聖ホセマリアの生涯-30

1936年8月初旬から聖ホセマリアは隠れ家を転々としていましたが、10月に知人の世話で数人のメンバーとともに精神病院に避難することになりました。ここも安全ではなくなったので3月に退院し、また友人の助けでホンジュラス公使館に移ります。

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1936年8月初旬から聖ホセマリアは隠れ家を転々としていましたが、10月に知人の世話で数人のメンバーとともに精神病院に避難することになりました。ここも安全ではなくなったので3月に退院し、また友人の助けでホンジュラス公使館に移ります。外国の外交施設には治外法権があり、法律的にはスペイン政府の干渉を免れているからです。ただ、現実にはいつでも不意の捜査がなされる危険がありました。

公使館は100人近くの難民でいっぱいでした。平和な時なら家畜の飼料となるような豆類が主食で、それすらない日もありました。一行は、神父と弟のサンチアゴ、監獄から釈放されたアルバロとホアン・ヒメネス・バルガスを含む4人のメンバーの合計6人で、もと石炭倉庫として使われていた小さな部屋があてがわれました。(写真下。この6人が寝ている状況をアルバロが描いたスケッチ)。彼らの階では30人が一つのトイレとシャワーを共有していました。

難民のほとんどが、恐怖におびえながら戦争が終わるのを待つだけの無為な日々を過ごしていましたが、神父は祈りとミサの時間、それから講話や勉強などを決めた日課を作って生活しました。また若いメンバーたちに語学の勉強を勧めています。それは将来、海外でオプス・デイをする可能性を考えてのことです。このときアルバロはドイツ語と日本語を選びました。

すでに見たように、聖ホセマリアの最大の心配は遠くに暮らしているメンバーのことでした。そこでまだ精神病院にいた1937年2月から彼らに手紙を書き始めました。もちろん、手紙はすべて当局の検閲を受けるので、普通の人にはわからない表現を駆使しました。外部との連絡は主にイシドロが受け持ちました。こうして、孤立していたメンバーの消息を知り、彼らを慰め励ますことができたのです。

しかし、活動的な性格の聖ホセマリアには、家にじっと留まっていることは耐えがたいことでした。なんとかこの状態を抜けだそうといろいろと試行錯誤していましたが、8月にやっと公使館の食糧補給係の身分証明書を手に入れることができました。これで町に出ることができるのです。

尾崎明夫