愛すべき天地―この世を熱烈に愛する

聖ホセマリアの説教、1967年10月8日。

皆さんが聞かれたのは聖霊降臨第二十一主日の厳かな聖書朗読です。神の言葉に耳を傾けた今、これから私がお話しする事柄、聖なる教会の子らに語りかける司祭の言葉の範囲をすでに分かってくださったことでしょう。超自然的になって欲しいと願いつつ述べる私の言葉が、神の偉大さと人々への慈しみの数々を宣言し、今日ナバラ大学のキャンパスで祝う驚嘆すべき聖体の秘跡にあずかる準備に役立てばと思います。

今述べたことをしばし考えてください。私たちが祝うのは聖体であり、主の御体と御血の秘跡的な犠牲(いけにえ)、キリスト教のすべての秘義を結びつけ中心となる信仰の秘義(信仰の神秘)なのです。ということは、神の恩寵のおかげで、人間がこの世でできることの中でも、最も神聖で最も超越的な行為をすることになります。主の御体と御血を拝領すると、いわば今からこの世と時間の絆から解き放たれて、天にまします神のそばにいることになります。天国では、キリスト御自身が私たちの涙を払ってくださり、死ももうなく、悲しみも叫びも苦労もなくなる。古い世界は過ぎ去っているはずだからです。(1

ゆがめられたキリスト教観

しかし、神学者が聖体の終末論的(しゅうまつろんてき)意義(いぎ)と呼び慣わしているこの慰めに満ちた深遠(しんえん)な真理も、誤解されることがあります。事実、キリスト教的な生き方は、ただただ<霊的なもの>つまり精神論として示されてきました。この世の卑しい事柄とは交わらぬ<純粋>で特殊な人たちか、そうまで言わなくても、それらを精々現世で生きる間は霊に課せられたものとして許容する人たちにふさわしい生き方だと考えられてきたのです。

このような見方をすると、教会すなわちキリスト教的生活の場ということになってしまいます。キリスト信者とは、教会に通い、聖なる儀式にあずかり、一種の隔離された<世界>をなし、天国の控室と称される教会社会に浸りきった人のことで、その外では世界が自分の道を進むというわけです。となれば、キリスト教の教えや恩寵の生活は、人間の歴史のあわただしい進展とは出会うことなく、ただその傍をかすめるように通り過ぎるだけです。

十月の朝を迎え、用意万端(ばんたん)整えて主の過越の記念にあずかる私たちは、このようにゆがめられたキリスト教観をきっぱりと否定しなければなりません。ほんのしばらく、感謝の祭儀であるミサ聖祭を祝う場について考えてみましょう。私たちは二つとない聖堂にいます。外陣は大学のキャンパス、祭壇の後ろを飾る衝立(ついたて)は大学図書館、その反対側には新校舎建設中の機械類、上空に広がるナバラの空。

こう数えあげてみると、日常の生活こそキリスト信者の本当の生活の場であることが、絵を見るように明らかになり、脳裏に焼き付くのではないでしょうか。皆さん、兄弟である人々のいるところ、希望の実現をめざし、仕事に従事し、愛情を捧げるところ-これこそ皆さんが日々キリストと出会う所です。この世の最も物質的なものの真っ只中(まっただなか)こそ、神と人々に仕えつつ自らを聖化すべきところです。

私が聖書の言葉を使って常にお教えしているように、世界は良きものです。それは神の御手から出たもの、神の被造物であり、神なるヤーウェがご覧になり、よしと思われたからです。(2)良き世界を悪いもの醜い(みにくい)ものとしたのは、人間の罪と不信仰です。皆さん、決して疑わないでください。この世に属する皆さんのような男女が日常の正当な諸現実から逃げるようなことがあれば、それは神の御旨に反する生き方です。

逆に、人間生活の社会的、物質的、世俗的な仕事の<中>で、それらを<通して>神に仕えるよう招かれていることを今、改めてはっきり理解していただかなければなりません。研究所や病院の手術室、兵舎や大学の教壇、工場や作業場、田畑や家庭、その他広範にわたるあらゆる種類の仕事の中で、神は日々私たちを待っておられます。ぜひ知っておいてください。ごくありふれた状況の中に聖なること、神的なものが隠れています。そして、それを見付け出すのは、私たち一人ひとりの責任なのです。

