年間第10週・月曜日 82 神のいつくしみ

― 神のいつくしみは無限で永遠、そして普遍的。 ― いつくしみは正義の成就を前提とし、正義を越える。 ― 慈しみの実り。

年間第10週・月曜日

82 神のいつくしみ

― 神のいつくしみは無限で永遠、そして普遍的。

― いつくしみは正義の成就を前提とし、正義を越える。

― 慈しみの実り。

82.1 神の慈しみは限りなく、永遠、普遍である

聖パウロは、神を《慈しみの父》と呼んで、深くお愛しになる人間に対する神の限りない慈しみを示しています。 聖パウロは繰り返し強調しています、神は限りなく慈しみ深いと。これほど頻繁に繰り返し強調されている真理は他にはありません。神は人間に、特にあらゆる不幸の中で最大の不幸である罪に耐えなければならない人々に限りない慈しみを持っています。聖書は、私たちに神の慈しみは永遠である、つまり時に限りがないと教えるために様々な言葉とイメ一ジを使っています。私たちが本当にその教訓を学ぶように、と。 それは空間や時間の限界がなく広大です。一つの国や一つの民族に制限されず普遍的です。また、人間の必要性と同様に広範囲に及びます。

神のひとり子、みことばは、この神の慈しみの証しとして人間の体を受けました。ゆるすために、互いの和解と創造主との和解を実現するために来られました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。使徒ヤコブは主を、慈しみ深く憐れみに満ちた方と呼びました。 ヘブライ人への手紙においては、キリストは憐れみ深い忠実な大祭司です。 人間に対する神のこの憐れみの姿勢があるからこそ、神は救いのみ業を常に行われているのです。 人をゆるし、最終的な故郷に向けて旅するように、また、自分の弱さやこの世で出会う痛みや欠乏に打ち勝つよう励ますことに、神は決してうんざりなさることはありません。神は「慈しみ深い父」であることをキリストが啓示してくださったので、特に苦しんでいる時や存在と尊厳を実際に脅かされている時、すぐ近くにおいでになる神に《出会う(見る)》ことができるのです。 こういうわけで、苦しむ人々(重い皮膚病患者、盲目の人、足の不自由な人、…)の、かわることのないイエスへの祈りが私たちに憐れみをもたらします

私たちすべての人間に対するイエスの優しさは、人間の思惑をはるかに超えます。その人は強盗の手に落ち、身ぐるみ剥ぎ取られ、打ち叩かれ、半死の状態で残されましたが、あるサマリア人はその人を励まし、傷に包帯を施し、自分の馬に乗せて、世話をしてもらえる宿まで運びます。さらに宿の主人にお金を預け、足りないときは帰りに寄ったときに支払う約束をしたのです。 主は、一人ひとりに同じような世話を続けておられます。私たちがいたく傷ついた時には何度も私たちを抱き上げてくださいます。傷に香油を注ぎ、包帯をしてくださいます。私たちの救いは主の慈しみのうちにあります。病気の人、盲目の人、手足の不自由な人と同じように、聖櫃に向かい主に言わなければなりません。「イエスよ、わたしをあわれんでください」。神は、ゆるしの秘跡を通して特別な方法で私たちに慈しみを注いでくださいます。そこで、私たちを罪から清め、喜んで迎え、癒し、傷を洗い、休息を与えてくださいます。さらにこの秘跡を通して、主は私たちを完全に癒され、新しい生命を授けてくださいます。

82.2 慈しみは正義を前提としますが、正義の徳が要求するものを超越します

「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」10。私たちは、今日のミサの福音で読みました。神は、神の子たちが兄弟姉妹に対してこの態度を育てていくことを特に切望されています。また、主は、私たちに示される慈しみは、私たちが示している慈しみに比例すると言われます。なぜなら、「自分の量る秤で量り与えられる」

11からです。それは全く同じ量ではなく、比例した量でしょう、なぜなら神の優しさは、私たちのあらゆる思惑を越えるからです。一粒の麦は一粒の金に相当します。一袋の麦は一袋の金に相当します。私たちが免除する50デナリに対して、私たちが神に負う10,000タラント(数えきれない負債)が帳消しにされるでしょう。反対に、他人の不運と弱さに対して心を頑なにすれば、私たちは天国に入って神ご自身を見出すためにくぐる門から遠のき、その門は狭くなっていくでしょう。天国で慈しみを受ける者は、この世で慈しみを実践しなければなりません。だからこそ、皆が慈しみを切望しているわけでもありますから、この慈しみがこの世において私たちの弁護者になるように振舞わなければなりません。そうすれば、来世では自由になり解放されるでしょう。この世で慈しみを示すことによって天国で慈しみが得られます12

時折、慈しみが正義の要求を無視するかのように考えて、慈しみを正義に対立させる傾向が見られますが、それは大きな間違いです。慈しみこそ正義の充満であるのに、慈しみが正義に反するというのです。慈しみは正義に満ちたものです。聖トマスはこう教えています13。 神が慈しみに動かされて行動される時、そして、私たちがそれを真似る時、神は正義を超越したことを行われます。ただしこの場合、すでに正義の徳を十全に実行するという前提があります。同じようにして、100デナリだけ借金がある人が200デナリを貸主に渡しても、正義に反することではありません。それは正義に十分適ったことであり、その人は寛大に慈しみ深く行動しているのです。隣人に対する私たちのこの態度は、あらゆる正義に満ちたものです。更に、慈しみがなければ、私たちは、最終的には最強の者が弱者を抑圧する体制をとってしまったり、他の人々といつまでも戦ったりするものと化してしまいます14

