年間第10週日曜日・C年 81 痛みや貧しさに対して

― ナインのやもめの息子の復活、イエスは常に痛みや苦しみに同情される。 ― 主に倣う。愛は業で。愛徳の順序。 ― 愛するためには理解することが必要である。神はより貧しい人々を愛される。

年間第10週日曜日・C年

81 痛みや貧しさに対して

― ナインのやもめの息子の復活、イエスは常に痛みや苦しみに同情される。

― 主に倣う。愛は業で。愛徳の順序。

― 愛するためには理解することが必要である。神はより貧しい人々を愛される。

81.1 ナインのやもめの息子の生き返り。イエスは常に悲しみと苦しみに対して憐れみを示す

今日のミサの福音は、弟子たちや大勢の群衆も一緒についてきた、ナインという名の小さな町に着いた時のイエスを黙想させてくれます。その町は、ナザレの南西約6マイル、カファルナウムから5マイルの所にあります。

その町の門を入ったところで、やもめの一人息子を埋葬する人々の行列に出会いました。ユダヤ人の習慣に従って、亜麻布に包まれた体を棺に乗せて運んでいました。母親には大勢の町の人が付き添っていました。ナインにやって来た集団は、死んだ人の前に立ち止まりました。イエスは、息子のために泣いている母親のところに行き、憐れみました。イエスは、偶然、行き交う人々の悲嘆をご覧になります。素通りすることも、あるいは、呼びかけか願い出を待つこともできました。しかし、そのまま行ってしまうことも、待つこともなさいません。一人息子を失ったやもめの悲しみに心動かされ、御自ら近づいてゆかれたのです。

イエスは哀れにお思いになったと福音史家が書き記しています。ラザロの死のときと同じように、傍目(はため)にもわかるほど心を動かされたのでしょう。イエスは愛ゆえの苦しみに対して無関心でいることはできなかったし、無関心ではありません。両親から子どもを引き離してお喜びになることもありません。イエスは、命を与えるため、互いに愛し合う人々が一緒にいることができるため、死を克服なさったのです。しかし同時に、正真正銘のキリスト的な生き方をするには、すべてに優越する神の愛に生活を支配させなければならないとお教えになりました。

キリストは取り巻いている群衆が奇跡に驚くだろうこと、また町中にその出来事を言い触らしに行くだろうことをご存じです。しかし、主の身ぶりにわざとらしさはありません。ただあの婦人の苦しみに心を動かされ、慰めを与えずにはおれないのです。そして、彼女の方に近づき、「もう泣かなくともよい」[1]と仰せになります。それは、「涙にくれるお前は見たくない。わたしは喜びと平和をこの世にもたらすために来たのだから」と悟らせようとなさるかのようです。その後で、神としてのキリストの力が発揮され、奇跡が起こります。しかし、それより先に、キリストの聖心は憐れみに震え、人としてキリストの有する聖心の優しさがはっきりと表れたのでした。 イエスは、手を若者の体に置き、起き上がるように命じました。そして、母親に渡しました。

この奇跡は同時に、私たちが他人の不運を見て感じる気遣いの良い模範です。私たちはイエスから学ばなければなりません。イエスのような心を持つために、まず祈りに戻らなければなりません。この世においては避けることができない、時にはひどい苦悩から人々を救うための真の聖香油とは愛であって、その他の慰めはほんのひととき心を慰めるのに役立つとしても、そのあとで苦痛と絶望を心に残すのみであることが理解できる心、人々の悲しみに同情できる心を与えてくださるよう、主にお願いしなければなりません

今日、祈りの中で、生涯で出会うすべての人をどのように愛することができるのか、彼らの不幸に本当の関心、効果的な方法で自分を行動に導く関心を持っているかを糾明するべきです。このように、毎日の良心の糾明をするようになると、その中に神に捧げることができる愛と慈しみの行為がたくさんあることに気がつくでしょう。

81.2 主を真似ること。行いによる愛。愛徳の順序

「イエスは失われたものを救うために」、重荷を和らげ、私たちの惨めさを引き受けるために来られました。イエスは、苦しみ、危機にある人に同情を示すために来られました。イエスは無視しません。イエスは立ち止まります。今日の福音でわかるように、イエスは慰め、救われます。イエスは、憐れみを教えの主要なテ一マの一つにしました。キリストの教えは、弟子たちや大勢の群衆も一緒についてきた状況で、愛と憐れみを表す多くの言葉があります。迷ってしまった羊を捜しに行く善き羊飼いや、失われた硬貨を捜すために家を掃除する婦人の話を目に浮かべれば十分でしょう。 また、イエス御自ら絶え間ない模範を示されることで、苦しんでいる隣人に私たちがどのように振舞うべきかを教えてくださいました。

そして、神の愛は、ただの情熱や感情ではなく、主が行いに表されたように、私たちの隣人への愛も行いに表れるものでなければなりません。聖ヨハネはこう述べています。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」。 そして、「この愛の行い、つまり奉仕は、しっかりとした秩序も維持すべきです。愛とは、愛する者に最良のことを望み、善いことをしてあげたいと望むことであれば、その愛徳の順序を考えると、何よりも人々が神に一致することを望み、この一致に近づくよう努力しようとするはずです。最も崇高な善、最終的な善は、神との一致にあることを悟らなければなりません。神から離れては、どの善であっても何の意味も持ちません」。反対に、自分自身や他の人々にとって最も大切なものとして物質的豊かさを求めることは、異教徒や、生温い信仰生活を送り、日々の振舞い方についてあまり考えないキリスト者の特徴です。そのため、信仰は実際に彼らの日常生活に殆どと言ってよいくらい影響力を持ちません。

