年間第11週・水曜日 93 念祷

― その必要性と実り。 ― 始める前の祈り。神の現存を自覚させる。 ― 聖徒の交わりによる助け。

年間第11週・水曜日

93 念祷

― その必要性と実り。

― 始める前の祈り。神の現存を自覚させる。

― 聖徒の交わりによる助け。

93.1 念祷の必要性とその実り

今日のミサの福音は、個人的な祈りへの招きです。イエスは教えています。祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられる、あなたの父に祈りなさい。

祈りについてこう教えた主は、ご自身、この世の生活をとおして、教えたことを実行なさいました。福音は、イエスが、祈るために何度も退かれたことを述べています。 使徒たちと初代キリスト信者、やがては主の身近に従いたいと思ったすべての人々は、その模範に心を惹かれました。聖性に至る道は祈りの道です。「小さな種子が時を経て青々と生い茂る大木に成長するように、祈りも心の中で少しずつ根を下ろしていかなければなりません」

日々の祈りは、攻撃を止めることのない敵を見張るのに役立ちます。それは、試練と困難のとき、私たちを強めてくれますし、私たちは他の人々に仕えることを祈りによって学びます。そのお陰で、私たちの道を遮る障害物をはっきりと見ることができるようになるので、祈りは私たちの道を照らす強い光を放つ灯台と言えます。個人的な祈りは、他人との関係に決定的な影響を与え、仕事をより良く果たし、家族や社会の義務も良く果たすようになります。しかし、何よりも、それは、主とどのように付き合い、どのように愛に成長するかを教えてくれます。祈ることを止めるな! 聖ヨハネ・パウロII世は、私たちにこう忠告されます。祈りは義務である。しかし、それは大きな喜びでもあります。イエス・キリストを通した神との対話であるから!

祈りにおいて私たちはイエスと共にいます。これだけで十分です。私たちは、自分をイエスに与え、イエスを知り、どのように愛するかを学ぶために祈りに赴きます。そうできるのはそれぞれの状況次第です。つまり、私たちがいる所、その瞬間に行っていること、私たちを喜ばせる良いこと、経験している挫折や悲嘆によるのです。キリストの近くに私たちがいれば、すべてを喜びに変えることができるからです。度々、私たちは、福音の出来事を勉強し、イエスの至聖なる人性を黙想して、主への愛を大きくします。人は良く知らないものを愛することはできませんから。また、仕事を聖化し、神の傍にもっと近づくことを決意したり、出会う人々や自分の家族や友だちとどのように仲良く暮らしていけるかを考えたりすることができます。あるいは、今読んでいる、個人的な状況にかかわりのある本が示唆するテーマを自分自身のテーマにします。また、聖霊が霊魂の奥に吹き込んでくださるその日の小さな決心を拾い上げ、あるいは、自らが決めた他の決心を生き生きとさせるために、聖霊が提案なさる射祷を、心を込めて繰り返します。

念祷では、恩恵の助けによって注意散漫と戦い、自分からは決して散漫を受け入れず、すべての祈りの本質である主との対話を保つよう、知性と意志を働かせる必要があります。つまり、心で主に話しかけ、主を見つめ、心の奥で主のみ声に耳を傾けるのです。渇きを覚えようが、祈りから何も得ることがなくても、主とともに過ごすために計画した時間をすべて神に奉献していることをしっかりと確信しているべきです。この祈りの時に、ひざまずいたままでいることだけで精一杯、注意散漫との戦いに完全に負けたとしても問題ではありません。時間の浪費ではありません。 潜心がぐらついたり無味乾燥であったりしても、意識的に努力すれば祈りには常に実りがあります。イエスがその一日のために、溢れるほどの恩恵を注がれないでいることは決してありません。イエスは、常に私たちが主とともに過ごした時間を寛大に感謝されています。

93.2 祈りの準備。神のみ前に自分を置くこと

お話ししたいと思う方のみ前に自分を置くことは特に重要です。私たちを心にかけ、祈願や愛の行いを待っておられる御方のお傍にいるにはこの最初の段階が大切です。これがうまくいけば、おそらく、私たちを苦しめている問題も主とともに考え続けることができ、主のみ前でただ主を見つめ続けていると同時に主も私を見つめてくださっていることが分かります。進んで神のみ前に自分を置き、最初の瞬間に特別注意を払うならば、その時こそ、疑いもなく、無味乾燥と主との対話の難しさがかなりなくなるでしょう。なぜなら、そういうことは単に注意力が散漫になったり、内的潜心が不足したりしているに過ぎないからです。

神のみ前に自分を置くため、念祷の初めに、他の心配事を心から取り除くための黙想を少しするべきです。私たちはイエスにこう言うことができます。「わたしの主、わたしの神、あなたがここにおいでになり、わたしの言葉を聴いておられることを固く信じます。神である主よ、私に耳を傾けてください。主は、聖櫃の中におられます。御体と御血、霊魂と神性と共に、主は、恩恵のうちに私たちの霊魂の内におられます。私たちの考え、感情、望み、超自然的仕事の推進力として、あなたが私を見、耳を傾けてくださいますように!」

聖ホセマリアは続けてこう教えています。「私たちが普通この世界で誰かと話をする時に使う挨拶ですぐに始めます。主は神ですから礼拝のうちに挨拶します。深い尊敬をもって崇めます! もし、挨拶する人が立腹するようなことが起きたら、その人に赦しを願いませんか? 私の罪の赦しと、あなたとの会話の時を実りあるものにする恩恵を願います。そして私たちはすでに祈っています。すでに神と親しく語り合っているのです」。

