年間第10週日曜日・A年 79 希望の徳

― 旅人のための徳。その礎。 ― 妨害や困難、悲しみなどの最中における希望。 ― 聖性の望みを度々更新する。

年間第10週日曜日・A年

79 希望の徳

― 旅人のための徳。その礎。

― 妨害や困難、悲しみなどの最中における希望。

― 聖性の望みを度々更新する。

79.1 旅人の徳。その根拠

キリスト教的修徳において、人間の一生は、神を終着点とする旅として描かれています。私たちは皆、最終的な目的地である神に向かって歩みたいと望む旅人です。それ故、目の前にある困難な道をしっかりとした足どりで歩みたいと望むならば、希望の徳を〈蓄えて〉おかなければなりません。 もし、旅行者が目的地にたどりつく希望を失うなら、その人は旅を続けないでしょう。その道を進み続けるのはひとえに、いつの日か目的地に着くという信頼があるからです。大急ぎで真っ直ぐに、聖性に向かって、神に向かって、進みたいと思います。

人間の生活で、人が目的を定める時、それをやり遂げる希望は、身体的健康、鍛錬、その人自身の経験に基づいています。話し、行うことはすべて、必要なら、最終的には自らの弱さそのものから力を引き出すという、確固たる意志の問題になります。私たちの存在の超自然的目的に到達するために、私たちは自分の力に頼らず、全能である神の力に頼ります。神は、私たちを倒れさせない忠実な友です。神の善と憐れみは、頻繁に、朝の雲やまもなく消える露のような人間の憐れみや善とは違います

超自然的な希望の徳のお陰で、キリスト者は、最終的な目的地に到達することが確信できます。それは、すでにこの世の洗礼に始まり、来世では永遠に続きます。目的地は、普通の旅のように一時的な目的でも、他の目的に向かうための出発点でもありません。この希望の徳をとおして、神が、ご自分が愛する人々に約束された永遠の生命に、目的を成し遂げるために必要な手段と神の全能の助けという支えを得て、私たちは希望しあこがれるのです。 困難が大きいほど、また、私たちが弱いほど、神への信頼はさらに強いものでなければなりません。その助けはもっと大きくなるからです。神が私たちの近くにおられることがますます明らかになるでしょう。ミサの第2朗読で、聖パウロは、アブラハムが約束されていたように多くの民族の父になると言われた時、彼は希望するすべもなかったのに、なおも望みを抱いて信じたことを思い出させています。ヨハネ・パウロ一世はこう評しています。「あなたは言うでしょう。『どうしてこういうことが起きるのでしょうか』。それは、3つの真理に固く結びついいるからです。つまり、神は全能である。神は私を非常に愛しておられる。神はその約束に忠実である。私に信頼を持たせてくださるのは、慈しみの神ご自身です。自分が孤独ではないことや、役に立たず見捨てられたものではないばかりか、むしろいつの日か天国で終わる救いの運命にあることを私にわからせてくださるその信頼です」

アブラハムは自分が高齢であることと妻の不妊にもかかわらず、躊躇しませんでした。それどころか、神の力と憐れみにしっかりと信頼し、神はご自分が約束されることは実現されると納得していました。「私たちの罪のために引き渡され、私たちの正当化のために再びよみがえられたキリストを信頼しようとはしないのですか」。 神から受けた呼びかけに一致して生きるのを妨げようとする、私たちが出合う障害に対処するのに、神が私たちを見捨てられることがあるでしょうか? 神はいろいろな方法で手を差し伸べられます。普通は毎日の祈りにおいて、自分に定めた生活プランを実行することにおいて、秘跡において、特別な霊的指導の忠告において、手を差し伸べられます。主は、この世の旅で、私たちを決して放っておかないでしょう。旅の中で、私たちは、信仰に溢れることもあれば弱さも頻繁に経験します。聖人になる希望、神が私たち一人ひとりに期待することを忠実に行う希望は、神が差し出してくださる手を受け取るかどうかにかかっています。この徳は、私たちの価値、生活の個人的な状況、また、困難がないことに基を置くのではなく、神のみ旨に - 私たちが目的地に到達すべきだという神のみ旨に - 常に考えられるどんな状況においても必要となるはずの恩恵と助けを、すべて与えてくださるその神のみ旨に基を置いています。

「『死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない』。私の惨めさにも敵の誘惑にも心配する必要はない。『あなたがわたしと共にいてくださる』」

79.2 失敗、障害、苦しみにもかかわらない希望

今日のミサの福音は、神は神を必要としている人々にどんなに近いかということを示しています。神は、完全な人々を心に留めるだけでなく、癒し、赦し、救うために来られました。神は何よりも霊魂の病を癒す神聖な医者です。健康な人には医者はいらない、しかし、病人には必要である。徴税人や罪人と食事をすることを批判する人々にこう言われました。霊魂のことがうまくいかないとき、健康を損なったとき、私たちは決して良好ではありませんが、イエスはいつも以上にもっと多くの世話と助けをお与えになる心づもりをしておられます。病気の人をお見捨てになりませんし、私たちをお見捨てにはなりません。誰も助からないものと諦めておられません。私たちに欠点があるからといって放っておかれることもなさいません。しかし神は、私たちを聖化するために招かれ、私たちのために必要な恩恵をお与えになる心づもりをしておられますから、その欠点は改善することができますし、しなければならないものです。どんな病気でも治すことができる医者の治療を受ける事ができるのは、病人だけです。受けるのを断れば病気を治すことはできません。弟子一人ひとり、つまり私たちを救いたいというキリストのご意志自体が、神ご自身が私たちに願われるものに到達するという固い約束を意味すると言えます。

