観想的な心の静寂:「午後の仕事の時間」と「夜の時間」

「午後の仕事の時間」や「夜の時間」は、 潜心し、主との〈言葉によらない対話〉を深める助けとなります。

洗礼者ヨハネの死の知らせがイエスのもとに届きました。胸を痛めた「イエスはひとり人里離れた所に退」こうとします(マタイ14・13)。しかし、多くの群衆が後を追ってくるのを見て、イエスの心は憐れみに動かされ、予定を変更します。病人を癒し、さらには群衆が空腹のまま帰ることがないように、パンと魚の奇跡を行います。一日の終わりに、最後の人々を見送った後になってようやく、イエスは切に求めていた父との親密な時間を見つけました。福音書記者は、夜になってもイエスはひとりでそこにいたと語っています。

「イエスの祈りは(…)わたしたちに教えてくれます。わたしたちが立ち止まって、神との親しい交わりの時を過ごさなければならないことを。日々の騒音から『離れ』なければならないことを。それは、耳を傾け、人生を支え養ってくれる『根拠』に向けて歩むためです」[1]。これは、単に忙しい日の終わりに休息を求めるというだけでなく、父との親密な対話に入りたいという心の望みの表れです。

聖ホセマリアもまた、自身の霊的生活を養うためにこの「幸いな孤独」[2]を必要としました。このため、彼はオプス・デイでは習慣として「午後の仕事の時間」と「夜の時間」を生きるようにと定めました。これらの時間は、種々の活動によって分散してしまいがちな諸感覚や諸能力を心の聖所に宿る神との親密な対話に集中させることを目的としています[3]。「午後の仕事の時間」においてこの対話は、主のためそして人々のために仕事を完成させることに向けられます。一方で、夜の時間においてこの対話は、一日を神と共に振り返り、翌朝の聖体拝領への望みを新たにすることに向けられます。

もちろん、これらの時間をどのように生きるかは、それぞれの人の状況、家庭生活のリズム、住んでいる場所、仕事の性質によります。時には、イエスのように、この潜心を中断して他者の必要に応えることが求められることもあります。例えば、特別な配慮を必要とする子ども、話を聞いてあげる必要のある兄弟姉妹、同僚との出張、助けを必要とする友人がいる場合などです。このように外的な沈黙を確保することは必ずしも可能ではありません。しかし、恋をする人のように、主との親密な対話を望む心を育むことは常に可能です。様々な仕事や用事の中で、また主が私たちのそばに置かれる人々との出会いの中で、主と共にいることを感じようと努めることができます。「神の子らは観想生活を営まなければならない。すなわち、人ごみの喧騒の中で主と絶えず語り合いを続けるため、心の沈黙の持てる人、夢中になって愛する父として友として主を見つめることのできる人でなければならないのである」[4]と聖ホセマリアは語っています。

祈りと仕事が一つになる

オプス・デイの創立者は、ある手紙の中でこう記しました。「仕事そのものを良く行うこと、人間的に見ても良い仕事をすること、職業的・社会的な責務をしっかりと果たすこと、それは神が私たちに委ねられたこの 『日常の仕事の聖化』の本質的な部分です」[5]。このため、「午後の仕事の時間」について言及するに際し、聖ホセマリアは、たくさんの散発的な活動をあれこれとすることによって散漫にならないよう、そして、「仕事を集中して、忠実に、しっかりと、愛を持って果たすことを容易にする」[6]犠牲を〈深める〉よう勧めました。つまり「午後の仕事の時間」において大切なことは、仕事を聖化しそれを主に捧げるための第一条件となる「良い仕事」をするための環境を作り出すことです。「信心家ぶった人ではなく、本当に信心深い人なら、職業上の義務をしっかり果たす。その仕事は神のもとへと昇る祈りであることを知っているからである」[7]

