年間第5週日曜日・B年 35. 真理を広める

年間第5週日曜日・B年 35. 真理を広める ― あらゆる環境に主のみ教えを伝える責任を果たすことが急務である。 ― 使徒職と使徒獲得の源泉は、真理を有し、唯一の真の救霊に与っていることの確信。この確信を失うと信仰を広める意味も無くなる。 ― 伝えられた教義への忠実さ。

年間第5週日曜日・B年

35. 真理を広める

― あらゆる環境に主のみ教えを伝える責任を果たすことが急務である。

― 使徒職と使徒獲得の源泉は、真理を有し、唯一の真の救霊に与っていることの確信。この確信を失うと信仰を広める意味も無くなる。

― 伝えられた教義への忠実さ。

35.1 キリストの教義をあらゆる環境に緊急にもたらすこととその責任

イエスは朝早く起きて、祈るために人里離れた所に出て行かれました。弟子たちはイエスを見つけると「みんなが捜しています」と言った。するとイエスは言われた。「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」[1]

キリストの使命は福音を広め、使徒たち[2]とあらゆる時代のキリスト者をとおして良い知らせを地の果てまで伝えることです。これは教会の使命で、主の命令をこのように果たします。「世界中に出かけて行って、創られたすべてのものに福音を宣べ伝えよ」[3]。使徒言行録には初代福音宣教の多くが詳細にわたって書かれています。聖霊降臨の日に、聖ペトロはイエス・キリストの神性、贖いの死、栄光の復活についての説教をしています[4]。 聖パウロはイザヤの預言を引用して声高に叫びます。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか!」[5] ミサの第2朗読は、救いの真理を知らせる喜ばしい責任について教えてくれます。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」[6]

聖ペトロの言葉を使い、教会はキリストの教義をあらゆる所に広めるために、あらゆる機会を利用するように、神が彼らを召されたことを信者たちに思い出させています[7]

聖ヨハネ・クリゾストモは、この非常に喜ばしい義務を果たさない為のあらゆる言いわけを可能な限り予想しました。彼はこう記しています。「他の人の救いに関心のないキリスト者より冷淡な者はない。私は彼らを救うことができないと言ってはならない。あなたが本当にキリスト者なら、このように容認することはできません。自然の事物の特性を否定することはできません。同じことがいま言ったことにも当てはまります。キリスト者がこのように行うことは自然だからです。キリスト者が光と熱を与えないことより太陽が光と熱を与えないことの方が容易いです。光が暗くなるのはもっと簡単なことでしょうが、事が不可能だと言ってはいけません。その反対だからです。もし私たちが行いを正すなら、他のすべてのことは自然の結果としてついて来るでしょう。キリスト者の光は隠すことができません。非常に明るく光るので、隠しておくことができないのです」[8]

私たちが生活し仕事をしている環境の中で、本当に信仰の伝達者であるかどうか、友だちがもっと頻繁に秘跡を受けるように連れて行っているかどうか、糾明してみましょう。召命が要求することの一つとして、使徒職を行う緊急性の必要を感じているかどうか、初代キリスト者と同じ責任を感じているかどうか糾明してみましょう。なぜなら、今日でも使徒職の必要性は当時と同じように大きいからです。

「そうせずにはいられないからです。福音を告げ知らせないなら私は不幸なのです!」

35.2 真理。救いをもたらす真理を持っているという確信から生まれる使徒職と召し出しの獲得

私たちが実践し、人々を神への信仰、さらに優れた神への献身へと引きつける使徒職とメンバー(使徒)獲得は、私たちが信仰と愛を持っているという確信から生じます。私たちは救いをもたらす真理と、不安な心を和らげて必ず満足させてくれる唯一の愛を持っています。この確信が失われる時、信仰を広めることの重要性はわからなくなります。そうなれば、キリスト教的環境の中にいても、人々に影響を及ぼすことができるかどうか疑い始めるかも知れません。未信者の人たちが、神の意志に一致して生じる掟、正義の掟を支持することはないと失望するかも知れません。また、信仰が届いていない地域や信仰がまだしっかりと根づいていない他の土地にキリストの教えを伝えることの意味も見失ってしまうでしょう。とにかく、私たちが提供することのできる最も価値ある宝 - イエス・キリストへの信仰と恩恵による命 - を忘れては、使徒的使命はただその国の物質的発展に好都合な単に社会的な活動だけになります。私たちは信仰が弱くなってしまったキリスト信者になり、多分、真理はただ一つだということを忘れてしまうでしょう。真理が人々と民族をさらに人間らしくし、天国への道を開くことを思い出すこともないことでしょう。

私たちは信仰に導かれて社会的な仕事を企てるべきです。しかし、「世の中は単に社会の改革者だけでは満足しません。世の中は聖人を必要としています。聖性はわずかな人の特権ではなく、すべての人に授けられた贈物です。これを疑うなら、キリストの意向を十分に理解していないことになります」[9]。キリストのメッセ一ジの本質的な部分を無視することになるのです。

