「命を選べ」(2)

聖人は神のうちに「自分を失います」。そして、まさにそのことによって、本当の意味で「自分自身を見いだす」のです。

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聖性とは「与えること」、しかしそれ以上に「受け取ること」

「命」を選んだ「小さな者たち」である聖人たちの生涯を思い巡らすとき、私たちはしばしば、その聖性が伴った放棄や闘い、そして「自らを小さくすること」にまず目を向けます。それも当然のことです。聖人は必ず、さまざまな逆らう力に立ち向かわなければならないからです。イエスはご自身がその道を歩まれ、その道で私たちがこのような試練に遭うことをあらかじめ告げてくださいました。 「あなたがたには世で苦難がある」(ヨハネ16・33)、「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろ」(ヨハネ15・20)、「サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを求めた」(ルカ22・31)。ですから、キリスト者の人生を安易なものと考える余地はありません。しかし同時に、この地上における他のどのような生き方も決して容易ではありません。結局のところ、どのような人生にも、多かれ少なかれ価値ある目的のために、犠牲や放棄、そして闘いが求められるのです。

「私たちが戦っている間──その戦いは死ぬまで続きます──、内にも外にも敵が激しく立ち上がることがあっても、不思議ではないと思いなさい」[1]。神への愛は、私たちの内なる抵抗にも直面します。なぜなら、神を愛するということは、「何かを失うこと」を伴うからです。たとえば、自分の人生のすべてを思いどおりに支配しようとすることを手放さなければなりません。また、自分の欲求を何でも満たそうとすることも放棄しなければなりません。あるいは、人から認められることを失うかもしれず、自分の十字架を担うことにもなります。「私たちが神の御手に身をゆだねるとき、神はしばしば、苦しみや孤独、反対や中傷、名誉を傷つけられること、嘲笑などを味わうことをお許しになります」[2]。このように、人は世の人々が「人生」と呼ぶものを、確かに数多く失います。しかし、このようにして自分の命を失う人は、それを虚しく失うのではありません。神のうちに失うのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16・25)。聖人は神のうちに「自分を失います」。そして、まさにそのことによって、本当の意味で「自分自身を見いだし始める」のです。

神のうちに「自分自身を見いだす」とは、どういうことでしょうか。聖ヨハネは、その第一の手紙の中でこう書いています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださいました(…)。ここに愛があります」(一ヨハネ4・10)。この箇所のギリシア語原文では、アオリストという特殊な時制が用いられています。 それは、ある意味で「開かれた過去」と呼ぶことのできるものです。これは、聖母マリアのマニフィカトにも、イエスのマニフィカトとも言える箇所にも共通して現れる時制です。これらすべての場合に示されているのは、「主が歴史の中で絶えず行われる行為」[3]、すなわち、一人ひとりの人生の歴史の中で主が行われる行為なのです。したがって、聖ヨハネが言っているのは、神が過去に一度、決定的な形で私を愛してくださったということではありません。そうではなく、神は「いつも私を愛してくださっている」ということです。 そして、私が本当に愛するとき、そのたびに私を愛してくださっているのは神ご自身であり、また「私の中で」愛しておられるのも神ご自身なのです。まさに今、この瞬間に。

このように、聖人が自分自身をささげ、「自分の命を失う」ということは確かに真実です。しかし、それ以上に真実なのは──つまり、前者を包み込み、その土台となっている真理という意味で──聖人は神のうちに「自分自身を見いだし」、そして自分のすべてを神から「受け取る」ということです。それは、イエスがご自分のすべてを御父から受け取っておられるのと同じような意味においてです[4]。ここに、聖人たちの愛の秘かな源があります。また、ここにこそ、単なる人間的な視点から見れば不可能、あるいは耐えがたいと思われるような生き方を、彼らが可能にする力があります。このように、聖人たちは日々、自分の限界や弱さを感じながらも、神の中に浸り、神に満たされ、神化された状態で歩み続けます。彼らの中で、「渇きを覚えた旅人であるキリスト者が、泉の水に口を開く」[5]という姿が実現しているのです。