こういった意味で、静寂を〈生きる〉努力は、午後の仕事を〈生き〉、それをプロフェッショナルに遂行する助けとなり得ます。時にこの静寂に外的な静けさは伴わないでしょう。そのような状況がいつも可能であるとは限らないからです。この静寂とは何よりそれぞれの職務が必要とする落着きと集中力を持ってその仕事に取り組むことを意味します。「しばしば、私たちは仕事を終えたとたん、他のことをするためにすぐに携帯電話を探します。私たちはいつもそのようにします。このような態度は助けになりません。私たちを表面的にするからです。心の深みは静寂によって成長します」[8]。マルチタスクや、急ぐこと、気の散るものに注意を向けることは、内的な雑音を増やし、仕事を良くすることを妨げ、それゆえ聖化を困難にします。逆に、主の愛情深い眼差しを感じながら、目の前の仕事に全神経を注ぐことは、仕事を通じて神に栄光を帰することを容易にするでしょう。

観想的な精神、すなわち一日のすべてを祈りに変えたいという望みは、私たちを責任から遠ざけるものではありません。むしろ、それは神への愛と他者への奉仕の精神によって、一つひとつの具体的なタスクにおいて、良い仕事をするよう私たちを駆り立てます。このようにして、世間的には目立たない仕事も、主との対話に入ることにより、神的な意味を持つ永遠の価値のあるものになります。聖ホセマリアは、「祈りと仕事は区別されない。すべては観想であり使徒職である」とよく繰り返していました[9]。このことについてドン・アルバロは、私たちの創立者は「いつ祈り、いつ働いているかを判別できない。なぜなら彼にとってこの二つは同じ次元にあり、混ざり合って一つになっているからである」[10]とコメントしています。

「午後の仕事の時間」をこのように生きることは、この観想的な精神を一日中24時間生きるための良い訓練となるでしょう。どんな仕事であれ用事であれ、それは「私たちの思いを神から引き離しません。それどころか、すべてを神のために行い、神のために、神とともに、神のうちに生きる望みを強めてくれます」[11]。さらには休日など、「午後の仕事の時間」において厳密な意味での仕事に従事しない場合であっても、内的静寂と観想的潜心を探しながら生きることができます。そのようにして、落ち着きと主へと向かう心をもって、その日の夕方の祈りを準備することが可能です。

それゆえ念祷とは、つまるところ、「午後の仕事の時間」はじめ、一日を通して主と交わしてきた対話の延長となります。同時に「念祷のひとときと、口祷や射祷があればこそ、芝居がかったこともせずにごく自然に、日常生活を神への絶えざる賛美に変えることができるのです。愛し合っている者がいつも相手に思いを馳せるように、私たちも、このような祈りのおかげで神の現存を保つことができ」[12]るのです。

静寂を味わう

DYAの学生寮が始まって2年が経った時、それまで若者たちの形成活動のすべてを担っていた聖ホセマリアは、彼の子の何人かにこの仕事を手伝うよう依頼します。そのため彼は、形成を与える準備を容易にし、聖ラファエルの青年たちとの使徒的活動にインスピレーションを与えるいくつかのアイデアを取りまとめた指針を書くことを決めました。そこでこの学生寮で育むべき重要な特徴の一つとして、沈黙への愛を挙げています。「私たちの学生は、自分の沈黙が祈りであり、仕事であり、他者の休息であることを忘れないだろう。夜のコメンタリーの後、翌日のミサが終わるまで、大きな沈黙(silencio mayor)が守られる」[13]。聖ホセマリアは、この沈黙を規律や秩序の問題としてではなく、翌日の祈りとミサのための深呼吸と見なしていました。「それは味わうものであり、不可欠なものとなる」[14]

私たちは誰かに何かを聞いてもらうためには声を上げる必要があると思いがちです。そうすることでしか注意を引いたり、意見を魅力的に伝えたりできないと考えます。しかし神はその逆です。「夜の最も深い静寂の時、あなたのことばが地上に降り立った」(知恵18・14-15)。宿屋の喧騒ではなく、静かな馬小屋において、神は幼子になりました。絶え間ない刺激に囲まれた生活様式を前にして、イエスは私たちに、騒音から離れ、静寂を探すよう求めます。

