聖ホセマリアの生涯-25

オプス・デイのメッセージは全世界に向けたものであることを自覚していたホセマリア・エスクリバーは、活動の範囲を広げることに取り掛かります。しかしスペイン内戦が始まります。

聖ホセマリアと寮生

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全ての人が聖人になるよう呼ばれているというオプス・デイのメッセージはあらゆる時代のあらゆる国の人々のためであることは、聖ホセマリアは最初からわかっていました。またメンバーの数が少なく、しかもほとんどが学生だった1935年頃、神父は地中海の古い都市バレンシアとフランスのパリでオプス・デイの活動を始める計画を立てていました。

1936年2月、スペインで総選挙がありました。カトリック教会を敵視する左翼の政党が選挙協力をしたのに対し、保守派の政党は足並みを揃えずに選挙に臨んだため、また特殊な選挙法のためもあって、獲得投票数はほぼ同じだったにも関わらず左翼の勢力が勝利し、反カトリックの政府(人民戦線政府と言います)が誕生しました。この選挙結果を見て教会を憎む人々は大胆になり、大都市では教会や修道や聖職者に対する暴力行為が頻繁に起こるようになりました。3月には聖ホセマリアが世話をしていた聖イサベル修道院も暴徒に襲われました。幸いに警察が来て、またガソリンが切れたため、教会の外側の扉が少し焼けただけで終わったのですが。5月には修道院は政府に没収されるという法律ができました。

7月、夏休みが始まりました。一年ほど前にメンバーになった建築学部の学生ペドロ・カッシアロとフランシスコ(パコ)・ボテーリャは、夏休みのため故郷のバレンシアに帰省しましたが、オプス・デイのセンターのために家を探すよう頼まれていました。マドリードには神父と数人のメンバーだけが残りました。寮が手狭になったので、また新しい家を手に入れていました。その数人で引っ越しをし15日から新居に住み始めました。16日にペドロたちから適当な家が見つかったという電報が入ったので、17日に寮長のリカルド・バリェスピンがバレンシアに行きます。18日の朝、家主の弁護士と契約の条項を確かめていたとき、けたたましく電話がなりました。アフリカの駐屯軍が武装蜂起した、バルセローナでは道路に大砲がでている、と。3年続く悲惨なスペイン内戦が始まったのです。聖ホセマリアの計画は頓挫したのでした。

尾崎明夫