年間第8週日曜日・B年 62 人間に対する神の愛

― 神は、何の値打ちもない私たちを、無限の愛で愛してくださる。 ― 私たちへの神の愛に対する無関心な態度はあるまじきことである ― 神は私たち一人ひとりを個別的な愛で愛し、多くの善で満たしてくださる。愛には愛で応える事。

年間第8週日曜日・B年

62 人間に対する神の愛

― 神は、何の値打ちもない私たちを、無限の愛で愛してくださる。

― 私たちへの神の愛に対する無関心な態度はあるまじきことである

― 神は私たち一人ひとりを個別的な愛で愛し、多くの善で満たしてくださる。愛には愛で応える事。

62.1 神は限りない愛で、その愛に全く値しない私たちを愛されます

聖書は数多くの方法で、神がすべての人間に持っておられる、親密な愛について教えています。今日のミサの第1朗読で、預言者ホセアは、私たち子どもたちへの神の愛の限りない寛大さを表すのに、美しいイメ一ジを使っています。そして、ご自分の愛に子どもたちが一致するように求めておられます。主はこのように言われます。「見よ、私は彼女をそそのかし、荒れ野に連れて行き、やさしく話すだろう。そこで彼女は若い頃エジプトの地から出てきた時のように答えるだろう。そして私は永遠に彼女と婚約するだろう。私は実直に公正に、しっかりした愛で恵みのうちに婚約するだろう」。選ばれた民の絶えることのない背教は、私たちの背きと堕落のイメージなのです。しかも、神は憐れみと愛でその人たちを取り戻し続けました。同様に実に毎日 - 今、この祈りの時も - 神は私とあなたを捜しに来られるのです。

神は、母親が胎内の子どもを忘れるとしても、ご自分は決して私たちを忘れないことを、他の箇所で保証しています。なぜなら、神はこう言われるからです。「わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」。また、「あなたたちに触れる者はわたしの目の瞳に触れる者だ」。私たちの信じる神は、人間の運命、つまり努力や戦いや苦しみなどに関心をもたない遠く離れた御者ではありません。神は御父であって、私たちとは全く異なる愛でご自分の子どもたちに深い愛を示されます。 私たちの愛は、汚れから清められた時でさえ、物事の実際や外見の良さに常に惹かれます。けれども、神の愛は、完全に無私の愛で善を創造し、それを被造物である私たちに注ぎ込まれる愛です。 神は本当に私たちを愛しておられるのです。

神の愛は無償です。被造物に、神が絶対的に所有されていないものを与えられるということはありえません。神の愛が私たちに与えられるのは、限りない善とその愛を私たちと分かち合いたいと神が望まれたからです。神は単に私たちを創造されただけではありません。被造物の能力をはるかに超えて、神ご自身の生命と幸福を分け与えながら、私たちを超自然的な段階まで上げるのが神の愛です。私たちには全くその愛を受ける価値がないにもかかわらずです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。そして、人間に対する神の愛を心底から深く私たちにお表しになったのがキリストだったのです。

聖霊はその愛を思い出させてくださり、私たちの心を動かされ完全に神に信頼し委託するよう導いてくださいます。「あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らう」。また、他の所では、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる」。聖ペトロは熱心に説いています。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたのことを心にかけてくださるからです」。これは主から聞いたシエナの聖カタリナの勧告です。「娘よ、自分を忘れ、わたしのことを心にかけなさい。わたしがいつもあなたのことを心にかけるように」。このように、私たちへの神の愛に信頼を置いていますか? 「わたしの主イエスよ、あなたの恩恵を感じとって協力し、心が空(から)になりますように。私の友・私の兄弟・私の王・私の神・私の愛であるあなたが心を満たしてくださるためです」10

62.2 神の愛に無関心な大きな悪

人々に向けられる神の優しさは、私たちの想像を絶するほど素晴らしいものです。神は私たちをご自分の子どもにし、正真正銘の真の親子にしてくださいました。使徒聖ヨハネが教えるように、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実、また、そのとおり私たちは神の子です」11。これは人間に対する神の愛の証拠です。神は父としての優しさと無私の愛を示され、神はご自身を、子どもを決して忘れることのできない母親にたとえておられます12。 それほど深く愛される子どもとは、一人ひとりの男性であり女性のことです。罪によって神を見失った時、神は私たちを助けるためにひとり子を送られました。犠牲になった御子の命がわたしたちを堕落した状態、罪、死、地獄から贖ってくださったのです。「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました」13。この同じ愛で御ひとり子は、ご自分を完全に私たちに与えられるのです。このように、いつものやり方で、神は恩恵の内にある霊魂に住まわれ14、私たちに話しかけられます15

これほどの愛への応えとして、人々が冷たく無関心に振舞うのを見、また、人類がすべての物質の基準にしている世界をどれほどせわしくでっち上げているかを見るのは何と悲しいことでしょう。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」16 という一節を歪めて解釈し、愛されうるのは人間だけであると言う人がいます。神は見知らぬ方、近づくことのできない方というわけです。これは、被造物が創造主にとって代わろうとして、人間の尊厳を擁護するふりをした、新しい冒涜的なヒュ一マニズムです。このような偽りのヒュ一マニズムは、神や人を本当に愛するまさにその可能性を破壊します。この有限の被造物を与えることによって、その他のすべてについては自分の役に立つものだけに二次的な関心を示すことになります。ご自身において、ご自身故に、愛すべき神を除外しても、誰に対しても何に対してもより深い愛をもつことはできません。そして、ある不幸な結果を見て分かるように、それはただ、地獄に相応しい状態と雰囲気、憎悪にだけにしか導かないのです。神不在ならば、被造物への愛は消えるか致命的に堕落するかです。