希望の徳は、この生活の困難が深い意味を持っていることを、私たちにわからせてくれます。それらは偶然に、または、盲目的な運命によって起きるのではありません。そうではなく、その状況からもっと素晴らしい善を引き出すために、神が意図されたり、少なくとも許されたりするので起きるのです。困難のお陰で、私たちは神への信頼を強め、次第に神の子の自覚を強め、健康とこの世の富から、もっと離脱ができ、多分すべて良いとは限らない私たちの心の意向が清められ、私たちの罪とすべての人々の罪の償いをするようになります。

神は、私たち一人ひとりにこう言われています。私は、犠牲よりも憐れみを好む。もしあるとき神が、私たちが圧倒するような苦痛を許されるなら、それは私たちのために役に立つからです。そこには私たちの理解をはるかに超える高尚な理由があるからです。私たち自身の益のためです、つまり、私たちの家族、私たちの友人、社会全体の益のためだからです。子どもが再び健康になることができるために手術をすることを承諾する母親と同じように、神は、より大きな善を私たちにお望みなのです。私たちが強い信仰を持って信じ、希望をもう一度奮い起こさなければならないのはそのような時です。というのは、人間的にみれば失敗、あるいは、大きな不幸を、宝であるとみなすよう教えてくれるのはこの徳だけですから。聖櫃の傍に行って、主に神が望まれることをすべて私は望みます、とゆっくりと申し上げなければならない時です。聖テレジアはこう記しています。「何が私たちのために良いか知っておられる主の支配に、自分自身を無条件に与えることを望まないのは、私たちの最大の誤りです」。「イエスよ、御身のお望みになることなら、私もそれを愛します」。あなたがお許しになることは何でも、どんな制限や条件もおくことなくあなたの助けによって、最良のものとして受け入れます。あなたが傍にいてくだされば、私はいつもすべてのことに対してあなたに感謝します。

79.3 聖人になる望みを、度々、心に呼び起こす必要があります

向上していないと思われ、身体的、精神的に困難な時も、神は万事が益となるように働かれる10と心の奥で言いましょう。利己主義、悲しみ、つまらない目的などの誘惑に服してはなりません。私たちは、天国に向かってまっすぐに旅をしています。そして、すべては、もっと天国に近づき、より早く到達するための道具になるでしょう。すべてです、私たちの弱さでさえです。

自分の内的生活の状態を前にして、特に内的生活に進歩がみられない時、欠点がなかなか無くならないと思われる時、いつも同じような失敗をすると思われる時は、希望の徳を頻繁に実行しなければなりません。その時、私たちには聖性はただの幻想であり、自分たちからは非常に遠いものに見えるかもしれません。そのような時、十字架の聖ヨハネの教えを心にしっかりと留めなければなりません。「天国の望みをもつ霊魂は、望む事すべてを成し遂げる」11。神的な善を受けない人たちが確かにいます。全く望んでいないからです。彼らの視野はあまりにも人間的で狭いので、私たちが受ける価値が全くないにもかかわらず、神が私たちにお与えくださる善の素晴らしさを一瞥さえしないからです。また、この高徳な著者は続けてこう言います。「愛の追求を獲得するために私は出かけました。飛び立つ希望で心は満ちています。高く舞い上がりどんどん高く舞い上がり、ついに獲物に届きました」12。私たちの希望は神だけにあるべきです。それは、すべてを包み込み、神が望まれる子どものようであるべきです。希望に生きるのにしっかり心を入れていけば、私たちは神からすべてのものを得るでしょう。私たちの一生の最終的な目的である聖性が、はるか彼方にあると思われる時でも、神に近づくための戦いを緩めようとしないでしょう。それどころか私たちは燃えるような希望を持ち、義務を果たそうとするでしょう。霊的指導で受けている忠告と良心の糾明、黙想会の決心を実行に移すよう努力するでしょう。落胆に対して毅然と戦うでしょう。与えられた時間に、欠点に対して感じる痛み - 多少、重要な前戦で - と再び始めたいという新たな望みしか私たちには主に捧げることはできないかもしれません。しかし、その時こそ、この捧げものは神を非常に喜ばせる謙遜な捧げものになるでしょう。

希望は私たちを励まし、快活に、忍耐強く、倦むことなく再び始めるよう力をくれるでしょう。希望があるので、主と私たちの希望である聖母の助けによって、私たちは必ず勝利を獲得できると確信できます。主は、私たちが勝利を得ることができるためのすべての手段を、私たちの手の届くところに置いておられますから。

パウロ6世,Address, 9December 1975

First Reading, Hos 6:1-6

Catechism of St PiusX, 893 参照

ロ一マ4:18-25

ヨハネ・パウロ1世,Address, 20 September1978

聖ホセマリア・エスクリバー,『鍛』,194

マタイ9:9-13

聖テレジア,Life,6,8

聖ホセマリア・エスクリバー,『道』,773

10 ローマへの手紙 8・28

11 十字架の聖ヨハネ,Poems,VI

12 十字架の聖ヨハネ,Poems,VI