信仰は真理であり、理性に光を与え、過失から守ります。それは原罪の傷を癒し、最初の悲劇的破壊によって生じた道を踏み外す傾きを和らげます。信仰についてだけでなく、信仰に関係するものすべてに言及するもの - 世界の起源や生命、人間の疑いようのない尊厳、家族の重要性など - においてキリスト者の確信はこの信仰から生じるのです。信仰は人の道を照らす光です。信仰は、パウロ六世が教えてくださっていますが、自分の知識にではなく、神の言葉に基づく教義的な態度を確実に持つようにしてくれます。しかしこのように教義的な態度があっても傲慢に陥ることはありません。私たちは幸運であり、私たちだけが真理を持っていますが、それは私たちを強くし、真理を守るための勇気を与えてくれるのです。それは真理を広めることを愛するようにしてくれます。聖アウグスチヌスは次の事を思い出させてくれます。うぬぼれることなく、真理を誇る[10]

真の信仰を受けたということは素晴らしい贈物です。しかし、同時に大きな責任が生まれます。自分が受けた宝に気づいているキリスト者の使徒的熱意は狂信的な行為ではありません。それは真理に対する愛です。生きた信仰の表れです。言行一致の現れなのです。信者獲得という言葉の崇高で真実の意味は、何としても虚偽や暴力によって人を引きつけるという意味ではなく、すべての人に対する神の呼びかけに応じてキリストを人々に伝えようとする使徒の努力です。神が表される豊かさを霊魂が認め、その霊魂が救われるのを望むことです。もし神のみ旨ならば、彼らが神への完全な奉献という召命を受け入れるように望むことです。このメンバー獲得は神が私たちに託された最も高貴な仕事の一つです。

35.3 告げ知らせるべき教えへの忠実

信仰を広めようとする私たちの努力によって、すべての人を尊敬し、考慮しながらも、真理全体と本物のキリスト信者の生活が要求することが、一般的に広く流行している考え方や非常に多くの人々の怠慢な態度と衝突するかも知れないと恐れるがゆえに、中途半端な信仰を伝えることはできません。真理がかかわるところにはその場しのぎの手段はなく、犠牲を払うことを覚悟している愛は、不十分なことに甘んじたり、妥協したりすることを許しません。たとえ、場合によっては条件を果たすのが難しく、英雄的、少なくとも剛毅に満ちた行動さえとらなくてはならない事があるとしても、使徒職の条件は教義に忠実であることです。大家族を持つこと、社会的公正を要求されること、神が誰かをお呼びになるとき神に対して完全に奉献するということになれば、寛大さ等のテ一マを省くことはできません。ありきたりの知恵で満足するために、福音が伝えていることを希薄にして人々を喜ばすことを私たちは望みません。聖パウロはテサロニケの人々に「私たちは人を喜ばせないで神を喜ばせるように話す」[11]と手紙を書きました。福音の教えを簡単にさせようと主張したり、信じるべき神秘と私たちの生きる基準となる行いの規範について沈黙したりすること(または手加減すること)は、キリストの命令にきちんと従うやり方ではありません。キリストより優れた真実性、行動力、魅力で福音を説いた人は誰もいなかったし、今後もいないでしょう。また、当時でさえキリストに忠実に従わない人がいました。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」[12]。 にもかかわらず、キリストがすべての人に受け入れやすくされた福音をとおして教えられたように、キリストのところに連れて行きたいと思う人の理解力と状況に合わせる努力をしなければなりません。

キリストに忠実であれば、私たちが受けたものを忠実に効果的に告げ知らせるようになります。今日、ヨ一ロッパと全世界への宣教を始めた頃の初代キリスト信者の時代のように、私たちは友だちや知り合い、同僚に、神のあわれみの福音と日々の仕事の中でキリストのすぐ傍に従う喜びを告げなければなりません。その知らせは同時に私たちの生活を変える必要をもたらします。悔い改め、自分を放棄し、物質的なものから離脱し、純潔であり、謙遜に神のゆるしを求め、神が永遠から私たちそれぞれにお望みになっていることに一致する必要があるのです。

沢山の人々がキリストに従うようにという熱意があれば、私たちは皆に対してより良く愛徳を生き、人々を待っておられる神のもとにできるだけ早く彼らを連れて行くために、もっと多くの方法を見出すようにと駆り立てられるはずです。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを虜にしているからです」[13]。これこそが聖パウロの疲れを知らない使徒職活動を動かしている力でしたし、また私たちを動かすものです。神への愛によって私たちは使徒職に対する緊急感に駆られて、現れるどんな機会も無駄にしないようになります。そればかりか、色々な状況で私たち自身が機会を作らなければ、良い機会など決して訪れないでしょう。皆があなたを探し求めています。 - 世界は神を渇望し、神に対する渇きを覚えているのです。愛や希望を渇望しているのと同じように。私たちの友人、知人、いや最も私たちから遠い存在である人たちも神を望み、必要としているのです。大抵は、彼らはそんな素振りを見せませんが。そして、それ以上に大切なことは、神が彼らを探し求めているということです。

使徒たち、そして初代のキリスト者たちと同じ使徒職と、使徒の獲得に対する心遣いをくださいますように、聖母にお願いしましょう。

[1] マルコ 1・29-39

[2] マルコ 3・14

[3] マタイ 18・19-20参照

[4] ヘブライ 2・38参照

[5] ローマ 10・15、イザヤ 52・7

[6] 一コリント 9・16

[7] 第二バチカン公会議 信徒使徒職に関する教令 6番

[8] 聖ヨハネ・クリゾクトモ 使徒言行録による説教 20番

[9] 聖ヨハネ・パウロ二世 演説 1987年9月12日

[10] 聖パウロ六世 演説 1965年8月4日

[11] 一テサロニケ 2・3-4

[12] 一コリント 1・23-24

[13] 二コリント 2・5‐14