どのような物質的善より霊的善を優先して考える時にも、正しい良心もつキリスト者は、より正義にかなった社会秩序を促進するという義務を忘れるわけにはいきません。もっと正しい社会的秩序を促進するためにです。なぜなら愛徳は、物質的な幸福がたとえ二義的なものであるとしても、その物質的な善にも関係があるからです。

隣人の物質的な必要に払うべき心配りに関する愛がとても重要であること、つまり愛徳を形成するのに必要な正義と助けを前もって考慮するのがとても大切なので、イエス・キリストご自身が「さあ、わたしの父に祝福された人たち、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ(…)」と、最後の審判について話される時に断言されたほどでした。そしてすぐに主は、この行いを怠ったものは永遠の罰を受けると言われた。 いつも心配りできるこの愛徳を、主が私たちに与えてくださるように願いましょう。私たちが救いを完成し、正しい目的地に到達しようとするなら、私たちの兄弟である人々を通して私たちとの出会いをお求めになるキリストを認めなければなりません10。家族の只中で、仕事場でそして家から離れている時でさえ、私たちは毎日キリストに出会っています。

81.3 愛するために理解することが必要です。必要性が最も大きい人々への愛

ナインの貧しいやもめとの出会いをとおして、イエスは、子どもを失った母親の悲しみにどのように寄り添えばよいか、私たちに示したいと望まれました。イエスは婦人の苦しみを分かち合われます。愛するためには、理解し分かち合うことが必要です。それが思いやりの本当の意味です。

今日、主に、苦しむ人々と共に苦しみ、喜ぶ人々と共に喜ぶために、理解に満ちた広い心を与えてくださるように願います。また、できる時はいつでもその苦しみから免れるように、私たちがどこにいても、住んでいる人々に溶け込み、幸せを広めるように、私たちを助けてくださいと願わなければなりません。どのような物的善とも比較できない本物の、そして主な善は、天上の完全な幸せに導く、神との一致であることを理解しなければなりません。この世で貧しい人、苦しんでいる人のための《安易な》慰めではありません。むしろ、この世にいる間、どんな状況にいたとしても自分は神の子であり、永遠の生命をキリストとともに相続する者であることを知っている者の深い希望です。人から希望を奪い、それを全く自然で物質的な幸福という別の希望と取り換えることは、詐欺行為です。そのような幸せは、脆く不安定であるかユートピアに過ぎないので、早晩、絶望の深みに陥ってしまうでしょう11

私たちの行いに表される思いやりと憐れみ深い態度は、第一に私たちが普段一緒にいる人々に対して、毎日付き合うように神が定められた人々に対して、そして、最も困っている人々に対して示されなければなりません。もし、私たちが、家族や傍で働く人々に対して正義と愛徳を実践する機会を見逃すなら、遠くにいる人々に私たちが思いやりを示しても、神はきっとお喜びにはならないでしょう。

教会は、救いの神に関する真理は貧しい人々や困難にある人々に対して、特に神の愛が表されることと切り離すことができないことに気づいています12。 貧しい人々への救済もですが、慈しみの業は、私たちやこのような活動で私たちに同行する人々の霊魂を向上させるのに役立ちます。私たちは皆、病人、貧しい人々、飢えに苦しむ子どもたちや大人たちと付き合うことは、いつも弱く保護のない人々の中でキリストと出会っていることを経験しています。そして、まさにこの理由で、こうした彼らとの付き合いは霊的に豊かになるということもできます。単に利他主義の望み - 貴い望みだが超自然的効果はない - ではなく、良い羊飼いであり霊魂の医者であるイエス・キリストの、まさにその感情に動かされて小さな兄弟に近づく人の霊魂の内に、主はもっと深く入り込まれます13

イエスの至聖なる御心と御母マリアの御心に心を向け、愛徳が要求するものに決して受身のままでいないようにお願いましょう。このようにして、「神の御母、思い出してください。あなたは神のみ前で私たちのために良いことを話し、私たちの必要なものを願ってくださいます」という典礼の言葉を用いて、確信をもって聖母に願うことができるでしょう14

[1] ルカ7:11-17

聖ホセマリア・エスクリバー,『知識の香』,166

聖ホセマリア・エスクリバー,『知識の香』,167

ルカ19:10

聖ヨハネ・パウロII世,Dives in misericordia,30 November 1980,3

1ヨハネ3:18

フェルナンド オカリス, Love for God, love for men

マタイ25:31-40 参照

マタイ25:41-46 参照

10 聖ホセマリア・エスクリバー,op cit,111

11 フェルナンド オカリス, Love for God, love for men 参照

12 聖ヨハネ・パウロII世,Redemptoris Mater, 25March1987,37 参照

13 アルバロ・デル・ポルティ一リョ,Letter,31May1987,30

14 Roman Missal, Antiphon from the Common Mass of Our Lady