年間第11週・土曜日 96 全ては善のため

― 神のみ旨を愛する。神は個々人のため最も良いことを計画しておられる。反対に落ち着いて対処する。 ― 神に全てを委ねることと責任。 ― 「すべては善に向かう」。神を愛する人には全ての出来事が善のためになる。

年間第11週・土曜日

96 全ては善のため

― 神のみ旨を愛する。神は個々人のため最も良いことを計画しておられる。反対に落ち着いて対処する。

― 神に全てを委ねることと責任。

― 「すべては善に向かう」。神を愛する人には全ての出来事が善のためになる。

96.1 神のみ旨を愛すること。神は一人ひとりに最も可能な計画を立てられる。困難に直面しても落ち着いていること

宇宙で最も小さな物質でさえ、すべてのものは、神がその存在を与え、維持しておられるので存在しています。「主は、天を雲で覆い、大地のために雨を備え、山々に草を芽生えさせられる。獣や烏のたぐいが求めて鳴けば、食べ物をお与えになる」。完全な創造は神の仕事で、神はすべてのものに存在を与えて始められ、愛を込めてその全被造物の世話をされます。「この状態が〈続く〉ということは、ある意味で、創造の継続〈継続的な創造〉と言えます」。神の心遣いと摂理は、特に神の言わば〈偏愛〉の対象である人間にまで及びます。

イエス・キリストは、神が御父であり、自分の子どもたちに最善を望んでおられることを、絶えず私たちに教えてくださっています。私たちが想像することのできる、自分や最愛の人々にとって最良のことでも、神のご計画にはかないません。神である御父は、私たちが必要としているものをよくご存じで、そのすべてを見とおす眼差しは、この世と永遠の両方に向けられています。私たちの視野は狭く不十分で、見解も非常に乏しいです。幸福と聖性は、本質的に神のみ旨を知り、愛し、行うことにあるということは道理にかなっています。神のみ旨は、生活の中で様々な方法で、とてもはっきりと私たちに示されています。ミサの福音で、主は、私たちの生涯が平和に満ちているようにと勧められています。「自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたの天の父は鳥を養ってくださる」。この福音でわかるように、私たちは、日々の義務を明るい希望を持って果たすようにとの招きを神から受けています。私たちが、失敗や心配、面倒な困難に遭うことは、避けられないことです。しかし、私たちは、無益な取り越し苦労をせず、反抗や悲哀の気持ちを持たずにそれに耐えるべきです。なぜなら、私たちは、主が、私たちを清めるため、主と贖いを共にするために、このような病気や災難が起きるのをお許しになったことを知っているからです。苦しみや困難は、高価な金属が精錬されるように、私たちが徳に成長し、神をもっと愛するのを助けるよう、自分を磨くよう、役立てるべきです。「師であるキリストが、ぶどうの木とその枝の譬(たと)え話をされるのを聞かなかったのか。それを思い出して慰めにしなさい。キリストが要求なさるのは、あなたが実を結ぶはずの枝だからである…。あなたが刈り込まれるのは、もっと豊かな実を結ぶためである。勿論、そのように切られ、引き抜かれれば痛い。しかしその後、果実はなんと瑞々(みずみず)しく、行いはなんと成熟したものになることか」4。神のご計画であっても思いがけなく予想もしていない出来事に出くわした時でも当惑しないようにしましょう。神はなさろうとされていることや、今起きていることを十分ご存じだからです。

今日、不運、失望、明らかな失敗を落ち着いて受け入れているか、不平を言うか、また、わずかでも、暗い考えや反抗のなすがままにしているか、よく糾明してみましょう。主のすぐお傍で、自分が身体的にも精神的にも弱くなっている時、神である御父に本当に近づいているかどうか、またもっと謙遜になることが本当にできているかどうか糾明してみましょう。「自分の生活のことで思い悩むな」と主は、この祈りの時に再び私たちに話されているのです。

96.2 神への委託と責任

殆どの場合、私たちは、自分にとって何が良いかわかっていません。そして、私たちがすることと言えばせいぜい物事を混乱させてしまうことです。私たちは自分が幸福になるために、それぞれ計画を持っています。神がその計画を実践していくのを助けてくださると思い込んでいることがあまりにも多いのです。しかし、実際は、いつも物事はこの逆です。神ご自身が、私たちを幸せにするためにご自分の計画を持っておられるのです。神のほうが、私たちが神のご計画が実行されるのを手助けするように待っておられるのです。私たちが神のご計画を変えることなど決してできません。 この真理を完全にしっかりと確信して日々そのように生きれば、理解することができず、深い悲しみと挫折を引き起こすほどの克服できそうにないと思われる障害に直面した時でさえも、落ち着いて神に委託できるようになります。すべてがだめになったのではありません。私たちが神の子である自覚に支えられているなら、悲惨な挫折はありません。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように養ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか」

