年間第12週・月曜日 100 他人の目のわら屑

― 高慢な人は他者の落ち度を大袈裟に、自分を小さく考え、言い訳をする。他者に関する否定的な見解を避ける。 ― 他者をその欠点ぐるみで受け入れる。「兄弟説諭」で助ける。 ― 建設的な批判。

年間第12週・月曜日

100 他人の目のわら屑

― 高慢な人は他者の落ち度を大袈裟に、自分を小さく考え、言い訳をする。他者に関する否定的な見解を避ける。

― 他者をその欠点ぐるみで受け入れる。「兄弟説諭」で助ける。

― 建設的な批判。

100.1 高慢は隣人の欠点を過大視し、自分の欠点を過少評価して弁解しようとさせる。他の人々について否定的な判断を避けること

ある時、主は、話を聞いている人々に言われた。「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』とどうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。他の人々に対する、否定的な、また時には、不当な判断を避けることは謙遜のしるしです。

他の人々の非常に些細な欠点が、あなた自身の個人的な高慢によって誇張されます。ところが、多分、自分の非常に大きな欠点は、最小に見積もられ、うまく釈明されるでしょう。そのうえ、高慢は、他の人々の中に、自分の不完全さと過ちを見る傾向があります。ですから、聖アウグスチヌスは、一つの賢明な忠告を私たちに与えてくれています。「あなたの兄弟に欠けていると思う徳を得るよう努力しなさい。そうすれば、あなたはもはや彼らの欠点を見ないでしょう。なぜなら、あなた自身にそれがなくなるからです」

他方、謙遜は、社会生活によい人間的キリスト教的雰囲気を醸し出す一連の徳に、肯定的な影響を与えます。謙遜な人間は、赦し、理解し、助けます。謙遜な人間だけが、自分は神からすべてのものを受けていることに気づいているからです。自分の惨めさを知り、どれほど神の憐れみを自分は必要としているかに気がついています。ですから、人を裁かなければならない時でさえ、隣人に対して理解を示します。必要な時はいつでも言い訳を見つけてゆるします。そのうえ、私たちは、他の人々の行いを動機づけるものが何であるかについては非常に限られた見方しかできません。神だけが心の内の最も深いところまで見通し、心を読み取り、行いに伴うあらゆる状況の価値をご存じです。

私たちは、毎日共にいる人々の明らかに否定できない欠点でさえ、大目に見ることを学ばなければなりません。ですから、間違いや悪い振舞いをしたからといってその人たちと距離を置き、侮辱することはできません。「自分を十字架につけた人の罪を完全にゆるすわけにはいかなかったが、その人の無知を言い訳にして悪意の程度をやわらげた主から学びましょう。他人の罪を許すことができない時、少なくとも、その人の無知や弱さを言い訳にして同情し、その悪行を軽く(あるいは、軽い目に?)判断してあげましょう」

隣人の長所を見つける努力をするなら、性格の欠点や、振舞いにおける欠点は、その人の徳と比べれば何ということもないことに気がつくでしょう。常に接する人々に対してこのように肯定的で正しい態度をとることで、私たちは神により近づいていきます。こうして私たちは、内的犠牲、愛徳と謙遜において成長していきます。聖テレジアはこう述べています。「他の人々の中に見る徳と良い行いを、常に見る努力をしましょう。そして、自分の大きな罪について考える事で、人々の欠点を覆い隠してあげましょう。すぐに完全にはそうできないとしても、こうすることこそ、私たちが優れた徳を獲得するやり方、すべての他人を自分よりもっと優れた人と考えることになるのです。このようにして、神の助けで、人はこの徳を獲得するようになります」

人々の欠点、更には、陰口(あるいは中傷)、怠惰など、外的な罪であっても、私たちは、他の人々の短所に肯定的な態度をとらなければなりません。まず彼らのために神に祈り、償い、忍耐強くなければなりません。彼らをもっと愛し、尊敬しなければなりません。愛され尊重される事を彼らは必要としているからです。私たちは、彼らと忠実に接し、兄弟的説諭をして彼らを助けなければなりません。

100.2 欠点と共に人々をありのまま受け入れること。兄弟的説諭によって助けること

主は、使徒たちに欠点があるからといって、値打ちを認めなくなったり、追い出したりされませんでした。それは福音の中に明らかにはっきりと反映されています。神に対する奉献の初めに、彼らは時々、妬みや怒りに動かされ、仲間の間で第一の者になりたいという野心さえ持っていました。このような時でも、主は、細やかな心で正し、忍耐し、愛し続けます。家庭生活、働いている環境、個人的な人間関係、また、全教会において根本的に重要な教えを伝える者たちに、愛徳を行いに現しなさいとお教えになるのです。欠点があるにもかかわらず、その人々を愛することは、キリストの掟を果たすことになります。「律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。イエスのこの掟は、欠点のない人々、または、一定の徳のある者だけを愛さなければならないとは言っていません。愛徳には、順番がありますから、第一に、主は、血縁のつながりや家族関係があることで、神が私たちの傍に置かれた人々を尊重するように、私たちに頼まれています。その次に、傍で働く人々、友だちや近所の人々となります。この愛徳には、私たちを結びつける絆に従ってそれぞれ独自の特徴があります。とは言え、私たちは常に開放的で、喜んで受け入れる態度を持ち、すべての人々を助ける望みを持たなければなりません。理想的な人々にこの徳を行うという問題ではなく、実際に私たちと共に生活し働いている人々、交通状態が非常に悪く、公共の輸送機関が超満員である時、通りやラッシュ時に出会う人々に行う徳です。おそらく、家庭や会社で、怒りっぽく不機嫌なひねくれた人々、気分がすぐれず疲れた人々、利己的で嫉妬深い人々に出会うでしょう。このように具体的な人たちと仲良く生き、評価し、援助するのです。

