戦い、親しさ、使命
ここまでの短い考察によって、これから始まるシリーズの主な軸が浮かび上がります。この連載を構成する各記事では、神が私たち皆に望んでおられる聖性への道について、それぞれ異なる視点から考えていきます。その道の歩み方は、一人ひとり異なります。「右から、左から、ジグザグに、歩いて、馬に乗って」[1]…。この連載の軸は、三つの言葉にまとめることができます。それは、「戦い」「親しさ」「使命」です。この三つのテーマは、神へと向かう道に常に存在するため、連載の最初から最後まで通底しています。それでも、なぜこの順序なのかについて、少し立ち止まって考える意味があります。とりわけ、この道において何よりも大切なのは、神が私たちに抱いておられる愛だからです。
私たちの内にも外にも抵抗がある中で、何の妨げにも遭うことなく神に生きることができると考えるのは、あまりにも楽観的だと言わざるを得ません。戦いは聖性への道の根源的な力ではありませんし、多くの場合、その出発点でもありません。しかし、歩み始めれば、まもなく戦いは現れます。「子よ、主に仕えるつもりなら、自らを試練に向けて備えよ。心を引き締めて、耐え忍べ。災難のときにも、取り乱すな」(シラ2・1-2)。罪によって傷ついた世界にあって、試練、誘惑、戦い…これらを避けることはできません。「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」(マタイ11・12)。このような視点から考え始めることによって、天国へ向かう道をあまりにも無邪気に、あるいは都合よく捉える見方を避けることができます。しかし同時に、聖性とは何よりも戦いそのものだと考えるのも、また単純で表面的な理解です。聖性とは、神によって生きること、神が私のうちに生きてくださるよう身を任せることなのです(ガラテヤ2・20参照)。
「神は絶えず直ぐそばにおいでになる(…)。 神は愛情深い父として傍らにおられ、世界中の母親たちが自分の子供を愛することができる以上に、私たち一人ひとりを愛し、助けの手を差し伸べ、霊感を与え、祝福し…、赦してくださる」[2]。この身近におられる神の親しさに触れ、私たちは、いついかなる時にも、神が私たちの祈りを聞いてくださっていることを知ります。また、神は、信仰をともにする兄弟姉妹との友情や霊的同伴、そして秘跡などを通して、この親密さを示してくださいます。キリスト者は、神からも兄弟姉妹からも、いつも身近に寄り添ってもらっていることを知っています。いつも自分の居場所があると感じています。そして、それによって今度は自分も他の人々に近づき、自分が絶えず受けている家庭のぬくもりを、彼らにも分かち与えるようになるのです。福者グアダルーペも、ほかの多くの人々と同じように、このように生きました。「神が自分のそばにいてくださること、そして神が自分を愛してくださっていることを確信していたため、彼女は素朴さと穏やかさに満たされ、自分の過ちや欠点を恐れることなく、いつも前へと進み、何事においても神と人々を愛そうと努めることができました」[3]。
したがって、聖性への道は、孤独な道ではありません。また、個人主義的な救いを目指す計画でもありません。キリスト者の生活のすべては、人とのつながり、家族とのつながりの中にあります。主、兄弟姉妹、子どもたち、両親、友人、同僚…。こうした人々こそ、私たちが努力し、自分自身に打ち勝とうとする理由です。もし彼らがいなければ、私たちは戦うことをやめ、あきらめてしまうかもしれません…。しかし、私たちは、彼らの支えを頼りにすることができるのと同じように、彼らもまた私たちを頼りにしていることを知っています。つまり、彼らには私たちが必要なのです。「わたしはこの地上に派遣されているのです。そのために、わたしはこの世にあるのです。人々を照らし、祝福し、励まし、起き上がらせ、いやし、解放する使命の焼印を押された者として、自分を認識しなければなりません」[4]。聖人たちは、このように生きてきました。神によって生き、神のために生き、他の人々によって生き、他の人々のために生きたのです。
* * *
聖ホセマリアは、私たちの旅の目的地に思いを馳せるとき、「神のすべての偉大さ、神のすべての知恵、神のすべての美しさ、すべての躍動、すべての色彩、そして、すべての調和」が、「私たち一人ひとりという、あの小さな土の器」[5]に注ぎ込まれる瞬間を思い描いていました。そして、自分は脇に退き、自分の子どもたちがさらに高いところにいる姿を思い描いていました。「私には一つの弱点があります。それは、皆さんをとても愛していることです。私の天国は、きっと小さな扉からそっと入り、片隅に身を置いて、至福の三位一体を眺め、愛することになるのだと思います。そして、そこから身を隠すようにして、楽園で、私の娘たち、息子たちが、神のすぐ近く、高いところにいるのを見るのです」[6]。
[1] 聖ホセマリア、A・サストレ『Tiempo de caminar』、Rialp、マドリード、1989年、252頁に引用。
[2] 聖ホセマリア『道』267番。
[3] F・オカリス「Guadalupe: un camino al cielo en la vida cotidiana」『ABC』、2019年5月13日。
[4] フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』273番。
[5] 聖ホセマリア、家族の集いでのメモ、1968年10月20日、A・サストレ『Tiempo de caminar』、625頁に引用。
[6] 聖ホセマリア、家族集いでのメモ、1970年4月5日、同書、同頁に引用。
