年間第8週日曜日・A年 61 日々の努力

― 今日、疲労困憊に陥ることなく充実した日にする。神との父子(おやこ)関係。神を信頼し全てを御手に委ねる。 ― 無用な心配。いつも忠実であるための助けに事欠くことはない。 ― 神に面を向けて働く。想像を制して今を生きる事。hic et nunc. 今ここで。

年間第8週日曜日・A年

61 日々の努力

― 今日、疲労困憊に陥ることなく充実した日にする。神との父子(おやこ)関係。神を信頼し全てを御手に委ねる。

― 無用な心配。いつも忠実であるための助けに事欠くことはない。

― 神に面を向けて働く。想像を制して今を生きる事。hic et nunc. 今ここで。

61.1 気遣うことなく今を十分生きること。神の養子。神への信頼と委託

主はミサの福音で私たちに忠告しています。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」

〈今〉、良い行いをしなさい。過ぎ去った〈昨日〉のことを思い出さず、来るか来ないか分からない〈明日〉を思い煩(わずら)わないで

昨日の苦労が私たちに残したものすべてには、感謝するためのもっともな理由、しかも多くの理由があります。つまり、神が私たちに溢れんばかりの恩恵と祝福を与えてくださったことに感謝するのです。仲間にも感謝する義務を負っています。たとえ小さくても、それが私たちの天の宝に付け加わることになるだろうと思うからです。過ぎ去る日から、罪、過失、怠慢の痛悔と、償いの動機を引き出します。昨日のことについて、今日のミサの入祭唱の言葉で言うとこうなります。「主はわたしの支えとなり、わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる」

「まだ訪れていない」明日が訪れるなら、それは私たちがこれまで夢見たことのないほど素晴らしいことでしょう。なぜなら、神である御父は、私たちを聖化するために明日を準備なさいましたから。わたしの運命はあなたのみ手にあります。 客観的に言って、私たちの気を重くさせ、明日を煩い、心配させる根拠なんて一つもありません。突然生じてくることと戦うために必要な恩恵を神は与えてくださるでしょう。そして、私たちは勝利を勝ち取るのです!

問題は今日です。今日は、私たちの生涯の生地を作り上げている多くの小さな出来事をとおして、愛し、聖性において成長するために必要な日です。あるものは当然喜ばしく、他のものは多分あまりありがたくないでしょう。しかし、その一つひとつは、人間的な完成と超自然的な意味を持ち、私たちが細工し、磨いている宝を神と永遠の生命のために輝かす目的で創られたはずです。

私たちは希望的観測でぐずぐず過ごすことはできません。時々、空想的な想像力は過去の出来事に改良を加え、努力なしに安心を与えてくれる未来を理想化することによって、私たちを虜(とりこ)にします。また、それは逆に、暗い視界、私たちを懸念させる見通しを示すかも知れません。「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」。それは多分もっと良い機会が起こるかも知れないと確かめようとして止まらずに、その瞬間の義務を果たし続けるようにという招きです。使徒職においても、もっと相応しい機会があるかもしれないとして計画を延期することは簡単です。もっと好都合な状況を待ったり、探したりしていたなら、使徒たちの宣教はどうなっていたでしょうか?キリスト信者がもっと有利な条件が満たされるまで待っていたとすれば、どうなっていたことでしょう。ここで、今こそ、心を込め、行いをもって、神を愛するべきなのです。

人間的なものと超自然的なものにおいて、聖性と効果の大部分は、毎日を一生のうちで唯一の日であるかのように生きることにあります。日々は神への愛で満たされなければならないのです。毎日は、溢れるほどの良い仕事で終えなければなりません。善を行うたった一度の好機も見逃すことはできません。今日は再び巡ってきません。さらにまた、神は私たちが日々を他の人々に向ける愛と小さな奉仕の行いで満たすよう期待されています。私たちの守護の天使は、私たちのこのような日々を神である父に捧げるとき、きっと大喜びしているでしょう。

61.2 無用な心配。いつも忠実でいるように十分な助けを与えられるでしょう

思い煩うな - 実りのない心配ならば私たちが恐れる不運を消し去らないのです。しかし、愚かにも、不運に出遭ってしまいます。私たちが、それを乗り越えることができるために、神が与えてくださるはずの恩恵をまだ受けないまま、自分の重荷を担ってしまいます。心配は困難を拡大し、今この瞬間の義務を果たすための能力を衰えさせてしまいます。何よりも、神が生涯の各状況で行われている神の摂理を信頼できなくします。今日のミサの第1朗読で、主は、預言者イザヤの言葉でこう言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」。今日私たちに起こることすべてにおいて、神である御父は愛をもって私たちのことを考えてくださっています。

