年間第12週・水曜日 102 その実によって何かが分かる

― 良い木は良い実を結ぶ。偽教師と悪い教義。 ― 神との交わりとキリスト信者の仕事。 ― 「世俗主義」のにがい実。世の中での信者の活動。全ての事柄を神に向かわせる。

年間第12週・水曜日

102 その実によって何かが分かる

― 良い木は良い実を結ぶ。偽教師と悪い教義。

― 神との交わりとキリスト信者の仕事。

― 「世俗主義」のにがい実。世の中での信者の活動。全ての事柄を神に向かわせる。

102.1 良い実は健全な木から生じる。偽教師と誤りの教義

主は、多くの人々を霊的破滅に導く偽りの預言による危険を強調されています。 旧約聖書に、神の民を大混乱に陥れる偽りの牧者たちに言及したものがあります。たとえば、預言者エレミヤは、「わたしは、サマリアの預言者たちに、あるまじき行いを見た。彼らはバアルによって預言し、わが民イスラエルを迷わせた」と、イスラエルを迷わせた人々の不信仰を咎めています。「彼らは、お前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。(…)わたしは、彼らを遣わしたことも、彼らに命じたこともない。彼らはこの民に何の益ももたらさない、と主は言われる」。このようなあてにならない指導者が、まもなく教会の内部にも姿を現しました。聖パウロは彼らを偽の兄弟、偽の使徒と呼び、初代キリスト者に彼らを警戒するように忠告しています。聖ペトロは彼らを偽の教師と呼んでいます。 ところが、現代にも、間違った事を教える教師がたくさんいるのを疑いようがありません。彼らは悪い種をふんだんにまき散らし、多くの霊魂にとって混乱と損害の原因となっています。

今日のミサの福音で、主は、「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」と私たちに警告しています。 彼らは霊魂に大きな害を及ぼします。光を求めて彼らの所に行く者は闇を見出します。力を探し求めるが、そのかわりに疑いと弱さを見出します。主は、神について真の使者か偽りの使者かはその実りによってわかるだろうと言われています。こうして私たちは区別ができるのです。偽りの刷新と教理を説教する者は、人々を、生命を与える教会というぶどうの木から離れさせ、霊魂を当惑させ破滅させるだけです。あなたがたはその実によって彼らのことがわかります。ぶどうはとげから、また、いちじくはあざみから収穫されますか? すべての良い木は良い実をつけるが、悪い木は悪い実をつける。良い木は悪い実をつけることはなく、悪い木は良い実をつけることはできない。この福音の一節で、主は、私たちに、賢明であるように、嘘の教えと偽りの教義に用心するように警告しています。それに気づくのは容易なことではありません。正しくない教義は、時に、立派な見かけで現れるからです。

102.2 神との親しさとキリスト者の仕事

良い木は良い実を結ぶ。良い樹液が中を流れていればその木は良い。キリスト者にとって、この樹液とは、キリストご自身の生命を指しています。まさに個人的な聖性であり、他の何ものもこれに匹敵するものはありません。ですから私たちは、キリストから離れるべきではありません。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。キリストと親しく接するならば、私たちの働きは効果的になります。喜びに溢れ、理解し、本当に愛することでしょう。つまり良いキリスト者になるということです。

キリストに一致した生活をすれば、必ず、個人の限られた範囲を超える事ができて、他の人々のためにもなります。これこそが使徒的実りの源です。「どのような種類の使徒職であっても、使徒職とは内的生活の溢れ出である」。生命を与えるキリストと一致している内的生活です。「教会でのキリストとの深い一致は、信仰深いすべての人々に共通する霊的助けによって支えられ、特に、聖なる典礼に行動的に参加することによって養われます。信徒は、この世における諸々の義務を正しく果たし、日常生活からキリストとの一致を切り離すことなく、かえって毎日の仕事を神の意志に沿って自分の仕事を行いながら、キリストとの一致を深めるように霊的助けを利用すべきです」。キリスト教的生活の真の中心である聖なるミサに参加して主に接し、ご聖体において主と付き合い、神との親しさを増す個人的な祈りと犠牲に生きるならば、日常の仕事に精を出し、信者非信者を問わず人々と接し、市民としての義務と社会的な義務を果たすときに、具体的な行いとなって現れるでしょう。樹液は見えませんが、実りは確かに見られますから。私たちの振舞い、悲しみや困難の中でも喜び、落ち着いていること、他の人々を喜んで許す態度をとり、私たちの内にキリストを見ることができるようにすべきです。キリストは、私たちが懸命に自分の義務を果たし、物を利用し、模範的に節制し、日々の生活の小さなことで受ける助けに心から感謝する中に、姿を現されるのです。

