年間第12週日曜日・C年 99 神への愛と畏敬の念

― 神への愛とその無限の聖性をすなおに受け入れる。 ― 子どもとしての畏敬の念。これは、罪を忌み嫌うため不可欠。 ― 「神への聖なる畏れ」とゆるしの秘跡。

年間第12週日曜日・C年

99 神への愛と畏敬の念

― 神への愛とその無限の聖性をすなおに受け入れる。

― 子どもとしての畏敬の念。これは、罪を忌み嫌うため不可欠。

― 「神への聖なる畏れ」とゆるしの秘跡。

99.1 神の愛と畏敬の念

「神よ、あなたはわたしの神

わたしはあなたを捜し求め

わたしの魂はあなたを渇き求めます

あなたを待って

わたしのからだは渇ききった大地のように衰え

水のない地のように渇き果てています」

私たちは、ミサの答唱詩編で祈ります。 主である神にもっと近づくために、私たちは一致して、完成した2つの固い岩の礎(いしずえ)に頼らなければなりません。信頼と恭(うやうや)しい崇敬、親密さと敬虔な服従、愛と畏れ、それらは、「私たちが神を抱くための2本の腕である」と、聖ベルナルドは教えています。私たちは、いつくしみと優しさに満ち、真実のあらゆる善に満ちておられる御父である神に心惹かれています。私たちは、無以下の存在だと分かっていますから、絶対的に卓越し、高尚な威厳に満ちた神に、謙遜に頭を下げるのです。自分の意志を神に従わせ、神の正義にかなった罰を畏れます。今日のミサで、私たちはこう祈ります。「あなたのみ名に対する尽きない私たちの尊敬を、主よ、お聞き入れください」。愛と子としての聖なる畏れは、私たちを高く飛翔させる二つの翼です。

主を畏れることは知恵の始めと聖書は教えています。また、これはすべての徳の基礎になります。「心から主を畏れ敬わなければ、その家は、驚くほど急速に落ちぶれていく」からです。キリストご自身、友人に、体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならないと教えられています。「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。使徒言行録は、教会が、「主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」と私たちに教えています。大罪から離れれば離れるほど、故意の小罪に打ち勝つ努力を多くすればするほど、神の愛は、さらに強く成長することを忘れるべきではありません。神に対する畏怖は、私たちにとって、神に背くあらゆることに対して寛大に戦う時の大きな助けになります。それは、常に、神に悲嘆と悲しみを与えることを即座にひるむ、子に相応しい、子としての畏れです。その人は、御父が誰であるか、罪が何であるか、そして、罪人に神と果てしない別離を強いることがわかっているからです。だからこそ聖アウグスチヌスはこう言っているのです。「主を畏れる魂は幸いである。それは悪魔の誘惑に強いからです。『いかに幸いなことか、常に主に畏れを抱いている人は』(箴言28・14)、主に対する畏れを常に目に前に置きます。神を畏れる人は、悪の道を去り、徳の道を歩みます。神の畏れは人を慎重にし、罪を避けるために警戒させます。自堕落な生活は、神の畏れのないところで凱歌を奏するのです」。

神の愛と子としての畏れは、私たちが、安全に歩むことができるための同じ態度の2つの側面と言えます。イエス・キリストの聖なる人間性をもって私たちに近づかれる神の限りない優しさを考えると、心は、神をもっと愛するように動かされます。神の威厳と正義、そして自分の価値のなさについて深く考えると、私たちの個人的な罪のために、心底から愛する神を失い、また、神を悲しませるのではないかという恐れが沸き起こってきます。ニューマン枢機卿は私たちにこう忠告しておられます。「あなたの生涯の終わりの日まで、畏れ、愛し続けなさい、と勧めるのです」。その瞬間から、唯一愛だけが生き続けます。「完全な愛が畏れを追い出します」10

99.2 罪を根こそぎにするために子としての畏れは大切

神に対する聖なる畏怖は、真の愛の保証であり支えです。それは、私たちが大罪を決定的に絶つための助けとなります。神を畏怖しているなら、私たちが犯した罪を痛悔して、故意の過失を犯さないようになります。「自分の犯した罪に値する罰を恐れることは、日々の困難と、放棄や戦いに立ち向かうために日々努力を傾ける勇気を与えてくれます。周囲にある多くの罪の機会、自分のひどい欠点、過度の愛着と習慣、わがまま気ままへの自然の傾き、内部からは自分の情欲に引っぱられ、世間に引きずられること、自分の多くの過失と欠点、毎日犯すちょっとした不注意について考えれば、私たちには、確かに、常に神への畏れを身にしみて感じ取るべき理由が多くあるのです」11。このような個人的な弱さに直面する時、畏れないでいることができるでしょうか? 限りない神の優しさに信頼しないでいることができますか?