また、イエスはすでに、とても頻繁に私たちのことを思い出してくださっています! イエスは言われます。「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」。今日の心配と明日の苦労を同時に持つことはできません。私たちには、今日を忠実に過ごし、今日というこの特別の日を平和と喜びをもって生きるための十分な助けが常にあります。明日は明日で新しい恩恵をもたらし、明日の重荷は今日のものほど重くはないでしょう。一日一日にはその日の労苦と十字架、その日の喜びがあります。私たちの一日一日を、私たちを愛してくださる神である御父が見守っていてくださいます。私たちは現在にだけ生きることができます。心配事は殆どいつも、今ここですべての努力を投入できないので生じるのです。なぜなら、神の摂理にすべて信頼していないのですから。「主よ、わたしはあなたの望まれることを望みます。あなたがそれをお望みになるのですから。あなたがお望みになる限りお望みになるように望みます」と心から繰り返せば心配は消えます。 そうすれば、喜びと平和が訪れます

時々、私たちには、私たちの生涯は神のみ手にあることを忘れ、未来をコントロ一ルしたいという誘惑があるかも知れません。物語がどのように終わるのか知ろうと、本のページをとばして読む、忍耐のない子どものようにならないようにしましょう。神は私たちに次から次へと日々をくださいます。私たちが日々を聖性で満たすためです。旧約聖書には、砂漠に住むユダヤ人について書かれています。神が日々の食物として彼らにお与えになったマンナを彼らは集めました。彼らの何人かは、神が毎日の食物として与えてくださったいくつかのマンナを、将来の補給のために蓄えたいと思って集めました。必要以上に集め蓄えたのです。ところが次の日、それらは腐り、食べられなかったのです。つまり彼らには父親の愛で見守ってくださっている、神である主への信頼に欠けていたのです。もちろん、将来のために、賢く準備すべきです。しかし、砂漠をさまよっている間に自分たちの努力だけに頼ったこのような人々のようになるべきではありません。

日々の仕事は希望に満ちた喜びをもって行うべきです。日々の事柄に頭と心とすべての活力(あるいは気力)を込めるのです。神へのこの信頼 - 聖なる放棄 - が、私たちが行動したり、時折々の場合に何をすべきか見通したりする私たちの責任を減らすことにはなりません。また、私たちが賢明であることに悩むべきではないということを意味するのでもありません。神への確信に欠ける、まだ起きていないことについての無意味な懸念とは純然たる対照をなしています10。 だからこそ「明日のことを思い煩うな」と主は私たちに繰り返しておられます。今日という日をうまく活用しましょう。

61.3 仕事の中に神を見る。現在を生きるために想像を抑える

神は私たちが何を必要としているかご存じです。まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、他のものはすべて同じように与えられるだろう11。 「一生涯、誠意をもって神に仕える固い決心をしましょう。明日があるという以上のことを知りたいと思わないようにしましょう。その明日については、過度に心配する必要はありません。私たちの心配は、むしろ、今日行うことのできる善のためであるようにしましょう。明日はすぐ今日になり、その時に注意を払いましょう。私たちは今日のためにマンナ(食べ物)は必要だが、それ以上に集める必要はありません。神が次の日も山ほどの別のマンナを送ってくださることを決して疑ってはなりません。次の日も、また、次の日も私たちの巡礼の日々が続く限り、マンナをくださいます」12。神は私たちを見捨てることはなさいません。

現在に生きる私たちは、現実のことと人々に注意を払います。これは、好みを抑え、折の悪い、無駄な、実りのない回想に時間を費やさないことを意味します。想像力は、聖化の場面であるように予定された唯一の世界から遠い他の世界に引っ張ることができます。本当に頻繁に、想像力は貴重な時間を浪費させ、善を行う多くの機会を見失わせます。想像の内的抑制に欠けることは、聖化の大きな敵の一つです。

現在を生きるなら、私たちの空想が大きくし歪めて示す想像上の将来の危険という非現実的な恐れをうまく拒絶することができます。時には、私たちが、想像し、でっち上げる憶測の十字架が、現実に現れることもあります。そのとき、私たちは、平和と喜びで満たすことのできる十字架、神の子どもたちに毎日担うように神が与えてくださる小さな十字架を喜んで受け入れる代わりに、無駄に苦しんでいます。

愛のために今を十分に生きるなら、忠実であることができるのに、明らかに曖昧になっている細かな点にも必ず気がつきます。今・ここで、私たちは、予め自分たちで立てた予定をきちんと果たすべきです。今・ここで、生温さに陥ることを嫌い、神と共に寛大になる必要があります。今・ここで、神は、行うのが非常に難しかったり、しないでおいても言い訳ができたりするような、あれこれの取るに足りない些細なことにおいて、私たちが自分に打ち勝つことを期待されています。特別糾明になる、このような戦いのポイントで私たちが進歩することをお望みです。

あたかもこの地上の生活における最後にできる捧げものであるかのように、愛に満ちた心で日々の〈今〉の瞬間を生きる恩恵を授けてくださいと、聖三位一体の神に願いましょう。

マタイ6:34

聖ホセマリア・エスクリバー,『道』,253参照

詩編,18:19-20

詩編,31:15

コヘレト 11:4

イザヤ,49:15

マタイ14:27

Roman Missal, Prayer of Clement XI after Mass

Roman Missal, Prayer before Mass

10 V. Lehodey, Holy Abandonment 参照

11 マタイ6:32-34 参照

12 聖フランシスコ・サレジオ、Letters, fragments 131,766