日によっては、私たちを動揺させる出来事が起き、その意味を理解できず、不安や心配を抱えたまま眠りにつくこともあるでしょう。逆に、日中の出来事に満足したり、喜びに包まれて夜を迎えることもあるでしょう。このようなことすべてを夜の時間に主とともに黙想し、私たちの心を占めた感情を主と一緒にたどることができます。そのざわめき、その理解できなかった事柄は、その日の他の音と調和した旋律に変わります。また、私たちに喜びを与えたことも、孤立した音符ではなく、献身の歌の一部としてのより広い意味を持つようになります。そしてこの旋律は、私たちの期待に応じて無理に作るものではなく、沈黙の中で神が私たちに語りかけることを聞くことで生まれるものです。

ある哲学者は「人間のあらゆる不幸は、ただひとつのことから生じる。それは部屋の中で静かにとどまっていることができないということだ」[15]と言いました。夜の時間は、私たち自身の最も深い部屋、つまり「神と魂との間で極秘な事柄が行われる場所」[16]に入ることを助けてくれます。それは私たちを表面的なものから遠ざけ、「心の奥深くに、神が住まうための内的な空間を作り出」します。「こうして神のことばはわたしたちのうちにとどまります。神への愛がわたしたちの思いと心に根づき、わたしたちの生活を力づけます」[17]

したがって、この習慣はイエスとともに生きる熱意を育む助けとなります。結局のところ、これが私たちがすべてを売り払って得た宝物なのです(マタイ13・44参照)。心はその孤独を必要とします。それは心を清めるため、様々な束縛から解放する唯一の情熱によって養うためです。この理想は翌日の祈りとミサの中で表現されます。長い間待ち望んできたものが近づくと心は躍ります。同じように、夜の時間に翌日待ち受ける神との〈約束〉への渇望を新たにすることができます。その望みは単なる「気が進む・進まない」といった次元を超えたものです。それは主が私たちに与える恵みであり、私たちの在り方を形作るものです。この時間が必要であると聖ホセマリアが感じたのもそのためです。それは、神が彼の心に置いた、彼の人生の原動力となる理想を養う機会だったのです。帰するところ、それはイエス自身の姿勢と同じです。忙しい一日の後、彼は父と二人きりになることを切望したのでした。

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おそらくイエスは、ナザレの家でその沈黙の時の価値を学んだのでしょう。実際、福音書には聖ヨセフの言葉が一つも記録されていません。彼は聞くことに重きを置いた人でした。そして、その注意深い態度のおかげで、天使を通じて神の声を認識することができました(マタイ1・20-24参照)。マリアは、起こったことすべてを心に深くとどめていました。自分の子の誕生を取り巻いた不思議な出来事も(ルカ2・19参照)、神殿で息子を見つけたとき、彼の答えが理解できなかったことも(ルカ2・51参照)。聖母はこれらすべてを味わい、喜ばしいことや理解できないことを通して神が奏でる旋律に耳を傾けたのです。イエスは30年の隠れた時を経て初めて公の生活を始めました。その30年は仕事と沈黙の時でした。その間について聖ルカは書き記しています:「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2・52)。


[1] ベネディクト十六世、一般謁見演説、2012年3月7日。

[2] 聖ホセマリア『道』304番。

[3] ハビエル・エチェバリア、家族への手紙、1997年9月1日参照。

[4] 聖ホセマリア『鍛』738番。

[5] 聖ホセマリア、手紙24、18番。

[6] 聖ホセマリア(Crónica, 1967, p. 788)。

[7] 聖ホセマリア『鍛』739番。

[8] フランシスコ、一般謁見演説、2021年12月15日。

[9] 聖ホセマリア、指針、1934年3月19日、注釈35番参照。

[10] 福者アルバロ、1941年12月8日付指針のコメンタリー、注釈38番。

[11] 聖ホセマリア『神との対話のうちに』212番。

[12] 聖ホセマリア『知識の香』119番。

[13] 指針、1935年1月9日、169番。

[14] 同、注釈115番。

[15] パスカル『パンセ』139番。

[16] イエスの聖テレジア『霊魂の城』(Las moradas, I, n.14)。

[17] ベネディクト十六世、一般謁見演説、2012年3月7日。

José María Álvarez de Toledo