答唱詩編17は、常に情け深く憐れみ深い神の愛に対する人間の真の応えです。

わたしの魂よ、主をたたえよ。

わたしの内にあるものはこぞって聖なるみ名をたたえよ。

わたしの魂よ、主をたたえよ。

主の御計らいは何ひとつ忘れてはならない。

私たちがこの深い愛に一致しなかったり、不忠実であったりするならば、神は当然こう不平を言われます。「わたしを嘲る者が敵であれば、それに耐えもしよう。(…)だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲」18

十字架の聖ヨハネはこう記しています。「あなたはあなたの愛の火で私たちに火を点けて燃え立たせ、焼き尽くしてあなたに変えるまで、燃え上がらせたいとお望みになり、あなたの存命中の恩恵と私たちのために経験なさった死によって、その火に強く息を吹きかけて強く大きくなさいます」19。祈りの親しさの内に自分に問いかけてみましょう。神に対する私の愛はこのように燃えていますか? 召し出しに一致し、神が私に頼まれることに寛大に一致することで愛を示していますか? 私の全生涯は、神と自分を結びつける愛の献身の応えになっていますか? 「子よ、神はあなたに次のように問いかける権利があることを確信しなさい。『私のことを考えているだろうか』。『私の現存を保っているだろうか』。『私に支えを求めているだろうか』。『あなたの生活を照らす光であり盾である私、あなたのすべてである私を、探し求めているだろうか』」

62.3 神は私たちをご自分の個人的な愛で愛します。神は私たちに祝福を注ぎます。愛は愛によって応える

自然のレベルでは自力でお愛しすることができますが、神はその限りない知恵で、私たちが神の愛と真理に与ることできるようにしてくださいました。神はご自分の愛そのものを与えてくださるだけで、私たちが神との親しい一致に達することができることをご存じでした。御ひとり子の受肉(託身)をとおして神は、人間的なことと神的なことをひとつにし、破壊された秩序を修復して、私たちを神の子の尊厳にまで引き上げ、その愛の充満を表されました。最後に、「私たちは神の子です」から、「私たちの心に御子の霊」21、最高の賜物、慰め主を心にお送りになったのです。

神は私たちをご自分の個人的な愛で愛します。神は私たち一人ひとりをオンリーワンの人として愛されます。神は私たちを祝福で満たします。度々、神は私たちの心に話しかけられ、おそらくはっきり話されます。「あなたはわたしのもの」22。神は、私たちが非常に恩知らずな応え方をする時でも、大罪を犯している時でさえも、私たちを愛され、助けられ見守られることを決して止められることはありません。ミサの第1朗読で読んだように、このような更正心もない時にはおそらくいつも以上に神からの慈愛を受けていることでしょう。

その愛にどのように応えるべきか、今、考えてみましょう。神が待っておられるところとは、わたしたちが果たすべき義務においてなのです。即ち、愛を込めて行う信心の業、同僚との友情の使徒職、聖性への召し出しが要求する最も小さなことにおける自己奉献など。糾明しましょう。同僚との友情の使徒職はどうなっているでしょうか? 聖性への召し出しが要求する最も小さなことにおいても、自分を寛大に与えていますか? 義務を外的に果たしたか否かを見るだけで満足するという浅い糾明をして、隙間に生温さが忍び込むに任せているのではありませんか。糾明してみましょう。

私たちに対する神の愛の大きさを頻繁に黙想することは、霊魂にとって素晴らしく、非常に役に立つことであることを思い出しましょう。聖テレジアは私たちに思い出させます。神がどのような愛でこのような恩恵を授けられたか、神が私たちに示された愛がどれほど大きなものであるか、思い出さなければなりません、愛は愛を生み出すからです。また、私たちは初心者にすぎず、うまくはいきませんが、このことをしっかりと心に留め、私たちの愛を呼び覚ますように一層努めていきましょう23。 この霊的現実を本当に確信しなければなりません。神の愛を黙想すれば、愛が私たちの内に呼び覚まされ、より大きな愛へと導かれます。聖ヨハネ・パウロII世は、良く知られたことわざ「愛は愛によって報われる」24でキリストの愛について述べ、私たちがそれに一致するように励ましています。神が私たちに持つ愛を黙想すれば、偉大な神秘家が大胆にこう書いたように、神にもっと愛を頼むようにもなるでしょう。

あなたのお姿をお現しください

あなたの美(うるわ)しさを目の当たり見て

息絶えたいのです

愛のゆえに病む者は

愛する人のもとに在るほかに

癒やされるすべのないことを

あなたは知っておいでですから。

ホセア2:14-15,19-20

イザヤ49:16

ゼカリア2:12

聖ホセマリア・エスクリバー,『知識の香』,84

聖トマス,神学大全,1,20,2

1ヨハネ4:10

詩編37:5

詩編55:23

1ペトロ5:7

10 聖ホセマリア・エスクリバー,『鍛』,913

11 1ヨハネ3:1

12 イザヤ49:15

13 1ヨハネ4:9

14 ヨハネ14:23参照

15 ヨハネ14:23 参照

16 1ヨハネ4:20

17 詩編102:1-4,8,10,12,13

18 詩編55:13-14

19 アビラの聖ヨハネ,Audi filia,69

20 聖ホセマリア・エスクリバー,『鍛』,506

21 ガラテヤ4:6

22 イザヤ43:1

23 聖テレジア, Life,22,14

24 聖ヨハネ・パウロII世,Address at Eucharistic Vigil, Madrid,31 October 1982