四旬節半ばの今日、教会は間近に迫ったイエスの死と復活を通してもたらされる私たちの救いを喜ぶよう招きます。それゆえ、この日曜は「喜びの主日(domingo laetare)」として知られています。典礼では放蕩息子のたとえ話が読まれます。そこには御父の驚嘆すべき無限の慈しみと罪の悲しさ、そして回心の喜びが示されています。
このたとえ話の背景になっているのは、イエスが罪人たちを迎えて共に食卓についているのを不審がったフアリザイ人たちの陰口です。主は、彼らの回心のために話されます。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」(ルカ15・11-13)。
弟の姿は罪の現実を反映しています。神がお与えになった賜を忘れ、自分自身を傷つけるのです。「時に、まさしく罪が『成功』をもたらしてくれると思えることがありますが、真実は異なります。御父から離れることは、常に(…)破滅をもたらします。人間としての尊厳と恵みという遺産が失われるのです」[1]。このたとえ話から、罪とは、押し付けられたルールを守らないといったものではなく、必ず人に害を与えるものであることがわかります(悪魔はそうではないと私たちを騙そうとします)。人間的、超自然的な真の喜びは、回心によってもたらされます。
「『まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した』(ルカ15・20)。これは主のお言葉なのです。首を抱いて口づけをあびせたと書いてあります。いとおしくて仕方がなかったのです。これ以上、人間味にあふれた話し方ができるのでしょうか。御父である神が、私たちに対して抱く愛を、これ以上生き生きと描写することはできないでしょう。私たちの方へ走り寄って来てくださる神を前にして、口をつぐんでいるわけにはゆきません。聖パウロと共に『アッバ、父よ』と呼びかけましょう。宇宙の創造主ではあるが、立派な称号で呼ばれたい、その主権に敬意を払って欲しいとはお思いにならないのです。父と呼ばれたい、この呼び名をかみしめて味わって欲しい、お前たちに喜びを与えたい、と言ってくださるのです」[2]。
私たちの人生は、御父に立ち帰ることの繰り返しです。何度も始めること、そして再び始めることが必要です。立ち帰る度に、神の慈しみの愛がいかに美しいかをさらに深く知ることができます。主は威圧的な支配者ではなく、私たちが恐れから掟に従うことを望まれません。私たちの自由を尊重する繊細さをもって、神は私たちをいつも赦す心づもりでご自分の方へ引寄せられるのです。
「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15・21)。このように息子は考えます。しかし実のところ、私たちは、自分が無限の善と慈しみを有する御父の子であることを知ることによって、主が無条件に私たちを愛してくださり、繰り返される不忠実に対しても決して〈疲れてしまう〉ことがないことを理解することができるのです。「父親の抱擁と接吻により、彼は何があってもつねに自分は息子だと思われていたと悟ります。イエスのこの教えはとても大切です。神の子であるわたしたちの身分は、御父のみ心の愛がもたらす実りです。それは、わたしたちの功績や行いによるのではありません。したがって、だれもそれを奪うことはできません。」[3]。
たとえ話の父親の深い慈しみは、下の息子の帰還を大喜びで迎えることに表れています。抱擁、接吻、新しい衣服と指輪、宴会、肥えた子牛…。しかしその慈しみは、家で起こっていることを見た長男の反応にも向けられています。確かに私たちは、この兄のことを頑固で妬み深いと、否定的に評価してしまうことがあります。しかしながら、父親は彼にも慈しみをもって接します。息子が自分の愛情に気が付かなくても、それに感謝しなくても、立腹しません。
「御父は自分が罪人だと認める人を待ち望み、自分が『正しい』と思っている人を探しに来てくださいます」[4]。実のところ、この二人の兄弟はよく似ています。二人とも、自身の確実さの中で生きていました。形は違っていても、自分自身のことだけを追い求めていたのです。一人は、気ままに生きることを選びました。もう一人は、ある程度正しい倫理観をもっていましたが、あたかも良いことをする気力を失ってしまったかのようで、あまり幸せな生き方をしているとは言えない状態でした。聖ホセマリアが言います。「隠れた生温さという危険を避けることが必要です。それは私たちを神から引き離し、効果的でない存在にしてしまう恐れがあります。それは、もうある程度のことは達成したと考える生温さです。友だちもいます。外的には活動しています。しかし接する人たちの心を燃え立たせることも、周りに温かい雰囲気を作ることもありません」[5]。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(ルカ15・31)と父親は言います。主は私たちと共にいたいとお望みで、ご自身も含めて全てお与えになります。慈しみの母マリアに、助けをお願いしましょう。私たちが、神がお与えになった多くの良いことに、そして他者の良い点にいつも目を向け、そのことにより御父の家にとどまることができるように。
[1] 聖ヨハネ・パウロ二世、説教、1980年3月16日。
[2] 聖ホセマリア『知識の香』64番。
[3] フランシスコ、一般謁見演説、2016年5月11日。
[4] フランシスコ、「お告げの祈り」でのことば、2016年3月6日。
[5] 聖ホセマリア、家族の集まりでのメモ(ロンドン)、1971年9月。