聖ホセマリアの生涯-35

スペインに入国したホセマリア・エスクリバーは国民側の首都であるブルゴスに移り、分断されたスペイン各地に散らばっている霊的子供たちや友人の消息を調べます。

ブルゴスまで神父に会いに来たメンバーと友人。

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1937年12月11日、聖ホセマリアたちはフランスからスペインに入りました。若者たちは軍隊に入るため、また家族に会うため散っていきました。神父は友人のパンプローナ司教の招きでその町で黙想会などをしてしばらく過ごした後、当時、国民側の首都となっていたブルゴスに移りました。この町の人口は二倍になっていたため、ホテルの一室を借りるしかありませんでした。早速、師は分断されたスペイン各地に散らばっている霊的子供たちや友人の消息を調べます。周囲の人の助けも得て、国民側にいる多くの知己の住所を手に入れました。また共産側に取り残されたメンバーにはフランス経由で交信しました。「一番辛いことはおまえたちがどうしているのかわらないことだ」と言って、頻繁に手紙を寄越すようにお願いしています。

ピレネー越えに同伴したメンバーのペドロ・カッシアロとフランシスコ・ボテージャ(パコ)はブルゴスで任務に従事できるようになり、聖ホセマリアと一緒に住みました。神父はまず、居場所の分かったメンバーや友人に会いに行こうと思いました。そのためにはあちこちにかなり長い旅をしなければなりません。また旅行先で教会関係者と会って、オプス・デイについて説明しようとも考えました。遠方に住むメンバーや友人には、自分に手紙を書くよう、また機会があればブルゴスに足を運ぶよう頼みました。それは何よりも彼らに会って信仰が弱まらないように励ましたかったからでした。前線の軍隊の生活は、信仰を守るためにあまりよいものではありませんでした。

まだ戦争は継続中で、汽車の旅は苦労の多いものでした。そのため神父は体調を崩しました。喉が痛むようになり、乾いた咳に悩まされ、吐血の症状も現れました。神父は結核ではと恐れました。結核は感染病なので、もう人と会って話すことはできなくなるからでした。ブルゴスで同居していたペペとパコは神父の体調を心配し医者に連れて行くだけでなく、神父の食事や睡眠など細々としたことにまで口を挟み始めました。これはしっかり苦行をしたいと望む神父には耐えられないことでした。とうとう、これ以上干渉するならブルゴスを出て行くと宣言し、二人を黙らせました。

尾崎明夫