キリスト教的物質主義

一九三十年頃・私のもとに来ていた学生や労働者に、霊的生活を物質化できなければならない、と教えていました。当時も今も頻繁に見られる一種の二重生活への誘惑から守りたいと望んでいたのです。すなわち、一方では、内的生活、神と関係を保つ生活を営み、他方では、それとは係わりない全く別の生活、現在の些細な事柄に満ちた家庭生活や職業生活、社会生活を営む誘惑です。

皆さん、二重生活は避けてください。そんな生活を送るべきではありません。キリスト信者でありたければ、分裂症的な生活を送ってはならないのです。あるのはただ一つ、霊と肉からなる生活です。このたった一つの生活が神に満ちたものとなり、霊魂と体両方を聖化するものでなければなりません。そして、目に見えぬ神に出会うのは、この最も目に見やすい物質的な事柄の中なのです。

皆さん、平凡な日常生活の中で主に出会うことができるか、いつまで経っても出会わないか。これ以外に道はありません。それゆえ私たちは今、ごくありふれたものや状況に、本来の高貴な意味を取り戻させ、神の国に役立たせ、霊的なものにする必要があると申せます。それには、全てをイエズス・キリストとの絶え間ない出会いの手段とし、機会にしなければなりません。

全ての体の復活を信仰告白する真のキリスト教は、物質的だというレッテルを貼(は)られるのを恐れず、「体から離れた純霊説」とは、当然ながらいつも対立してきました。そこで、霊魂には扉を閉ざす物質主義と真っ向から対立した「キリスト教的物質主義」とも称すべき立場を主張できると考えます。

昔の人が託身(受肉)されたみことばの足跡と称した秘跡は、私たちを聖化して天国へ連れていくために、神が選ばれた道をはっきリ示すものであることに疑いの余地はありません。おのおのの秘跡は、創造する力と贖う力をすべて備えた神の愛てあり、物質的な手段を使って私たちに与えられることもお分かりでしょう。これから始まるユーカリスティア(聖体の祭儀)とは、贖い主の尊い御体と御血にほかなりません。私たちはそれを、最近の公会議が指摘したように「人間が栽培する自然のもの」。(3)「大地の恵み、労働の実り」であるこの世の慎ましい材料、パンとぶどう酒という形で受けます。

「すべてあなたたちのものである。しかし、あなたたちはキリストのものであって、キリストは神のものである」(4)と、使徒聖パウロの書いたわけが分かるのではないでしょうか。私たちの心に注がれた聖霊が、この世で起される動き、地上から主の栄光に向かう上昇運動について述べているのです。そして聖パウロはその動きの中にいかにも平凡な事柄が含まれていることを明らかにするため、「食べるにつけ飲むにつけ、何事をするにもすべて神の光栄のために行なえ」、(5)とも書き記しています。

完璧な仕事

ご存じのように、聖書のこの教えは、オプス・デイの精神の核心をなすものです。この教えに従うなら、仕事を完全にやり遂げ、日々の些細なことがらに愛を込めることによって神と人を愛し、小さなことの中に隠れている「聖なるものを」発見できるようになるでしょう。こういう意味で、あのカスティリーヤ地方の詩人の言葉が見事に当てはまります。「ゆっくりと丁寧にやれば、良い出来映えにつながる。」(ゆっくりと、丁寧に、何事であれ、成すだけでなく、仕方が大事)(6

皆さん、キリスト信者が重要性のないと思われる日常のことがらを愛を込めて果すなら、それは神的な重要性に満ちたものになると保証します。だから私は、キリスト信者の召し出しとは毎日の散文を英雄詩にすることだと幾度となく繰り返してきました。天と地は地平線で一つになるように見えます。しかし実はそうではない。天と地が本当に一つとなるのは、日常生活を聖化しようとする皆さんの心の中なのです。

今、日常生活を聖化すると申しましたが、私はその言葉の中にキリスト信者の務めのすべてを含めています。無駄な夢を見たり、実現不可能な理想を育んだり、空想を描いたりするのはやめましょう。私はこの種のものに「夢想神秘」という名を付けました。結婚していなかったら、こんな仕事に就いていなかったら、もっと健康に恵まれていたら、もっと若かったら、もっと齢を重ねていたら、等々。しかし、こんなことを考えず、主がおられるところ、つまりもっと実質的でもっと身近な現実に真剣な態度で携わってください。復活されたイエズスは「私の手と足を見よ。私自身だ。触れて確かめよ。あなたたちの見ている私のこんな肉と骨は霊にはない」(7)と仰せになったではありませんか。

