聖ホセマリアの生涯-22

ホセマリア・エスクリバーは家族の財産を用いて学院と学生寮を始めますが、事業は大きな赤字を出します。

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1934年9月、遺産相続のために故郷のフォンスに赴いた聖ホセマリアは、同じくそこにいた母と姉と弟にオプス・デイについて初めて打ち明けました。皆ある程度予想していたようで、姉は「そうだと思ったわ。お母さんと話していたの」と言い、母は「わかりました。でもあまり激しい苦行はしないでおくれ」と言ったそうです。そして手に入った遺産を寛大に神父の事業のために寄付したのです。二人はそれ以降オプス・デイに属さないまま、神父の事業のために人生を捧げることになります。姉のカルメンには良い縁談話もありましたが、結局みな断りました。弟を助けることを一番に考えたからです。

こうして得た資金で、神父はアパートの二つの階を買い取り、学院と学生寮に仕立て学年の始まるのを待ちました。しかし、なんとこの時期に大変な事が起こるのです。1932年に成立した共和国政府は反教会の政策を次から次に実施していきましたが、これは国民の大半を占めるカトリック信者を敵に回すことになり、1934年の選挙で反教会勢力は敗れてしまいます。そこで彼らは暴力に訴えることにし、夏の終わりに各地でストライキや武装放棄を決行しました。特にアストゥリアス地方では多くの教会と修道院が焼き討ちされ、大勢の司祭修道士が殺されるという惨事になりました。そこで新学年が始まる10月になっても入寮を希望する人が現れなかったのです。せっかく心を込めて準備した学生寮は空のままで、多額の借金だけが残りました。

聖ホセマリアはこの事態を前にして、やむなく一階を売って残りの階を学院と寮にするというふうに計画を縮小しました。しかし、それは「一時的な戦略的撤退」と考えていました。つまり、状況が好転したら、また事業を拡大するつもりでした。この大胆さに裏には神への信頼がありました。このころ、神父に協力していた数人の司祭はこの大胆さを無謀と考え、批判的な態度を取り去って行きました。それに対して、神父に従っていた数人の若者たちは聖ホセマリアへの信頼を失いませんでした。

神は神父のこの信仰をお報いになって、冬頃から入寮者や神父の指導を受ける人がどんどん増えていきます。そのころ現れた人に、後に聖ホセマリアの後継者となるアルバロ・デル・ポルティーリョという学生がいました。

尾崎明夫