う努力に表れる自由なのです」[8]。以前は重荷のように感じられていた義務が、愛である御方との出会いの機会へと変わるのです。困難を克服することは依然として骨が折れますが、今ではその努力は喜びをもって行われます。
無限の愛を発見し、それに比べてあまりにも貧弱なわたしたちの応答を自覚すると、心は深い痛悔と償いの思いに駆られ、自らの罪に対する痛みが湧き起こってきます。個人的な回心へと導かれ、「神はすべてであり、わたしは無である。今日のところはこの事実で十分です」[9]という確信が深まるのです。こうして、神との交わりを妨げる多くの障害を自分の中から取り除くことができます。また、主に対する誠実で深い、明確な感謝が湧き上がり、「創造主、救い主、存在するすべてのものの支配者、無限に慈悲深い愛そのものである方であると認める」[10]、神への礼拝へとつながるのです。だからこそ、心のすべて、すべてのキーを使うことが大切なのです。祈りが使い古された道筋を辿ることなく、感情が伴うかどうかに関わらず多様でわたしたちを豊かにするものであるように。なぜならわたしたちが単に好ましいと思っている神はまだ本当の神ではないから。神はそれよりも遙かに、無限に偉大であるのだから。
[1] フランシスコ、キリストの聖体の祭日説教、2014年6月19日。
[2] 「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです」(一コリント3・2)。
[3] 聖ホセマリア『神の朋友』296番。
[4] 聖ホセマリア『神の朋友』307番。
[5] 「同様に『霊』も弱いわたしたちを助けて下さいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8・26)。
[6] フランシスコ、サンタ・マルタでの説教、2016年4月21日。
[7] 聖ホセマリア『神の朋友』312番。
[8] 属人区長の手紙、2018年1月9日(自由について)、5番。
[9] 聖ヨハネ二十三世『魂の日記』(Il giornale dell'anima, Edizioni di Storia e Letteratura, Roma, 1964, p. 110)。
[10] 『カトリック教会のカテキズム』2096番。
写真:Anne Nygard(Unsplash)