社会人としてのものの見方

今のべた真理から考えると、皆さんが生活しておられる世俗社会の沢山の面に光を与えることができます。たとえば、社会の一市民としての行動について考えてみましょう。教会や聖堂だけでなく、この世界こそキリストとの出会いの場であると知る人は、世界を愛するはずです。知的にも専門的にも良い形成を受けるよう努め、自分が活動する分野の諸問題について、自由に自分の考えを育む。その結果、独自の判断を下すでしょうが、それは、単に自分で考えるだけでなく、人生の大小さまざまなことがらの中に神の御旨を見つけるために謙遜な努力をするキリスト信者の判断になることでしょう。このようなキリスト信者であれば、自分は教会を代表するために教会から社会に下っているとか、自分の提案する問題解決が「カトリックの解決法」だとか、考えたり言ったりすることはありません。およそあり得ないことです。万一そのようなことになれば、それこそ聖職者主義、「官僚的カトリシズム」とでも称すべきものでしょう。呼び名は別にしても、物事の本質を著しく歪めることに変わりはありません。皆さんはあらゆる所に本物の「社会人としての物の考え方」を広めてくださなければなりません。それには三つの原則があります。

・ 自分の言動について責任を負うという高潔な態度を維持すること。

・ 誰もが自由に意見を述べうる事柄に関して、同じ信仰の兄弟が自分とは異なる解決法を提案したとき、彼らを尊重できるキリスト信者であること。

・人間的な派閥争いを母なる教会に持ち込んだり、教会を自分の利益のために利用したリせぬカトリック信者であること。

どの分野でも同じですが、この分野においても明らかなのは、神の似姿として造られた人間の尊厳と教会が共に認める自由を享受できなければ、私たち人間が日常生活の聖化という理想を実現させることはできないという事実です。個人の自由はキリスト教的生活をするために欠くことのできぬものです。ただし、私が自由と言うとき、常に責任を伴った自由を考えていることを忘れないでください。

私の言葉を文字通りに受けとってください。緊急の場合に限らず、日々、自己の権利を行使せよとの呼び掛けです。また、政治や経済の分野で、大学で、専門職で、市民・国民としての義務を高潔な心で果そう。ただし、自由に決定した結果として生じたことを全て勇敢に引き受け、自主性に伴う責任を負うことにしようという呼び掛けです。このように、キリスト教的な「社会人としての物の見方」をもっているなら、偏狭(へんきょう)や狂信に陥らずに済むでしょう。言い換えれば、人々と平和に暮らし、社会生活のあらゆるレベルで共存を育んでゆけるでしょう。

社会人としてのキリスト信者

長年のあいだ繰り返してきたので改めて申し上げるまでもないとは思いますが、市民としての自由と共存(協調)・理解についての教えはオプス・デイが広める考え方の中心です。オプス・デイにおいてキリストに仕えたいと望む男女は、他の市民と同じく普通の社会人であり、真剣に責任をもって自らキリスト者としての召し出しを、その最後の結論に至るまで実行するよう努力を傾けていると、強調する必要はないでしょう。

私の子供たち(メンバー)と一般人とを区別するものは何もありません。逆に、同じ信仰に生きるという点を除けば、修道会や修道院に属する人とは何らの共通点もありません。私は、修道者を心から愛しています。教会の聖性の別のしるしとしての修道生活と修道者の使徒職、世間からの隔離(世を軽蔑する生き方)を敬い、称賛しています。しかし私は修道者になる召し出しを主から頂かなかったのですから、修道者としての召し出しを望めば、無秩序としか言いようがありません。いかなる権威と言えども、私を修道者にすることはできません。いかなる権威も私に結婚を強要できないのと同じです。私は在俗司祭です。情熱をこめてこの世を愛しているイエス・キリストの司祭なのです。

