神のいつくしみの秘跡:ゆるしの秘跡について(VIII)悔い改め

フランシスコ・ルナ著(新田壮一郎訳)『神のいつくしみの秘跡:ゆるしの秘跡について』より

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悔い改め〈痛悔〉

罪を犯して失った神の友情を取り戻したいなら、罪を痛悔することがまず大切です。しかし、痛悔や心の痛みは感覚的なもので涙を流すような行為に現われると思ってはなりません。痛悔が感覚的なものであると考えると、涙の出ない時や心の痛みを感じない時などには、ゆるしの秘跡を効果的に受けるための条件が欠けていると思う恐れがあります。これは悲しむべき間違いです。

痛悔するとは、子供が満腹状態にある時、甘い菓子を嫌うのと同じように、もう嫌だと感じることだと思う人もいるようです。ところが残念なことに、いつもこうなるとは限りません。時には、神を侮辱した後でさえ、罪を嫌う気持ちにならことが多いのです。それどころか、さらに悪いことには、罪を犯したあとで、前よりも、もっと罪を犯したいように感じる時さえあります。何らかの理由で、わたしたちの力が弱まっているからでしょう。

罪を悔むという時、どのような罪であれ、罪となる行為や言葉などが魅力的に見えなくなることではありません。そうではなく、二度と罪を犯したくないという意志をもって罪を嫌うことなのです。心の痛みとは、「犯さなければよかったのに」、あるいは「しなければ良かったのに」と思うことです。しかも、本当に有効な痛悔であるためには、超自然的な心の痛みでなければなりません。すなわち、信仰にもとづく動機から生まれる痛悔の念が必要なのです。従って、何らかの形で、主に言及すべきです。究極の目的が神でなければ、罪を赦してくださる神に近づくことはできなくなります。自分自身の貧しい、哀れな状態に閉じこもってしまうので、自分に欠けている恩恵を得ることができなくなるのです。

痛悔の動機や理由はいろいろあります。しかし、すべてがゆるしの秘跡において恩恵を受ける準備になるとは限りません。誤った心の痛みをもって、前よりさらに神から離れるようなことが起らないよう注意しなければならないので
す。

三種類の心の痛みがあると言われています。

第一は愛の痛みと呼ばれるもので、心から生まれます。「神を愛する心から出る悲しみ。神は善い方だから。あなたのために命を捧げてくださった友であるから。あなたが持っている善いものはすべて神のものだから。何度も何度もあなたが神を侮辱したから…。そして、神はそれを赦してくださったから…。神が、あなたを、お赦しになったのだ。わが子よ、泣きなさい、神の愛から生まれる悲しみの心で」(『道』436)。

第二は、恐れと呼ばれるものです。これは、後の世で受ける当然の罰を恐れるところから生まれます。これは第一の動機ほど完全であるとは言えませんが、とにかく主のことを考えているので、たとえ恐れだけではあっても、赦しの恩恵を受けるには充分です。

そして第三に、超自然の生活とはまったく関係のない、高慢とも呼べる痛みがあります。愛から生まれるのでもなく、だからといって恐れから生ずる痛みでもありません。それは自己愛から生まれる痛みのことです。自分の不完全な点を知り、自分の不完全さに嫌気を感じるのみであって、「高慢の隠れ蓑」とも呼ぶべきものでしょう。このような心の痛みの原因は、神を侮辱したということにあるのではなく、自尊心が傷つけられた結果だからです。

従って、このような痛悔だけなら、ゆるしの秘跡に安心して近づくことができません。神の赦しを求める気持など全くなく、いたずらに自己完成を望んでいるだけなのです。