年間第10週・金曜日 86 純粋な心

― 第九の掟と心の清さ。 ― 心の見張りと自己の召し出しと立場における忠実。 ― 視線、好みや内的感覚を見守る。

年間第10週・金曜日

86 純粋な心

― 第九の掟と心の清さ。

― 心の見張りと自己の召し出しと立場における忠実。

― 視線、好みや内的感覚を見守る。

86.1 第九の掟と心の清さ

主は何度も、人間の行いの根源が人間の心、人の内面、人々の霊魂の奥深くにあることを指摘されました。心の内面は、乱れた愛情や妬みや悪意によって汚されずに、純粋で清くなければなりません。良いものはすべて心の中で生まれ、それが外的な行いとなって現れるのです。神の恩恵のお陰で神と接するときの誠実な孝愛、清い愛、理解、隣人と接するときの温かい心が育ちます。心の清さは愛する能力を高めます。逆に、汚れた心は、ブルジョア的態度や利己主義、霊的盲目などを生み出します。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来る」のです。格言の書では、「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」と警告しています。心はその人にとって最も親密なものを象徴しています。

今日のミサの福音で私たちは聞きました。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでもすでに心の中でその女を犯したのである」。ここでイエスは、第9戒の本質的な意味をはっきりと述べておられます。それは愛徳に反する内的行い(考え、望み、想像)を禁じています。すべての乱れた愛情は、清らかで私心がないように思われるかも知れませんが、もしその人の個人的状況において神の意志と一致しないならば、この戒律に反します。

この掟を細やかな心で生きるために - 愛することを学ぼうとすればこれは欠くことができないものです - 第一に、私たちの心を神の愛で満たすために神との深い友情が必要です。そのうえ、聖なる清らかさに対する誘惑になるものを避けなければなりません。このようなことは、感覚を守る思慮に欠けたり、想像力を抑制しないで、現実や、義務を果たすことから遠のかせる夢や、空想にふける時、または、愛情の埋め合わせを求めたり、虚栄心に負けたり、過去の無益な記憶にふける時に起こるはずです。これに気づき、心の内に起こったこのような誘惑をすぐに退けないなら、退けるために役に立つ手段を使わないなら、神の恩恵には応えていないことになり、内的な混乱状態に陥ります。人は神に対して不寛容になるのに慣れてしまいます。ですから、もし同意と拒否の間の綱渡りをするかのように誘惑を弄(もてあそ)んでいると、内的犠牲の不足から、純潔に反する本物の内的罪になる恐れがあります。このような態度では、本当に霊的に進歩することは、不可能とは言えないまでも難しいことです。これに反して、神の恩恵の助けによって、清らかな生活を送るように決心する時や、些細なことに注意していなかった時でも急いで改めるなら、霊魂の客人、聖霊はさらに多くの恩恵をくださるでしょう。このようにして、慰め主の実の一つである喜びがしっかりと根付き、悲しみと孤独感の沈殿物(おり)を残す愚かな埋め合わせを捨てることができるのです。

86.2 召命と生活上の身分に従い、心と忠誠を守ること

第9戒によって、神は私たちが淫らな考えと望みを避けるだけでなく、真実の愛を不可能にするものから心を守るように要求しておられます。霊魂を清く保つとは、親密さや愛情に注意を払い、優しさを表す時と場所を弁えて、常に、召し出しと社会上の身分と首尾一貫した態度を維持することです。 結婚に召されている人々は、歳月が経っても結婚当初と同じように、互いに伴侶だけに心を向けるように守らなければなりません。そのために夫婦は、現実にまたは想像的な埋め合わせに陥ることにならないように、常に心をコントロールしていなければなりません。結婚した人々は、結婚の幸福の秘訣は、空想にではなく日々の物事の中にあることを忘れてはいけません。夕方、家に帰るということにささやかな喜びを見出し、子どもたちとの愛情のこもった交わりを持ち、家族全員で協力しながらする毎日の仕事、スポ一ツ精神で乗り越えるべき困難に直面した時でも不機嫌にならないこと、文明が私たちの子育てに役立つように提供してくれるあらゆる進歩を最大限に良く利用することにあります。結婚生活の幸せは、家を快いものにして、その生活をもっと簡素にするところにあるのです

一部でなくすべてを神が要求されている人々には、霊魂を清め、愛着から離脱する為のより深い理由があります。種まき人がまいた種がいばらで遮られるように、永遠から私たちを招いてくださった神の無限の愛を無に帰すわずかな執着に心を奪われるのは、何と恐ろしい裏切りでしょう。聖ヒエロニムスはこう私たちに尋ねます。「全体のうち一部を捧げたからといってあなたは高い徳に達したと思いますか?」 神は、あなたが神を喜ばせる、生ける捧げものであることを望んでおられます。 私たちが神と人々のために心を清く保つために、主は常に恩恵をお与えになります。埋め合わせを求めず、召された高みに至る邪魔をする糸や鎖に縛られず、勇気を出して束縛を切り捨て、感情を正す恩恵をいただくことができるのです。