子としての畏れがあれば、私たちが持つ愛情を罪から離し、霊魂が不正と偽りの自己満足に陥るのを防ぎます。最も大きな悪とは、正に、犯した罪を気にせず、ついには、罪の意識を完全に失わせる思慮のなさと浅はかさです。偶像崇拝に陥っているように思われる人々に見られるこの態度は、神への畏怖を失った結果です。神に背くこのような嘆かわしい状態は、笑いものにされ、取るに足りないこととして、次第に消え失せ、さもなければ、蔑(さげす)まれます。最も重大な常軌からの逸脱は、「ただ当然のこと」とみなしてしまうことです。なぜなら、被造物とまさにその存在を支えてくださる創造主との関係が破壊しているからそうなるのです。良心の最も重大な歪み、したがって人間の本質的な方向性を歪める原因は、往々にして、無からすべてを創られた神に対する〈聖なる敬い〉を失くすことです。

子としての畏れと愛はいつも共にあります。もし子としての神への畏れ、神を喜ばせる望み、神を悲しませないように心を配らないとすれば、私たちは、内的生活の戦いを全く怠る危険を冒し、神の善に対して図々しくも頼るのみになることでしょう。反対に、人が畏れだけで動こうとするなら、御父である神の大きな憐れみ深い愛と、子どものような単純さと、信頼に満ちた神への委託から自らを切り離していくことでしょう。しかし、子としての神に対する畏れの態度は、聖性にあこがれる霊魂にとって欠くことができません。

神に対する畏れの始まりは不完全な愛です。それは、罰の恐れに基づいています。しかし、この恐れは、何よりも神の偉大さ、神の限りない威厳と被造物としての私たちの状態を黙想するようになる、子としての態度まで高められることができるし、また、そうしなければなりません。「『主への畏(おそ)れは清い』と、詩編にある。神を畏れることは、子の御父に対する敬(うやま)いであって、決して奴隷の恐れではない。父である神は暴君ではないからである」12。それは神を心から愛する子としての畏れに変えられ、この愛から、両親を悲しませ、仲を裂くかも知れないすべてのことを避ける力が出ます。

99.3 ゆるしの秘跡と神の聖なる畏れ

ゆるしの秘跡に近づく時、神への聖なる畏怖を大きくする、それは私たちに大変役立つでしょう。秘跡を受けるのに、十分ではない理由(超自然的ですが、罰の恐れから生じる不完全な悲しみ、または、罪の醜さを嫌う)で十分です。しかし、霊魂に、御父である全能の神に背いた子としての畏れの意識を増していくなら、もっと多くの恩恵を受けるでしょう。この子どもの態度から、愛から生じる悔い改め、真の痛悔、愛に基づく悲しみの態度へと移行するのはとても簡単です。そうすれば、告解は、愛が絶えず強くなる場所、つまり恩恵の限りない源になるでしょう13

神の聖性と私たちの惨めさ、日々の失敗、創造主に対する被造物の絶対的な依存、神の聖性を前にした時に気づく一つの小罪の重大さ、召し出しの要求に対して寛大さに欠ける忘恩14など、聖霊のこの賜物の基礎になるこれら真理を考えれば、内的生活はより細やかでより深くなります。何よりも主の受難について度々考える習慣をもっと身に着けていくなら、罪の神秘をもっと良く理解するでしょう。私たちは、愛することを教わり、それによって、一つの小罪をも犯すことを嫌うようになります。キリストが、私たちの罪、世界中の数えきれない罪のために忍んだ苦しみを黙想する時、私たちの希望は強められ、痛悔は深められます。このようにして、私たちは、あらゆる故意の過失を避けるようにより固い決心をするのです。

愛に結びついた神への畏怖があれば、キリスト者の生活は強くなっていきます。畏敬の念があれば、どんな事にも人は怯(おび)えなくなります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、その人を神から引き離すことができないからです」15。霊魂は希望の徳に強められ、誘惑の裏切りのそそのかしに対して用心深い愛を持つことで、欠点と無頓着な安全から解放されるのです。

罪びとの拠り所である聖母マリアに、過失がわずかなものであっても、御子イエスに導く道から逸れるたびに、どれほど多くを失うか、しっかりと理解させてくださいと願いましょう。

詩編63・2

聖ベルナルド,On consideration,5:15

Opening prayer

詩編110:10

シラ27:3-4

ルカ12:5

使徒言行録,9:31

聖アウグスチヌス,Sermon on humility and the fear of God

Cardinal J.H.Newman, Parochial Sermons, 24

10 1ヨハネ4:18

11 B.Baur, Frequant Confession, p158

12 聖ホセマリア・エスクリバー,『道』,435

13 聖ヨハネ・パウロII世,Reconciliatio et poenitentia,31 参照

14 B.Baur, op cit, p.160 参照

15 ロ一マ8:35-39 参照