しかし、私たちが話したいと思ったこの重要な人に、母、私たちをも愛してくれた母がいるとすれば、彼女の助けを願い、私たちのために仲介してくださるよう願わないでしょうか? 私たちの母でもある、神の御母は、私たちがこう願うのをいつも喜んで待っておられます。汚れなき御母よ。そして、イエスの養父である聖ヨセフに助けを求めます。彼も私たちの神への力強い擁護者です。「我等の父であり主(あるじ)である聖ヨセフ。そして私たちを助け守ってくださる天国の王子、守護の天使よ、私たちのためにとりなしてください!」

「この世で礼儀を心得た人なら誰もが行うように、念祷の準備の祈りが終われば、お話しすることができます。何について? 私たちの喜び、悲しみ、仕事、望み、抱負、あらゆることを!」

「私たちはまた、神に単純にこう言うことができます。私の神よ、私は赤子のようにここにいますが、あなたに何を申し上げたら良いかわかりません。あなたに話し、祈り、あなたの子であるイエスと親しくなりたいのです。私は、ここ、あなたの傍にいることは分かっています。一言も言えません。私が最も愛する婦人、母と共にいればあらゆることを話すでしょう。しかし、あなたと共にいれば何も考えることができません」。

これが祈りです! 予め決められた時間の間、主の足もとの小さな犬のように聖櫃の前に留まり、主よ、ここにいます! 辛いのです! 逃げ出したいところです。しかし、愛によって、ここにと留まるつもりです。あなたが私を見て、耳を傾け、微笑んでくださるのを知っているからです

主の傍で、主に何を話して良いかわからない時でさえ、私たちは平和に満たされます。義務を果たすために必要な力を取り戻します。そして、十字架は光になります。今、それは私たちのものだけではないからです。キリストが運ぶのを手伝ってくださるからです。

93.3 聖徒の交わりによる助け

念祷を、聖櫃におられるキリストの近くで、あるいはどこでしていても、調子の良い時も、するのが難しく何も役に立たないと思える時でも、私たちは、愛によって忍耐強くやり遂げるでしょう。世界のあらゆる地域で祈る教会に一致していることを意識することは、度々私たちの役に立つでしょう。私たちの声は、聖霊のうちに、神の御子をとおして、御父である神に、各瞬間にあげられる叫びに一致しています。聖聖ホセマリアは続けてこう言われました。念祷の時間に、また、一日中、物理的に遮断されていることがわかっても、私たちは決して独りではないことを思い出しなさい。一生の間、私たちは常に、天国の諸聖人に、煉獄で清めが続いている霊魂に、この世でまだ戦い続けているすべての兄弟姉妹と一致しています。そのうえ、それは、聖なる教会の共同体の賞賛に値するしるしなので、私たちにとって素晴らしい慰めです。自分の祈りを、あらゆる時代のすべてのキリスト者の祈りに、また、あなたより先に亡くなった人々や今生きている人々、まだ訪れていない世紀に生きる人々の祈りに一致させることができます。このようにして、終わることなく神をほめたたえる歌、聖徒の交わりの素晴らしい現実に気づけば、冷え切った困難に直面していても、人は努力してでも、もっと自信を持って祈り続けるでしょう。

あなたの祈りは、イエス・キリストと共に生きたことのあるすべての人々の祈り、戦う教会、苦しむ教会、勝利する教会の絶えることのない祈りに一致していることを知り、喜びで満ち溢れていなさい。それはなお、これから訪れるすべての人々を加えます。従って、祈りが無味乾燥であると思う時も祈りを続けるようにしなさい。そして、主に言いなさい。「主よ、決して終わることのない、永遠にあなたを賛美するこの素晴らしいコ一ラスから、私の声をなくしたくないのです」

その中に努力を投じ、私たちを愛してくださっているとわかる方とだけいるように決心すれば、日々の祈りの中で、私たちはあらゆる霊的進歩の根源、絶えることのない喜びの源を見出します。 祈りの生活が進歩するのに比例して、内的生活に成長し進歩します。そして、私たちの行い、仕事、使徒職と犠牲の精神にますます大きな影響を及ぼします。

聖母の息子イエスとどのように付き合えばよいか教えてくださるように、聖母に度々頼りましょう。御母ほど救い主にどのように話しかけるかをご存じの方はおられないからです。そして、聖母とともに、聖ヨセフのところへいつも馳せつけましょう。彼は、仕事や休息、長い旅をしている時、ナザレの町で仕事をしている時、彼の子ども、少年である若者イエスといつも語り合った方です。マリアの次に、ヨセフは、神の子の傍で、最も多く時間を過ごされた方でした。ヨセフは、主とどのように語り合うか教えてくれるでしょう。そして、ヨセフにお願いすれば、具体的で明確な固い決心をするように私たちを助けてくれるでしょう。そうすれば、仕事を向上させ、私たちの性格の荒い縁を削り取り、もっと人に仕える心構えができ、私たちに必ずといってよいほど降りかかる、人生のどのような浮き沈みや矛盾に遭っても、朗らかでいることができるでしょう。

聖ヨセフ、わたしのためにお祈りください。聖ヨセフ、彼らのために祈ってください。(ここで私たちは、特に具体的に祈ってあげたいと思う人のために、特に心を集中させて祈ることができます)。そして私のために祈ってください。

マタイ6:1-6,16-18

マタイ14:23;マルコ1:35;ルカ5:6 など参照

聖ホセマリア・エスクリバー,『神の朋友』,295

聖ヨハネ・パウロII世,Address,14 March 1979

E.Boylan, This Tremendous Lover

聖ホセマリア・エスクリバー,Historical Records of the Founder, 20165,p.1410

聖ホセマリア・エスクリバー,Historical Records of the Founder, 20165,p.1411

St Teresa, Life,8,2