聖トマスがこう言っています。医学に秀でていない観察者が、1人の病人に水を、他の人にぶどう酒を処方する医者を見る時、その人は何もわからずに、その処方は、コインを投げて決める処方同様、でたらめだと思うということが時として起こります。そのようなことが、神との場合にも起こるのです。神は物事の原因を知り、摂理に従って、人が必要としているものが何であろうとそれを全能の知恵の内にお与えになります。善良な人を苦しめ、悪い人々が成功して生きることをお許しになります。 神は、私たちがこの地上でも幸福であるようにお望みですが、私たちが天国で神とともに永遠の幸福を味わうことをもっと望んでおられることを決して忘れてはいけません。

聖性とは、神のみ旨を、愛を込めて果たすことです。神のみ旨は、自分の置かれた環境の中での毎日の義務を果たす中で、明らかに示されています。神の愛のこもった保護とその摂理は、私たちの生活の最も些細なことにも及ぶことが分かっていますので、私たちは、完全に信頼して、自分を神の内に委託することができます。しかし、この委託は、それぞれの状況が要求する手段を用いながら、積極的で責任のあるものでなければなりません。病気の時に医者のところに行くことかも知れません。とても必要な仕事を得るために神に祈り、必要な手を打つこと、勉強や選択した専門において向上するために懸命に勉強すること、難しい試験に通るために必死になって勉強することかもしれません。神に委託することは、責任と密接に一致していなければなりません。そうすれば私たちは最も適した人間的手段を用いることができます。不運に見える逆境などは、多くの場合、あらゆる可能性を見ず、状況が必要としている方法を正しく用いないこと、即ち、隠れた生温さ、怠惰、軽率などの隠れ蓑です。仕事が良心的にきちんと(計画的に、系統的に)行われたり、整然と仕上げられたりする時、また犠牲の精神をもって絶え間のない使徒職のように聖化されているならば、やがて実りがあります。また、この実りを得るのに時間がかかるなら、それは、神が私たちの気づいていないやり方でお与えになるというしるしです。そしてそれは、私たちがまさにこのような環境で自分自身を聖化するように神が望んでおられるしるしでもあります。

96. 3 「すべては善に向かう」 神を愛する人にとって、すべては善のために働く

私たちが神の子であることの自覚は、自分の人生で、幸せが最高に愛すべきものである神のみ旨にあり、すべては善に導かれていると知ることに役立ちます。父である神は最良のことを私たちに与えられます。父なる神は、逆境の中にも、順境の中にも、父なる神の愛の現れを見ることお望みです

聖パウロは、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちは、万事が益になるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と書いています。神を愛し、行いをもってその愛を示す人は、たとえどんなことが起ころうと、もし愛し続けるならば、すべては善に向かっていることがわかっています。まさに愛しているからこそ手段を用いて結果をよくするでしょう。よい意向で仕事を最後まで仕上げるので、聖性と使徒職の実りを生みます。いったん役に立つ手段を使えば、後は神にすべてを任せ、その愛すべき摂理を信じるのです。聖ベルナルドはこう言っています。「物事は、気まぐれでするのではなく、善のために共に役立てましょう。気まぐれではなく役立てるのです。楽しみのためでなく救いのためにです。つまり、私たちの望みのままでなく、役に立つようにするのです。そうすれば、物事はすべて善に役立ちます。死さえ、罪さえ、役に立ちます。なぜなら罪を犯したとしても、そのお陰でその人がもっと謙遜になり、もっと熱心でより神に願う人になり、もっと心配りをして分別に富む人になるならば、その罪は善に向かうのに役に立つからです」10。手の届く範囲の手段を使いながら、つまりもう自分ではどうにもならない事柄においても、心の中でこう神との親しさを持って言えるのです。Omnia in bonum. 「すべては善のため働く」のです。

神の子の自覚を持ち、確信を持てば、楽天的に希望を持って生きることができ、その困難を克服していけます。「まるで世界全体があなたの上にのしかかってくるようだ。あたりを見まわしても出口の影さえ見えない。この困難を乗り越えることは…、今度こそ駄目だ。神はあなたの御父であることをまたもや忘れたのか。全能にして、無限の知、慈しみ深い父であることを。主があなたに悪いことなどお送りになるはずがない。あなたを悩ますそのことは、今〈肉眼で〉見ることはできないだろうが…、あなたのためになるのだ。すべては善のために。主よ、ふたたび、そして常に、あなたのいとも賢明なるみ旨が成就されますように」11

「すべては善のために働く」。すべてを神がお喜びになるものにすることができます。聖パウロのこの言葉を、私たちは射祷や短い祈りにすることができますし、それを唱えれば、どんなに困難な時でも心は平和になります。

至聖なる乙女、私たちの母は、もし私たちが日々頼るならば、神の全能の力を完全に信頼しきって生きるように導いてくださるでしょう。6月のこの月に祝う、汚れなき聖母の聖心の中に、必ず平和と慰めと喜びを見つけることができます。

詩編147:8-9

聖ヨハネ・パウロII世,General Audience, 29 January 1986

マタイ6:25-26

4 聖ホセマリア・エスクリバー,『道』,701

ユージン・.ボイラン, 『すさまじき愛』

マタイ6:30

聖トマス,使徒信条解説2

『ナバラ大学聖書』8,28解説参照

ローマ8:28

10 聖ベルナルド、On the brevity of life,6

11 聖ホセマリア・エスクリバー、『十字架の道行』、第9留の4