神の母であり、私たちの母である聖マリア

J. エチェバリーア著、Itinerario de vida cristiana、第四章からの抜粋。

聖母の生涯を見ると、聖ホセマリアが書いているように、聖性と偉大さを「仰々しい行いに現わす必要はなく、かえって隠れて目立たず沈黙のうちに捧げられる日々の犠牲に現わすべきであることを教わります。(・・・)神的になる、つまり神化されるには、すこぶる人間的になることから始め、神を見ながら普通の人間としての生活を営み、一見したところ些細で平凡なことがらを聖化すべきなのです。マリアはこのような生き方をしました。これが、恩寵に満たされた方、神のよろこびである乙女、天使たちと諸聖人の上に位する聖母の生き方だったのです。

これがイエス・マリア・ヨセフのナザレの家庭に入り込んで発見する素晴らしくも単純な真理です。神に仕え、神をお喜ばせしたいと望む人は、日常の仕事、いかにも平凡な日常の茶飯事の中に、創造主と贖い主と聖化する御方を見つけることができます。マリアの生涯が明らかに教えるように、日々の仕事や活動に浸りきっていても、同時にそれらを神化することができます。「世間の直中で歓想者」になること、日々の普通の活動を通して神と親しく接することは、誰にもできることなのです。

この目標に達するためには、自らの行いを神に関係つけるための努力が必要です。万一あるとき、目標の高さを見て臆病風に吹かれたなら、おとめマリアの忠実な応え方を眺めましょう。元気が湧いてくることでしょう。同時に、マリアの生き方の証だけでなく、聖母ご自身が私たちの手の中にある宝物であることを忘れないようにしましょう。聖母は天において御子と共に治めておられます。私たちが助けを求めるなら、いつでも母親としての保護と愛情を注いでくださいます。名前を呼び掛け始めるなら、多くの場合は、お願いする前から、助けの手を差し伸べてくださいます。ただ、聖母の効果的で愛深い保護に気付かないことが信じられないくらい多いことを知っておきましょう。

御子の道は十字架の道ですが、それと同じく聖母マリアの歩む道は、十字架を避けて通りません。救いをもたらす十字架の豊かな意味、信仰と愛をもって受け入れる苦しみの意義は、キリスト者としての召し出しの本質に深く根を下ろしています。だから、それが聖母において顕著な特徴となったのです。 聖母マリアの心は、老シメオンが預言したように、剣に貫かれたのでした。十字架を恐れるべきではありません。マリアを眺め、マリアにつき従うなら、イエスの贖いをもたらす愛を信じて自らを忘れることにこそ、よろこびのあることが分かるのです。カルワリオの御子の傍らで、最高のかたちで発揮されたマリアの母性は、私たちが聖母に付き添い、マリアを母として受け入れ、世界の救いのためになされたマリアの献身に参加するよう励ましています。それはわたしたち全員に向けられた強く、また思いやりのある招きです。

十字架のこの豊かさは、次のような事柄の中に見つけることができます。人々に対する日々の理解と寛大な態度、家庭や仕事や社会において人々と共に生活を営むにあたり辛くても努力する数々の小さな奉仕の心の現われ、いつもの仕事の中で見つけ、そして愛する償いと犠牲、喜びにあふれた単純な節制の模範、聖なる純潔・貞潔を愛する心、全ての人の苦しみや窮乏との連帯、特に弱者との連帯の精神、罪のあらゆる機会を避け、誘惑から逃げる戦い、ゆるしの秘跡を受けて改心することによって迅速に神のもとに立ち返る努力。ヨハネ・パウロ2世が指摘されたように、御父のもとに立ち返るため、そして罪の痛悔に始まり、神の子としての自覚からくる喜びへと、導かれるための特別な光であり助け手です。