聖ホセマリアの生涯-31

逃亡生活を始めて一年たった1937年8月、聖ホセマリアはホンジュラス公使館の食糧補給係の身分証明書を手に入れ、自由に町に出ることができるようになりました。

聖ホセマリア:ホンジュラス公使館員として

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逃亡生活を始めて一年たった1937年8月、聖ホセマリアはホンジュラス公使館の食糧補給係の身分証明書を手に入れ、自由に町に出ることができるようになりました。不幸中の幸いか、逃亡生活で神父はひどく痩せてしまい母でさえ誰か見分けがつかなかったほどでした。残虐な迫害は少し収まってきていましたが、それでも司祭と分かれば命はありませんでした。

神父はまずイシドロなど居所の分かっていたメンバーと自分の家族を尋ねました。その後、行方不明だったメンバーや友人を探しました。彼らの中には身内が処刑されたり戦死したりしていた者もいました。神父は毎日密かにミサを挙げ、聖体を人々に運びました。また病人を訪問しましたが、その一人がアルバロの父でした。彼も収容所でのひどい扱いため健康を大きく害し重篤でした。

聖ホセマリア自身も健康を害していました。しかし、困難な状態にある人々を助けたいという思いが彼を動かすのです。場所を変えながら黙想会を指導したり、身を隠している司祭や修道者も探したりもしました。ある修道女たちはアパートで共同生活をしながら身分を隠すために厚い化粧をしていましたが、神父は「私たちは臆病者です。神様に自分を捧げることを恐れているのです」と自分自身に語りかけるように話をしました。そのとき以来彼女たちは勇気を回復し、化粧をすることを止めました。

しかし、共産主義の支配する地域にいる限り、自由に活動することは不可能でした。自由なスペインに行くには三つの手段がありました。一つは外国の大使館を頼って外国に逃げ、そこから自由なスペインに帰ってくること。神父も色々な国の大使館と交渉を試みましたが、どれも失敗に終わりました。もう一つは前線を突破すること。しかしこのためには軍隊に入り前線に派遣されねばなりません。最後はピレネー山脈を越えてフランスに逃げ、そこから自由なスペインに入ることでした。ある知り合いがフランスへの脱出を勧めてくれました。しかし、根強い迷いがありました。それは、危険なマドリードにメンバーと家族を残して逃げるのはよいのだろうかという疑問です。

尾崎明夫