弟子たちは驚きながらイエスを見ていました。その彼らにイエスは言われます。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(ヨハネ4・32)。イエスは、御父の御心を行うことによって生きておられます。それこそがイエスの命であり、それこそがイエスの栄光なのです。それ以外のものを必要とはされません(ヨハネ4・33-34参照)。その少し前、井戸のそばでイエスはサマリアの女性にこう語っておられました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(ヨハネ4・10)。主はこの言葉を、私たち一人ひとりの耳元で語ってくださいます。「もしあなたが神の賜物を知っていたなら、もし私があなたに何を与えようとしているのかを悟っていたなら、あなたは、私があなたから何かを奪おうとしているのではないことに気づくでしょう。あなたの時間も、力も、忍耐も、努力も、あなたから何かを奪うために求めているのではありません。このことを知ったなら、あなたはもはや、神にささげるものを量ったり、計算したりすることはなくなるでしょう。なぜなら、あなたが何かを神にささげるたびに──それがたとえ小さな一枚の硬貨であっても、一杯の水であっても──実は、そのたびに神があなたにご自身を与えてくださっていることに気づくからです。そのたびに、あなたが受け取るのは、まさに『神ご自身』なのです」。

このように考えると、聖性について語るとき、なぜ私たちが「自分をささげること」や「放棄」についても語るのかが、少しよく分かるかもしれません。それは、私たちの内に抵抗が存在するからです。世界は傷ついており、人間関係も傷ついています。なぜなら、人の心そのものが傷ついているからです。しかし、この抵抗は現実のものであるとはいえ、私たちが神と結ばれるほど、その力を失っていきます。自分を何度も与えようとする努力がなくなるわけではありません。しかし、その努力は、私たち自身が受け取っている賜物、すなわち私たちを包み込む無限の愛と一つに溶け合っていくのです。神に生きる男女は、イエスが十字架上でそうであったように、「あの驚くべき至福と苦しみの結合のうちに」[6]生きています。そして、自分たちが与えるものよりも、はるかに多くを受け取っているという深い確信を抱いています。彼らの魂は、「​愛の​こもった​神の​視線を、​四六時中、​感じ味わう」[7]のです。聖母マリアのように、彼らは神が自分たちの中で偉大なことを行ってくださっていることを知っています(ルカ1・49参照)。そして、「自分たちの中で」愛しておられるのは、いつも先に愛してくださる方、彼らの愛の源である方なのだと知っているのです。

ですから、結局のところ、聖性とは、父である神を源とする「三位一体の愛の流れ」[8]の中に入り、そこにとどまり続けることなのです。その愛の流れは、父なる神から始まり、愛される方、最初に愛された方であるイエスを通して、私たちのもとに届きます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15・9)。そして、私たちがとどまることを望むこの父とイエスの愛、それが聖霊なのです。だからこそ、私たちは聖霊を「聖化する方」[9]、また「命を与える方」[10]と呼びます。では、神の聖人たちはどうでしょうか。「ああ、一人ひとりの聖人は、聖霊の恵みの傑作なのです!」[11]


[1] 聖ホセマリア『神の朋友』214番。

[2] 聖ホセマリア『神の朋友』301番。

[3] ベネディクト十六世、一般謁見演説、2006年2月15日。

[4] ルカ10・22、ヨハネ5・26、17・24、詩編2・8参照。

[5] 聖ホセマリア『神の朋友』310番。

[6] 「in mirabili illa beatitatis dolorisque commixtione」聖ヨハネ・パウロ二世、使徒的書簡『新千年紀の初めに』27番。

[7] 聖ホセマリア『神の朋友』307番。

[8] 「corriente trinitaria del amor」聖ホセマリア『知識の香』85番。

[9] 『カトリック教会のカテキズム』739番参照。

[10] 『カトリック教会のカテキズム』202番参照。

[11] 聖ヨハネ二十三世、演説、1960年6月5日。

Carlos Ayxelà