オプス・デイの協力者、短い証言の8

アイルランド、パラグアイ、イタリア、スイス、ウルグアイ、ロシアの協力者の証言を紹介します。

見えない細かなところ

ゲイヴァン・ディクソン

スライゴ(アイルランド)生まれ

ダブリン(同上)在住

洗礼と堅信は幼い頃に受けましたが、信仰に関して深い知識を持ってはいませんでした。ある友人から毎月の黙想会に誘われ、少しずつ信仰の中身を発見していきました。自動車修理工場で働いています。事故後の修理の一環として、たくさんの車の塗装をしていますが、一つひとつの仕事に具体的な意向を込めるようにしています。外からは見えないような車の部分を処理することがよくありますが、自分の仕事を祈りとして捧げているのですから、そういう箇所の作業をする時ほど、心を込めてします。自分の信仰をどのように具体的に実践するかを習い、またそれを人に伝えることは、本当に魅力的であり、同時に自分とイエス・キリストとのつながりをもっと強いものにしてくれます。


手遅れということはない

パトリシア・ラフエンテ

アスンシオン(パラグアイ)在住

新聞記者

回心するまでに、何年もかかりました。以前は、神様を自分の尺度に合わせて、それが正しい生き方だと自分を納得させていました。けれども、知り合いを通して、キリスト教的な生き方とはどのようなものかを徐々に学んでいったのです。二〇〇八年、オプス・デイのメンバーである友人が、初聖体と堅信の準備を一対一のクラスでしてくれる所を紹介してくれました。協力者になるよう勧められた時、たくさんの人が私のような利益を得られるために祈るという具体的な貢献をするべきだと思ったのです。協力者になることは、神様からの贈り物であり、私にとって神の業を実践する素晴らしい機会です。三十七歳で初聖体を受けた者として言えることは、本当の幸せを味わうのに手遅れということはない、ということです。


回心の道

ジュセッペ・メッシーナ

パレルモ(イタリア)在住

建築家

協力者になるということは、私にとって回心へのはっきりとした道です。本当に神の子であることを実感するという内的な喜びを得るようにさせてくれるからです。毎日少しの時間を主イエスと直接出会うために割くという経験は、私の頭と心とを大きくしてくれました。今では、ご聖体訪問をしない日はありませんし、祈りにおいて主のお供をすることができなければ、物足りなく感じます。仕事に余裕ができた時は、家族のために時間を使うようにしています。聖ホセマリアのお蔭で、妻の疲れを気遣ったり、子どもたちの求めに応じたりすることの大切さと素晴らしさを、理解することができるようになったのです。


私の霊魂の糧

スザンヌ・ルズシクス

チューリヒ近郊のキルクベルグ(スイス)在住

私にとって協力者であることは、自分の生活―ことに霊的な生活―をよりよいものとする、ということです。受ける形成は、私の霊魂の糧です。毎日一歩ずつ、日常生活を通して聖人になることができるし、そうなるべきである、という聖ホセマリアの教えは、私にとってとても魅力的です。そのために必要な霊的な助けは、十分に受けることができています。


偶然と必然

フアン・カルロス・ボルドーリ

モンテビデオ(ウルグアイ)在住

製本・古書修復職人

私は製本業の職人です。偶然、『道』や『鍛』、『神の朋友』、その他の聖ホセマリアの著書が私の元にやって来たのです。その本を修復しているうちに、またもや偶然に、その内容が私の中に種のように蒔かれ育っていったのです。私の作業場には、友人たちが自分の問題を打ち明けによくやってきます。解決策を与えることはできませんが、方向を示してあげることはできます。このようにして、聖ホセマリアのご絵に見守られた私の作業場は、戦いの場となったのです。友人たちは、この聖人から何らかの良い助言を得て帰っていきます。


好奇心から幸福へ

ナターシャ・ズボーヴァ

サンクト・ペテルブルク(ロシア)在住

私はサンクト・ペテルスブルク郊外で生まれました。両親は大学教授で、誠実で素晴らしい人たちでしたが、当時のソ連で大部分の人たちがそうであったように、子どもたちに神について話すことはありませんでした。信仰と接して最初に魅かれたのは、イエス・キリストを信じている人たちの生き方は信頼できるものだということでした。けれども、私の心はすぐには変わりませんでした。私にとって神とは、困難に直面した時に思い出すための存在に過ぎませんでした。それが変わったきっかけは、二〇〇七年、息子の世話を手伝ってくれていた女性が、プシキンの教会に彼を連れて行くようになったことです。好奇心に負けて、私も行くようになったのですが、ミサに与って、子どもの頃にしか味わったことがない幸福を感じることができたのです。二〇〇八年から、モスクワに住むオプス・デイの人たちが、私たちの教会で黙想会を開くようになりました。その黙想会に参加し、聖ホセマリアの本を読むようになってから、キリスト者であるとは、日曜日に一時間ほど教会に行くことではなくて、常に神の現存の元に生きることなのだと理解できました。今年になって、私はこれまで勤めていた町でも有数の会社を辞め、二人の司祭によって創立された、ロシア語の霊的書物の出版社で働くようになりました。小さな会社ですが、目指しているのはとても大きなことです。困難はあるでしょうが、そのような状況よりも神様の方が強いのだと確信しています。