正義だけでは、本当の家庭生活を生み出したり、職場の調和、社会の様々な活動が一致したりすることは不可能です。まず私たちが正義に基づいて生きなければ、神が私たちに要求される慈しみを実践することができないことは明らかです。しかし、所有するものを一人ひとりに与えた後、つまり自分の物を公平に与えた後、もし慈しみ深い態度があれば、私たちはさらに神に近く導かれるのです。たとえば侮辱(侮辱が想像上では正しいかも知れないとしても、または謙遜に欠けるために引き起こされたとしても)をどのようにすぐにゆるすか、わからせるようにします。誰かが自分よりたくさんのことをしなければならない時や、疲れているような時に、その仕事を手伝うようにさせたりします。また、物事が難しいとわかって心配したり当惑を感じたり(おそらく家族の人が病気だとか、その人が試験に失敗したとか、お金を失ったとか)している時、励ましの言葉をかけるようになります。またそのお陰で私たちの近くにいる人々にとってとても必要な、ともに生活し働く、とても大切な奉仕の小さな行いを実践する心構えができます。

82.3 慈しみのいくつかの効果

人々の関係がどんなに正義に適ったものになっても、いつも、日々、慈しみを実践することが必要でしょう。この徳は、正義の徳を豊かにし完全にします。私たちが慈しみ深く生命に近づくことが様々な必要性 - 物質的な必要性(食物、衣服、健康、雇用)と倫理的な秩序の必要性(友人がゆるしの秘跡を受けるように助けること、カテキズムを教えたり形成の仕事に協力したりすることによって、最も初歩的な信仰の真理に関する無知に対して戦うこと)- を含み、それらに注意を払うことになるべきです。慈しみとは、私たちが日々出会う人々の不運を、自分の不運であるかのように慈しむよう導く心の気質のことです。これを理解するには、まず、他人の失敗や欠点に理解を示すようにならなければなりません。他の人々のことを良く考えたいと思う、肯定的で優しい見解を育て、向上させなければなりません。彼らの欠点と過失をすぐにゆるし、最適な手助けをすることを決して怠ってはなりません。このような態度をとることで、私たちはすべての人々は根本的に平等であり、一人ひとりはその個性が異なり、各々が特質を持っていることを尊重するようになるべきです。彼らは皆、神の子だからです。慈しみは、兄弟、姉妹の物質的、霊的両方の不幸に対して心から同情し、それを効果的に分かち合うことを要求します。

主は、次の世、天国と同じようにこの世の幸福を成就する正しい道はすでに至福の道であることを示されました。それは、神からほとばしり出る慈しみが湧き出て来て、神が所有される真の幸福を私たちに分け与えてくださる新鮮な水の小さな雫のようです。そのお陰で私たちは、真の幸福とは、所有すること、裁くこと、常に正しいこと、自分の見方から正義を押し付けることにあるのではないことが、本から学ぶ以上によりよく理解することができます。この世の幸せの道は、神に手を取られ握りしめられること、神の判断の寛大な正義に自分を委ねること、そして、神から慈しみを日々実践することを学ぶことにあります15。 そうすると、受けるよりも与える方がもっと幸せであることが理解できます16。 情け深く慈しみに満ちた心は、幸福と平和に満ちた心です。このようにして、私たちも自らが必要とする多くの慈しみを受けるでしょう。そしてそれは、人々と神のために何か役立つことをする機会を与えてくれる人たちのお陰です。聖アウグスチヌスは、慈しみは、輝き、霊魂の栄光であると教えています。それは、霊魂を豊かにし、その状態を良いもの、美しいものにします17

この祈りの時間を終える今、御母マリアに向かいましょう。聖母は、神の慈しみの神秘を一番よく熟知している婦人だからです。聖母は、その価値を知り、それがどれほど深いものかご存じです。この意味で私たちはマリアを慈しみの御母とも呼びます18

一人ひとりに対する溢れるような母の愛の証明はすでにあるかも知れませんが、聖母にこう言うことができます。Monstra te esse matrem! (モンストラ テ エッセ マトレム)御母であることを示してください!19私たちがあなたの良い子どもであり、すべての人々の良い兄弟であることが示せますよう助けてください。

First Reading of the Mass, Year, 1,2Cor1:1-7

詩編,100

マタイ11:28

ヤコブ5:11

ヘブライ2:17

テトス2:11;Pet1:3

聖ヨハネ・パウロII世,Dives in misericordia,30 November 1980,2

マタイ9:27;14:20;15:22;20:30;マルコ10:47;ルカ17:13

St.Maximus of Turin, Letter,11

10 マタイ5:7

11 マタイ7:2

12 St Caesar of Arles, Sermon, 25

13 聖トマス,Summa Theologiae,I,21,3,2

14 聖ヨハネ・パウロII世,op cit,14

15 S.Pinckaers, In search of happiness, Madrid, 1981

16 使徒言行録20:35 参照

17 聖アウグスチヌス,in Catena Aurea, vol.1,p.48 参照

18 聖ヨハネ・パウロII世,op cit,9

19 Ave maris stella:Monstr te esse Matrem.