年間第10週・木曜日
85 痛悔の動機
― 邪魔物を取り除く。自己否定。共同救済。
― 悔悛への教会の招き。祈りにおけるその影響。「金曜日の悔悟的意味」。
― 犠牲の種々の分野。色々な条件。
85.1 妨げを取り除くこと。自我を捨てること。共に贖うこと
イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また、福音のために命を失う者は、それを救うのである」1。
主は、すでに、物質的な富から離脱することは必要であると弟子たちに言われていました2。 イエスは、今ここではもっと深い離脱を求めておられます。人は、自己、自我、最も個人的なことを捨てなければなりません。キリストの弟子にとって、自己を捧げる一つひとつの行いは、キリストがわたしの内に生きられるように、自分のために生きるのを止める証しなのです3。「キリストのゆえにわたしはすべてを失いました」4と聖パウロがフィリピの信徒に書いているように、「キリストにおいて生きる」とは恩恵による生活です。キリスト者の生活全体は、命と愛そして友情の証しです。「わたしが来たのは、彼らが命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」5。キリストは、私たちが神の子で、聖三位一体との親密な命を共にするよう招いてくださいます。その素晴らしい約束を阻止するものは、自我、安楽、幸福、成功に対する私たちの執着です。ですから、犠牲が必要です。それは何か否定的なものではなく、むしろイエスが私たちの内に生きてくださるように自己から離脱することです。ですから、このような逆説になります。「生きるためには死なねばならない」6。私たちは、超自然的な生命を生きるために、自分に死ななければなりません。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」7。
誰かが私について来るなら - 私たちの傍を通られるイエスの招きに応えるために、常に向上しながら、一歩ずつ先に前進する必要があります。神から私たちを引き離し、神との友情を困難にするものを拒むために、私たちは、毎日少しずつ自分に死に、自分を否定し、「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てる」8必要があります。神から呼ばれている聖性を達成するために、私たちは悪への傾きと激情を鎮めなければなりません。原罪と個人的な罪の結果、もはや意志に正しく従わないからです。キリストに従うために、自分を制御し、明確な方向に自らの歩みを導くことができなければなりません。私たちは、ロバを連れた人のようです。人がロバを導くか、ロバが人を導くか。つまり、私たちが激情を支配するのか、あるいは激情が私たちを支配するのかどちらかです9。 もし犠牲がなければ、「〈霊魂〉が徐々に減じて小さくなり、ただの一点でしかなくなったようだ…。そして、体が大きくなり、巨大化して、支配を確立する。聖パウロがあなたのために書いてくれている。『(わたしは)自分の体を打ち叩いて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです』」10。
聖パウロは、償いをする別の理由を指摘しています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」11。キリストの受難は、それ自体、救いのために十分ではなかったのかと、聖アルフォンス・リゴ一リは尋ねています。「受難に優る真価を持つものはありません。それはすべての人の救いにとって十分過ぎるものです。またさらに、私たちにもたらされたキリストの受難の功徳を得るために、神の子であるイエスに私たちがもっとよく似るように、神が贈りたいと望まれる骨折りと苦難を忍耐強く受け入れて主に協力する必要があります」12。
寛大に犠牲を実行する時、私たちは何はともあれキリストの苦しみを共にすることで功徳を被ります13。 そのうえ、償いの超自然的効果は私たち自身の家族に及びます。とは言え、特別、最も助けを必要としている人々、友人、仕事仲間、神のもっと近くに連れて行きたいと思う人々に、そして、確実に全教会と全世界にもその効果が及ぶのです。
85.2 償いへの教会の招き。償いと祈り。金曜日は償いの日
したがって、教会は、償いの宗教的、超自然的価値(今日の世界を修復するために、キリストとその救いの意味と共に、神の現存と神の人間に対する主権)の卓越性を肯定する一方、すべての人が自発的に懺悔(ざんげ)の外的行為を行い14ながら、霊魂の内的会話をするように招きます。償いの精神で神に捧げられると、人の身体的・精神的苦しみは、無益で有害なものではなくなり、兄弟姉妹の救いのために贖いの価値を得ることになります。したがって、その人は、かけがえのない奉仕を実践していることになります。救いの十字架から絶え間なく生み出されるキリストの御体において、それは、世の救いのためのかけがえのない仲介者であり世の救いのために欠くことができない良い業の源であるキリストの犠牲の精神が染み込んだ、まさにその犠牲なのです15。