このような神との親しい一致を疎(おろそ)かにするなら、私たちが接している人々との使徒職の効果は徐々に減少し、やがて実を結ばなくなり、主にお捧げすることもできなくなります。聖ピオ十世は指摘しています。「『それ(主との親しさ)に気を配る』(エレミヤ12・11)ことを重荷と感じたり、拒んだり怠ったりする人々の間には、必然的に生じる霊魂の不毛を隠さず、人々のために完全にすべて捧げているからできないと弁解する人がいますが、彼らは自らを欺いています。神と話す習慣を失った結果、人々のために神について話したり、キリスト者の生活に関わる勧めを与えたりする時、神の精神を完全に欠いるので、福音の言葉も彼らの中では死んだも同然です」。その時、彼らの忠告は、超自然的な内容を全く伴わない、せいぜい、単なる常識に過ぎないことになるのは、珍しいことではありません。彼らは、福音の教義ではなく、自分の教義を教えているからです。もし、個人的な信仰を無視して神との本当の親しさを疎かにすれば、私たちキリスト者は、神が私たちに期待されている行動をとることはできません。「人の口は、心から溢れ出ることを語るのである」10。心が神の内になければ、どのようにして、神のみ言葉と命を伝えることができるでしょうか? 私たちの祈りを糾明してみましょう。祈りの時間を決めていますか? 時間どおりに祈りをしていますか? 注意散漫にならないように真剣に戦っていますか? 祈りを祈りに最も相応しい場所でしていますか? 聖母、聖ヨセフ、守護の天使に、神との生き生きした個人的な会話を維持できるように助けを願っていますか? 少なくとも一つの小さな決心を毎日していますか。通りを歩いている間、あるいは仕事をしたり、家にいたりする間、神の現存を保つよう努力しているかどうかを糾明することもできます。このようにして、日常生活を送りながら、正すべきことや改善する必要のある所を明確にしていくのです。そして、決心をしましょう。小さな決心でもかまいませんが、明確なものであるべきでしょう。

102.3 世俗主義から生じる苦い実り。世の中におけるキリスト者の活動はすべて、キリストに戻すべき

自分の生活から神を除外する人が、悪い実を結ぶ病気に罹った木になるように、慣習と法から神を除外したいと望む社会は、数えきれないほどの悪の源になり、市民に最も重大な害を与えます。「宗教が追放された国は、決してうまく統治されることはありません」11。その国では、当然神に帰すべき誉れを自分たちが取って代わりたいという望みを伴って、世俗主義の現象が現れます。卓越した原理に基づく倫理体系は、ただの人間的理想と行動の規範に置き換えられます。こうなると、必然的に人間的なもの以下に過ぎなくなります。同時に、神と教会を全く(個人的な)良心の内的な問題にし、教会と教皇を、直接個人的に、あるいは教導職に忠実な諸制度を通して攻撃するのです。

世俗主義の結果として、頻繁に、一人ひとりの市民、家庭、全体としては国民の生活から、神と教会の憐れみに満ちた健全な力が奪われてしまうのです。そのとき、日毎に、昔、異教徒を堕落させた誤りの象徴と兆しが、さらにあからさまに、さらに嘆かわしく姿を現します。キリスト教文明の光が何世紀も輝いていた世界の至る所で、このようなことが起きているのです12。 この世俗化の徴候は多くの国で見受けられます。長年のキリスト教的伝統がある国でさえ、この世俗化が入り込んでいます。明らかに、この堕落は途切れることなく今も続いています。離婚、堕胎、子どもたちや若者による薬物依存の驚くべき増加、暴力、道徳の軽視などにその兆候が明らかに見られます。神が愛に溢れる御父として受け入れられなければ、人と社会は、必然的に人間性を奪われたものになります。神の掟は、人間性を守り、維持するために制定されました。それは、一人ひとりが人格的尊厳を見出し、神が創られた目的地に到達するためにあるのです。

私たちの眼前に、このような苦々しい実が明らかにあります。だからこそ、私たちキリスト者は、自分がどこにいようが、またたとえ自分の生活をする活動の分野が限られているように思われても、神から受け入れた、塩となり光となるという私たちの召し出しに、寛大に応えなければなりません。世の中がもっと人間的で、もっと快活で、もっと正直で、もっと清潔になればなるほど、神にますます近づけることを行いで示さなければなりません。人生は、キリストの光がもっと深く染み入れば染み入るほど、もっと生きる価値が出てきます。

イエスは、常に、活動的であるように、私たちが生きている環境で、周囲の人々にもっとキリスト教的態度を示すためにも、どんなに小さな取るに足りない機会であっても無駄にしないようにと、私たちを急き立てておられます。今日、祈りを終える今、糾明してみましょう。家族、学校、大学、会社などで、正にそこに神が現存しておられることを、もっと生き生きとわかってもらうために、私は何ができるでしょうか? キリストを、この人間の現実社会のあらゆるところへもたらすための剛毅を、聖ヨセフに願いましょう。信仰によって、私たちは、ヨセフの生活が模範的であったことがわかります。なぜなら、「聖なる福音書の語っているところから、聖ヨセフの偉大な人格について考えてみると、種々の問題に当面するとき、いささかなりとも気弱であったり尻込みしたりする人物ではなく、むしろ問題に直面し、困難な状況に陥ったときにも切り抜け、責任感と独創性とをもって、自分に委ねられた任務を果たした人物であったと推し量ることができるでしょう」13

神の恩恵と聖なる太祖のとりなしによって、私たちは、自分がいる所がどこであっても、そこで溢れるほどの実を結ぶために、たゆまず努力をするでしょう。

マタイ24:11;マルコ13:22;ヨハネ10:12 参照

エレミヤ23:9-40

ガラテア2:4;2コリント11:26;1コリント11:13

2ペトロ2:1

マタイ7:15-20

ヨハネ15:5

聖ホセマリア・エスクリバー,『神の朋友』,239

第2バチカン公会議,Apostolicam actuositatem,4

St PiusX, Encyclical, Haerent animo, 4August 1908

10 ルカ6:45

11 レオ13世,Immortale Dei, 1 November 1885,32

12 ピオ12世,Summi Ponificants,20 October 1939

13 聖ホセマリア・エスクリバー,『知識の香』,40