この哀れな罪人と一緒にキリストにつき従ったのはどのような人たちでしょう。まず、以前は信徒として専門職や仕事に就いていたが今は司祭として働くわずかの人々。ついで、世界中の多くの司教区に属する在俗司祭(教区司祭)がおり、彼らはオプス・デイの聖十字架司祭会に属することによって各々の司教の従順と教区の仕事の効果を確かなものとします。全ての人を心に受け入れる両腕を十字架の形に広げ、私と同じように町の中、この社会にいながら、この世を愛する司祭です。そして、多様の国籍、言語、民族からなる大勢の男女信徒。彼らはそれぞれ自分の専門職で生計をたてています。その大部分は結婚していますが、独身者も多く、全員が人々と共に、もっと人間的でもっと正義にかなった社会を建設するという重大な課題に取リ組んでいます。日々の労苦という高貴な戦いを- 繰り返しますが- 責任をもって続け、人々と共に成功や失敗を経験し、社会における市民としての義務を果し、権利を行使すべく努力を傾けています。良心的なキリスト信者であれば誰でもそうであるように、自分は選ばれた者だというよな意識を持たず、大勢の仲間に溶け込み、まことに日常的な現実の中で輝く神的な光を見つけだす努力をする人たちなのです。

オプス・デイの使徒職

一組織としてオプス・デイが進める事業も在俗的な性格を顕著に備えており、教会そのものが推進する事業ではありませんから、教会の位階(ヒエラルキア)を代表したり、その代理としての働きはしません。私たちの事業は人間的福祉、文化、社会事業であって、それらを福音の光で照らし、キリストの愛で暖めるため努力する市民が推し進めているものです。たとえば「聖霊によって任命された」(8)司教方が将来の司祭を養成する教区神学校の運営はオプス・デイの使命ではありません。

一方、オプス・デイは、全世界で職業訓練所や農業技術訓練所、小中高等学校や大学など、多種多様の事業を進めています。私たちの使徒職面での熱意は、何年も前に書いたように、果てしない大海原(おおうなばら)のように広がるからです。

ナバラ大学(スペイン)

ところで、皆さんが今ここにいらっしゃること自体、長々しい話よりも遥かに雄弁に本当の姿を語っているわけですから、私がこれ以上の話を続ける必要はないと思います。ナバラ大学友の会(後援会)の皆さんは、社会の進歩に貢献しなければならないと自覚しておられます。皆さんからの心温まる激励や祈り、犠牲、寄付は同じカトリックだからという理由で捧げられたのではありません。ご協力は公益を心にかける市民としての自覚を明らかに示すものであるとともに、市民の力によって大学が生れ、維持されることを如実に示しています。

この機会をお借りして、大いなるナバラに位置する気高いパンプロナ市のこの大学に対するご協力に感謝いたします。スペイン全土から集まってくださった後援会員の皆さん、中でもスペイン以外の国の方々、さらにカトリック、あるいはキリスト信者でない方々で、この大学の意図と精神を理解し、実際に援助してくださった皆さんに、心より感謝の意を表したいと存じます。

この大学が、日々より良く自由の発展や知的訓練の場、各分野の仕事の研鑽(けんさん)の場、大学教育への大きな刺激の中心となりましたのも、ひとえに皆さんのご協力のおかげです。皆さんの惜しみない犠牲は、学問の進歩と社会の発展、信仰の知を追求する普遍的な事業の土台になっています。今、私が申し上げたことをナバラの人々ははっきりご覧になっておられ、この大学が当地の経済的発展、特に地域社会の発展の主な要因であったことも周知の通りです。人々の生活の中で大学が果す役割を理解してくださったからこそ、大学創設以来、ナバラの人たちが強力な援助の手を差し伸べてくださったことは明らかです。この支援は日々高まり、広がっていかなければならないと考えています。

同時に、何らの利益も求めず、公益に資するためにのみ全てを捧げ、国家の現在と将来の繁栄に貢献せんとする事業が、国の援助を受けて負担を軽くできる日の来ることを望んでいます。この種の援助は現に各国で与えられ、当然であると考えられています。

人間の愛

さて、私たちにとってとりわけ大切な日常生活のもう一つの面、つまり人間の愛、男女間の清い愛、婚約、結婚についてしばらく考えてみましょう。人間の清い愛は、先に述べた偽りの精神主義がほのめかすように、本当の霊的(精神的)活動の傍らで、ただ単に許され容認されるだけのものではありません。私が話したり書いたりして、そうではないと説き続けて四十年が経ちました。はじめは理解できなかった方々も今では次第に分かってくださっています。

