聖ホセマリアの生涯-39

1939年3月末マドリードが降伏すると、最初に町に入った軍のトラックに聖ホセマリアの姿がありました。

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スペイン内戦も1938年の暮れには終わりが見えてきました。聖ホセマリアは、一日も早くマドリードに帰り、オプス・デイの活動を再開したいと望んでいました。メンバーには会話や手紙を通じて、戦後の仕事には大きな困難があるだろうが、神様の助けを得て、大きな実りが待っていると励ましていました。

1939年3月末マドリードが降伏すると、最初に町に入った軍のトラックに聖ホセマリアの姿がありました。戦争が始まってから初めて司祭服を着た人を見た町の人々は神父を見ると大喜びで手に接吻しようと押し寄せてきました。神父は家族が住んでいた家に向かい、そこで再会を果たしました。メンバーたちも三々五々集まってきました。

また戦争前に学生寮だったフェラス通り16番を訪れました。建物は砲弾や銃弾の痕だらけでとうてい使えないくらいに破壊されていました(写真)。それで、戦争前に世話をしていた聖イサベル修道院の建物に行きました。教会と修道院は無残な姿でしたが司祭館は住める状態だったので、手入れをして家族とメンバーのしばしの宿とすることにしました。

数日後、再びフェラス寮に行くと、瓦礫の中から「新しい掟」(キリストが最後の晩餐で弟子たちに与えた、「互いに愛し合いなさい」という掟)を書いた羊皮紙が見つかりました。これはかつて聖ホセマリアが寮の図書室に飾るよう手配したものでした。いかに困難が大きくても、メンバーが一致していれば大丈夫であると強調していた神父にとって、これは偶然とは思えませんでした。

神父のもとにはスペイン各地の司教から、司祭や修道者や青年の黙想会の指導の依頼が届き始めました。6月初めには学生の黙想会をするためバレンシアに行きました。会場は学校でした。黙想会が始まる前、神父が校内を歩いていると「みな、自分の道を進め」と書いているポスターが目に入りました。学校は戦時中には共和国軍の兵舎で、彼らが残したものでした。自由を愛する聖ホセマリアはこの言葉が気に入り、ポスターをそのままのこすよう頼み、黙想会では頻繁にこの言葉に触れたそうです。この黙想会から数人の学生がメンバーになりたいと申し出てきました。

尾崎明夫