聖ホセマリアの生涯-23

1934年、ホセマリア・エスクリバーは、後に彼の後継者となるアルバロ・デル・ポルティーリョと出会います。

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20世紀の初頭、スペインの首都マドリードには地方から出てきた大勢の移民が貧しいスラム街を作っていました。19世紀の中頃フランスに生まれた、貧しい人々をキリスト教的に助けることを目的とする聖ビセンシオ・パウロ会という団体があります。マドリードでも大学生や若い社会人がこの会に入り、週末に集まって貧民街で活動をしていました。しかし、貧民街には教会や金持ちの人々に対する憎しみが溢れていました。

後に聖ホセマリアの後継者となる、アルバロ・デル・ポルティーリョは1934年から土木工学を勉強しながら、官庁で仕事を始めていました。その頃友人に誘われてこのビセンシオ会の活動にも参加していました(このグループには、後に司祭になり来日し、広島で司牧にあたり原爆の際に多くの負傷者を介助した、イエズス会のアルーペ神父もいました)。1934年2月のこと、彼らが貧民街の子供たちに「カトリック要理」を教えて帰ろうとしたとき、教会に憎悪を抱く人たちが襲撃してきました。アルバロは頭をスパナで殴られ、地下鉄の駅に逃げ込み発車寸前の電車に飛び乗り辛うじて逃れることができました。家に帰るとコートは血だらけ。弟や妹を怖がらせないため、道で転んだと言いました。傷の応急措置が下手でなかなか治りませんでしたが、アルバロは元気になると再びその危険な場所に行って貧しい人を助けようとしています。この年の3月、この活動に誘ってくれた友人によって聖ホセマリアに紹介されました。それは運命の出会いとなりました。

神父にいきなり「君はバナナが大好きだってね」と言われ驚きました。実はかつて神父が病人援護会で働いていたとき、その活動を助けていた婦人たちの中にアルバロの叔母さんがいて彼のことを神父に話していたのです。それ以来神父はずっと彼のために祈っていました。アルバロは4ヶ月後オプス・デイのメンバーになりました。社会での身分や仕事を変えずに聖性を求めるという理想を理解したのです。アルバロは早速友人たちにオプス・デイのことを話し始めました。その中に小学校時代からの友人で、今は土木工学科の学生であったホセ・マリア・エルナンデス・ガルニカがいました。

尾崎明夫