聖ホセマリアの生涯-36

内戦が始まってそろそろ二年になろうとしていました。この頃にはかつて100人はいたフェラスの学生仲間の中でも戦死者の数が12人を越えました。その中には2人のメンバーもいました。

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4月の初めサバデルという名のホテルに引っ越しし、聖ホセマリアとペドロとパコとの三人の生活が始まりました。ホテルにはガラス張りの出窓があり、その部屋は休暇や仕事の用事でブルゴスを訪れた数多い友人や知り合いが神父から霊的な指導や励ましを受ける場所となりました。その中には若者だけでなく、社会的地位の高い人々も少なからず含まれていました。

神父は何としても戦場に散らばっているメンバーや友人たちとの連絡を取りたいがりました。必要とあらば、3等列車で二日もかかる南の果てまで旅をしました。自ら前線を訪れるだけでなく、以前マドリードの学生寮で始めた通信を書いて彼らに送ろうと考えました。誰もひとりぼっちではないと感じさせかったのです。

戦場にいた若者たちはこの通信を読み、慰めや励ましを受け、返事を書きました。次の号ではその手紙が紹介され、みんなが昔の仲間の近況を知ることになりました。

内戦が始まってそろそろ二年になろうとしていました。この頃にはかつて100人はいたフェラスの学生仲間の中でも戦死者の数が12人を越えました。その中には2人のメンバーもいました。

6月初旬、マドリードを包囲する部隊にいたリカルド(フェラス寮の寮長)から「軽い傷を負った」との電報が届きます。聖ホセマリアは、即座に汽車に飛び乗り、不吉な考えを打ち消しながら一日かけて現地に到着しました。手榴弾の爆発による怪我でした。全身傷だらけでしたが、傷は深刻ではありませんでした。遠くにマドリーの町が見えました。リカルドの同僚の士官が神父を監視所まで連れて行ってくれ、高性能の双眼鏡を貸してくれました。それをのぞくと懐かしい建物や道がつぶさに見えました。目と鼻の先に自分の霊的子供たちと家族がいるのだ。彼らと会えない辛さで身を切られる思いでした。

7月、内戦中の最大の激戦となるエブロの戦いが始まります。その戦場にホアンがいました。神父は彼に会うため危険な最前線にまで足を運びました。次に使徒ヤコブの墓があるサンチアゴ・デ・コンポステラに巡礼しブルゴスに帰りますが、そこで不思議な事件が起こります。

尾崎明夫