結婚生活と家庭生活に向かう愛もまた、聖なる道、召し出し、すばらしい道、神へのまったき献身の道になるのです。すでに思い起していただいたように、全てを完壁にやりとげ、日々の小さなことがらに愛をこめ、些細なことがらの中に隠れている「神的なもの」を見つけ出してください。これら全ては活力ある人間の愛のあるところで実現できるはずなのです。

ナバラ大学の教授と学生、職員の方々ならご存じのように、私は皆さんの愛を麗(うるわ)しい愛の御母・聖マリアに託しました。皆さんが捧げる清くすばらしい愛と祈りを受け入れて祝福してくださるよう、キャンパスに聖母小聖堂を信心をこめて建立しました。「あなたたちの体は、その内にある神から受けた聖霊の神殿であって、自分のものではないことを知らないのか。」(9)何度となく皆さんは、麗しい愛の聖母像の前で、使徒聖パウロのこの質問に喜びにあふれて答えることでしょう。神の御母、知っております。あなたの力強い御助けを得て、聖霊の神殿にふさわしく生きたいと望んでいますと。

この感動を誘う事実を黙想するごとに観想的な祈りが湧き上がることでしょう。聖霊は物質にすぎぬ私の体の中にご自身の住まいを定められた。私はもう私のものではない。私の体も霊魂も、私の全存在が神のものである。そして「自己の体をもって神に光栄を帰せよ」(10)という、聖パウロの言葉を実行することによって、この祈りは具体的な行いを豊かに生み出すことでしょう。

ところで、次の事実を忘れることはできません。すなわち、これまで続けてきた人間愛に関する黙想の中身を本当に深く理解し、評価できる人だけが、イエズスの独身についての言葉(11)の意味を理解できるということ。神のための独身とは純粋に神の賜です。それによって、地上の愛を通さず、心を分かたず、体と霊魂を神に捧げることができるのです。

そろそろ終らねばなりません。神の偉大さと慈しみについて少しばかり話すつもりでしたが、日常生活の聖化について話した今、私の望みは達せられたと考えます。と言うのも、世俗の現実の中で物静かに単純に真実を愛する心で聖なる生活を営むことこそ、世を救うため小止(こや)みなく働かれる神の深い慈しみ「神の数々の不思議」(12)のもっとも心を打つ表れであるからです。

詩篇作者と一緒に、皆さんにお願いします。私の祈りと賛美に心を合せてください。「共に主を称(たた)えん。共に主の御名を崇(あが)めん。」(13)皆さん、信仰に従って生きましょう。

少し前に朗読されたエフェゾ人への手紙の中で聖パウロが力づけていたように、信仰の楯(たて)、救いの兜(かぶと)を身に帯び、神の言葉である霊の剣(つるぎ)をとりたいものです。(14)

信仰はキリスト者にとってすこぶる必要な徳ですが、教皇パウロ六世の布告された「信仰の年」である今年には、特に必要です。信仰がなければ、日々の生活を聖化するための土台そのものを欠くことになるからです。「信仰の神秘(聖体)」(15)に近づく今、篤い信仰が要求されています。神の慈しみの集約であり実現である主の過越にあずかるところだからです。

皆さん、間もなく祭壇上で再び実現される「私たちの贖いの業」(16)を宣言するため信仰が必要です。クレド(使徒信経)を味わい、今この祭壇の上、この集いの中で実現するキリストの現存を身をもって体験するため信仰が必要です。キリストの現存のおかげで、私たちは「心と霊を一つに」(17)して、一、聖、公、使徒継承のローマ教会、つまり普遍の教会となることができるのです。

愛する皆さん。最後にもう一つ、以上全てのことがらは儀式と言葉ではなく神的な現実であることを世界に示し、人々に日常生活は聖化され得ると証言するときも、やはり信仰が必要です。御父と御子と聖霊、聖母マリアの御名によって。


1 黙示録 21・4参照

2 創世の書1・7以下参照

3 第二ヴァチカン公会議「現代世界憲章」38番

4 コリント1、3・22~23

5 コリント1、10・31

6 A.マチャード “Poesias completas” CLXI, 格言とうた」XXIV. Espasa-Calpe. Madrid, 1940

7 ルカ 24・29

8 使徒行録 20・28

9 コリント1、6・19

10 コリント1、6・20

11 マテオ19・11参照

12 シラの書18・4

13 詩篇33・4

14 エフェゾ6・11以下

15 ティモテオ1、3・9

16 聖霊降臨後第九主日 ミサ密誦

17 使徒行録4・32