隣人の欠点に対するキリスト者の反応は、理解すること、祈ること、そして、それが適切と思われる時には、兄弟的説諭で助けることです。理解を示さなければなりません。彼らのために祈り、相応しい時に兄弟的説諭をして助けなければなりません。主は大いに勧めておられます。 そして、教会はいつも兄弟的説諭を実行しています。

この兄弟的説諭は、愛徳の実りです。それは、謙遜に、傷つけることなく行われなければなりません。説諭は、一人でいる時に、友好的に、肯定的なやり方で行いますし、友人や仲間が、自分の霊魂、あるいは仕事に害を与えたり、他の人々とうまくやっていくのを困難にしたりする自分の問題点に気づくのに役立ちます。その問題点は、その人が、当然期待することのできるはずの人間的な尊敬や威信を失わせる可能性があります。この福音の教えは、これが全く人間的基準に基づく社会の慣習や友情という完全に人間的なレベルをはるかに超えたレベルのものです。説諭は、人間の誠実さのしるしであり、説諭をすることで、陰口を言ったり批判を避けたりすることができます。私たちはこのように振舞っているでしょうか? 私たちは、キリストご自身から来るこの勧告を実際に実践していますか?

100.3 肯定的な批判

私たちが、兄弟の目の中のごみは気にしないという生き方を守るならば、誰かのことを悪く言うのを容易に避ける事ができます。ある具体的な行いや誰かの行動について判断する義務のある時は、神のみ前で行っていることを思い出してしましょう。祈って意向を清めるのです。賢明と正義という基本的な基準を尊重します。エスクリバ一師はよく次のことを繰り返していました。「倦むことなく批判する義務がある人は、両者に耳を傾けなければならないと私は主張します。『私たちの掟は、まず、その人が言うことを聞き、行うことを知らないでその人を判断するのですか?』、高潔で誠実で正しい人、ニコデモは、イエスを咎めようと企む祭司たちとファリサイ派の人々に問いかけました」

批判しなければならないなら、批評は常に建設的で適切なものでなければなりません。常に、私たちは、その行動をした人と、その人の意向を、部分的にしか知ることができないにしても、その意向を尊重しなければなりません。キリスト者は、人を傷つけることなく、非常に人間的な方法で批評する、自分に反対する人々とさえ、友好的な関係を持続するよう努めます。なぜなら、キリスト者は、敬意と理解を人々に示すからです。キリスト者は、知らない事は批判しません。どうしても批判する必要があるときは、時と場所、また、起こりうるすべての状況を考慮しなければならないことを弁え、注意深く自分の考えを表します。さもなければ、簡単に非難や中傷に陥ることでしょう。愛徳と誠実によって、私たちは単なる印象を最終的な判断にしたり、噂に過ぎないことや、未確認の単なるニュースであって人や組織の評判を貶(おとし)めるようなことを、本当のこととして人に伝えたりはしません。

私たちが人々の欠点を、徳や長所という枠の中だけで見るようになれば、謙遜によって自分自身のうちに多くの過ちや欠点を見つけることでしょう。そして悲観的ならずに主に赦しを乞い、他人にも幾つか欠点のあることを理解し、自らの改善に力を尽くことでしょう。こうなるためには、私たちを知り、私たちの世話をしてくださる人々がしてくださる誠実で正しい批判を受けとめ、受け入れることを学ばなければなりません。霊的に最も優れていることの確かなしるしは、忠告に耳を傾けて聞き、それを受け入れ感謝することです。 忠告を受け入れないのは、高慢に打ち負かされた人々の特徴なのです。彼らは、常に、手近に言い訳を持っており、愛徳と友情から、彼らが失敗を克服し、悪い行いを再び繰り返すことを避けるよう助けたいと思う人々に対して悪態をつきます。

神に感謝を表す多くの理由が私たちにはあります。悪い方向に進んでいることを、折よく警告をしてくれる人々、私たちができることと、もっと良くすべきことを忠告してくれる人々を、自分の味方に持つことを望んでいます。これは、親切で、誠実な批判で、金の重み以上の価値があります。

至聖なるマリアは、常に相応しい言葉を持っておられました。聖母は、決して噂話をなさらず、いつも沈黙を保もたれていました。

マタイ7:3-5

聖アウグスチヌス,Commentary on Psalm 30,2,7

聖フランシスコ・サレジオ,Introduction to the Devout Life, III,28

聖テレジア,Life,13,10

ガラテヤ5:14

マタイ18:15-17参照

聖ホセマリア・エスクリバー,Letter, 29 September1957

S.Canals, Jesus as Friend