聖霊、私たちを愛へと導く愛

J. エチェバリーア著、Itinerario de vida cristiana、第三章からの抜粋。

聖霊は愛によって私たちを造り、そして幸せへと招いてくださいました。この聖霊が注いでくださった愛によって、私たちは真の愛を持ち続けることができます。この愛は、漠然とした表面的かつ一時的な気分の問題ではなく、献身するよう励ます寛大な愛情です。これがキリスト的生き方の本質です。ヨハネ・パウロ2世は第二バチカン公会議の文書を引用してしばしば思い出させてくださいました。「人間は、神がそれ自体をお愛しになる地上では唯一の被造物です。しかし、人間は自らを余すところなく捧げる以外に自らの十全性を見出すことができません。」

私たちのために御自分を捧げてくださった神は、私たちが自らを主におささげするようお望みになっています。聖パウロがコリントの信者に書き送った言葉を、神は私たち一人ひとりにおっしゃっています。「私はあなたたちの財産ではなく、あなたたち自身を求めている。」聖ホセマリアは同じ考えを次のように表しています。「イエスは分かち合いでは満足なさらない。すべてをお望みなのだ。」 これを聞くと、最初はなんとなく恐れを感じます。しかし、献身を要求なさる神が、さまざまな賜物と御自分自身という賜物を与えた上で、こう要求なさることを考えれば、私たちの生命を神に嘉される献げ物に変えることができることに気付きます。

聖霊が注いでくださった恩寵によって、私たちは何物をも保留せずに神を愛することができるようになりました。すでに見たように、人となって御血を流すはずの御子を、御父は私たちのためにお遣わしなりましたが、そこまで私たちを愛を示してくださる神の愛に、私たちもあずかることができるようになったのです。

聖霊に導きにお任せし、自らの全存在を愛の要請に従って、神が要求なさることに向けるならば、キリスト的な生き方が一連の捨てるべきことがらや重荷や犠牲であると思うことはなくなります。すべては神との出会いの機会、神とさらに一致するための機会になるからです。キリス教的な円熟は愛の勝利を通して獲得します。愛は恐れと利己主義、少なくとも不信を追い払うからです。

しかし、それにもかかわらず、霊的生活においては、戦わなければ勝利もありません。そして、この戦いは生きている間ずっと続きます。私たちは自分自身に執着しており、視野が狭くて近視眼的ですから、物事を低いレベルで見がちです。刹那的な満足や自己主張に欺かれる傾向があります。その結果、神の愛すべき計画の数々の偉大さに心を開くことが出来なくなります。ところで、キリスト的生活の成長過程において、聖霊は一瞬なりとも励ましをお止めになりません。たった一つ必要なこと、それは聖霊の霊感に対して素直になることです。