教会は頻繁に犠牲の必要性を思い出させてくれます。誰かわたしの後に従う者があれば、自分を否定し、ある特別の犠牲を実行する必要と効果を考える日として、教会は特に一週間のうち一日、金曜日を定めています。肉をひかえる、幾分難しいと思われることを行う(仕事をもっと完全に終える、他の人のために生活をもっと楽しくする、等)、または、ある信心の業をする、霊的読書をする、ロザリオを唱える、聖体訪問をする、十字架の道行をする日として定めています。その日には、物的な慈善活動を一つでもすることができるかも知れません。病人を訪問する、貧しい人と少しの時間を過ごす、施しをする。けれども、私たちのために苦しみ、死なれ、犠牲の真価を教えられた主を思い出させる毎週の償いの行為だけで満足すべきではありません。日々、神は、霊魂に活力を与え、使徒職を実りあるものにするのに、小さな所で自分を否定するよう私たちに望んでおられます。
85.3 償いのいくつかの実行
はじめに、私たちは受身的犠牲と呼ばれるものに気づかなければなりません。これは、愛によって捧げられる時でも、予期せずに起こることや私たちの意志によらないものであり得ます。寒さ、暑さ、痛み、予想より長く待たなければならない忍耐、受けるかも知れない不愛想な返答に当惑させられた時、このような受身的犠牲と共に、他の人々ともっと喜んで付き合うため、他にも多くの犠牲があります。たとえば、時間を守る、関心をもって聞く、気まずい沈黙の時に話す、愛想良くし、自分の機嫌を状況に反映させない、他人に礼儀正しく丁寧に接し、感謝を述べ、誰かをうるさがらせた時には謝るなどです。熱心に働くこと、秩序正しく一度始めた仕事を終えること、他の人々が仕事をするのを助けることも、犠牲をする機会を提供してくれるはずです。犠牲は、また知性に関しても行われます。荒々しい厳しい批判を避けること、詮索しないことや急いで判断しないこと、また、意志の犠牲も可能です。自己愛には断固として戦う、自分自身のことや私たちが行ったことや行おうと計画していることをむやみに話さない、自分の好き嫌いについて過度に話さないことです。
積極的な五感の犠牲は、自己否定のもう一つの分野です。たとえば、見ることに気をつける、節制を実行する、食事毎に犠牲を捧げる。内的犠牲をなおざりにするべきではありません。聖性の追求を妨げる無益な考えを捨て、ミサの間の祈りや仕事中の注意散漫を特に避けることです。
自発的な犠牲を喜んで実行しているかどうか糾明してみましょう。すべき時に身体を制御しているかどうか、生活の中で出会う苦しみや困難を、贖いに協力したいという意向を持って神に捧げているかどうか、キリストの愛と福音のために一歩一歩、少しずつ、本当に自分の命を失う決心をしているかどうかを糾明してみましょう。
世間の只中での犠牲と償いは、一連の特色を持っているべきです。何よりも、喜びに溢れていなければなりません。「人々の救いのために精魂(せいこん)を捧げ尽くして病に伏す人が言った。時々、身体が反抗し不平を言うが、〈そのような嘆き〉を努めて微笑みに変えるようにしています。実に効果的であることが分かっていますから」16。苦しみと病気の中にあっても、もし私たちが犠牲をしていれば、多くの微笑みと楽しい話題を提供することができることに気がつきます。
犠牲は継続的であるべきです。このようにして、どこにいても、神の現存を容易にするでしょう。私たちが熱心に働き、行っていることを仕上げるように助けます。使徒的霊魂を持っていれば、もっと喜んで他の人と関わり、もっと丁寧に付き合うでしょう。
犠牲は、目立たず、自然でなければなりません。それは、変わっていて奇妙なものというより、むしろ、他の人々の生活への効果に見られるべきです。さもなければ、キリスト信者の一人として相応しくないということになります。
犠牲は、謙遜で愛に満ちているべきです。私たちは十字架上のキリストを見て犠牲を捧げるよう促されます。私たちは全存在を込めてキリストと一つになることを望むからであり、キリストに向かうために役に立たないものは何も欲しくないからです。
カルワリオの丘の上と同じように、犠牲においてマリアを見出します。この祈りの時に立てた具体的な良い決心を、マリアの手の内に置きましょう。犠牲の必要性を深く理解できるよう、聖母マリアにお願いしましょう。
1 マルコ8:34-35
2 ルカ14:33 参照
3 ガラテア2:20
4 フィリピ3:8
5 ヨハネ10:10
6 聖ホセマリア・エスクリバー 『道』,187 参照
7 ロ一マ8:13
8 エフェソ4:22
9 E.Boylan, This Treamendous Lover
10 聖ホセマリア・エスクリバー,『拓』,841
11 コロサイ1:24
12 聖アルフォンス・リゴ一リ,Meditations on Christ’s Passion,10 参照
13 パウロ6世,Apostolic Constitution, Paenitemini, II, 17February 1966
14 パウロ6世,Apostolic Constitution, Paenitemini, II, 17February 1966
15 聖ヨハネ・パウロII世,Apostolic Letter, Salvifici doloris, 27,11February 1984
16 聖ホセマリア・エスクリバー,『拓』』,253