心を守るために、まず初めに愛を守らなければなりません。私たちが、人間的な面で愛に欠け、神との親しさが生温いなら、埋め合わせをしたいという望みが容易に霊魂に入り込んでくるでしょう。人は愛するために創られているので、冷淡で苦々しいものでは満足しないでしょう。

良心の糾明をして、特に神に奉献される聖体拝領、聖体訪問、日中と夜の潜心の時間をどのように注意を払っているか見てみましょう。イエスとの関係が、友だち同士のように本当に個人的なものであるかどうか見てみましょう。この友情においては、型にはまり、冷淡であることは必ず避けるようにしましょう。心が、神との関係を曇らせたり歪めたりする考えをすぐに拒み、神の望みへと向かっているかどうか、糾明してみましょう。

86.3 目と愛情と内的感覚を守る

心の管理は、しばしば目を守ることから始まります。常識と超自然的感覚は、見るべきでないものを注視できなくする目の前に置かれたフィルタ一みたいなものです。私たちは並はずれたことを行うのではなく、自然さと単純さを持って行うべきですが、職場や社会的な活動をしている時と同じように、通りでも剛毅を持ってそうしなければなりません。

人々を知り愛するようになるために、彼らと付き合わなければなりません。しかし、神がお望みにならないものに心が簡単に執着を持つ人たちに、私たちが誤って執着しないために、私たちは、その人たちと距離を置く分別を持たなければなければなりません。これは、道徳的、情緒的、霊的な距離のことです。他の人々に、自分の悲しみや苦しみを不必要に話し、不当な信頼をおくということになるからです。分別があれば、物理的に距離を置くことさえ要求します。良心が正しければ、動機を注意深く誠実に糾明することによって、その付き合いや感情の吐露の中にあまり正しくない意向を見つけることができるでしょう。表向きと隠れた本音が明らかになるということです。

私たちの愛情を過度に表に現わさないようにと、その感情を抑える必要はありません。どちらにしてもそれは不可能です。しかし、神のみ旨に従うようにその感情を導きコントロ一ルする必要があります。私たちの心を清らかで強い愛で満たし、神がお喜びにならない愛情から守ることです。

心を守ることは、記憶のコントロール、つまり執着心をあおり、心を歪ませるかもしれないイメージと内的対話を拒むことと関連しています。過度な想像に逃避し、愚かな夢への扉を開けば、日々の現実に心を開くことができなくなります。私たちがこの種の誘惑に負けたり、疲労や内的に渇ききったりしているとき、日々の過失と失敗の償いを求めようと容易に誘惑に負けるとき、生活の一致の欠如が起こります。常に虚栄心が最上にある内なる世界と、私たちが一人ひとりに期待されている善を行いながら個人的な聖化を成し遂げなければならないもう一つの難しい現実の世界が並行して存在します。自分の置かれた状況に不満を持ち、非現実的な想像的内的世界に逃避しがちな人々は、徳に成長できる試練の時にしなければならないことに、現実的に寛大に立ち向かうことがとても難しいことに気がつくでしょう。夢の世界に生き、なおその人の義務を果たすことはどれほど不可能なことでしょうか? 厄介な欠点に立ち向かわないで、想像の世界に逃避してそこで打ち勝とうとしても、どのようにして戦うことができるというのでしょうか? 幻想的幸福の偽りの世界に隠れることに慣れている時に、犠牲に直面してどのようにして喜ぶことができるというのでしょうか?

私たちの心は、実際に接することのない人々であっても、映画で見たかも知れない、小説や実際の生活で出会ったかも知れない人にも執着するようになることすらできるのです。このように拘束され、傷つけられた心では神への道を見出すことはできません。

今日、良心の糾明をして、自分の心がどこにあるか見てみることです。何について考えていますか? 私たちの考えの中で、第一に誰が場所を占めていますか? 聖母に、イエスが私たちの生活の本当の中心であるように、神が一人ひとりに望んでおられる犠牲をする心積もりと、清潔で高貴な愛で自分の召命に一致して生きることができるように頼みましょう。

「あなたが日々実行に移すことのできる勧めを一つ差し上げよう。心が程度の低い事柄に向かっていると感じたときには、私を憐れんでください、御母、私を見放さないでください、と無原罪の聖母に向かってゆっくりと祈りなさい。そして、他の人にもそうするよう勧めてあげなさい」。私を見放さないでください。私を見放さないでください、御母よ!

マタイ15:19

箴言.4:23

マタイ5:27-28

J.L.Soria, Loving and Living Chastity 参照

Conversations with Monsignor Escriva,91

聖ジェロ一ム,Epistle118,5

聖ホセマリア・エスクリバー,『拓』,849