年間第9週日曜日・A年 70 岩の上に建てる

― 聖性とは、大きなことにおいて、又あまり関心の持てないようなことにおいて、神のみ旨を実行することである。 ― 神がお望みのことを望む。神に全てを委ねる。 ― 日常の小さなことにおいて、又、重要な事柄において、神のお望みを愛し果たす。

年間第9週日曜日・A年

70 岩の上に建てる

― 聖性とは、大きなことにおいて、又あまり関心の持てないようなことにおいて、神のみ旨を実行することである。

― 神がお望みのことを望む。神に全てを委ねる。

― 日常の小さなことにおいて、又、重要な事柄において、神のお望みを愛し果たす。

70.1 聖性とは神のみ心を行うこと。重要なこと、些細に見えること、いずれにおいても

生涯にわたり、すべてにおいて、神のみ旨を果たす努力をする人、神との語り合いの言葉と望みを行いに表す人々に、主は特別な愛をお示しになります。このときの会話こそ真の祈りです。イエスは今日のミサの福音で宣言しています。わたしに向かって、「主よ、主よ、と言う者がみな天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。 その時主は、大勢の人々に話しておられました。人々は祈りの言葉や決まり文句を繰り返すだけで、その祈りは自分たちの偽善的で悪意のある行いに何らの影響も与えていなかったからです。私たちの神との会話は、そうであってはなりません。「あなたの祈りは神の子の祈りでなければならない。偽善者の祈りをすれば、『わたしに向かって〈主よ、主よ〉と言う者が皆、天の国に入るわけではない』というイエスの言葉を聞かなければならないだろう。あなたの祈り、つまり〈主よ、主よ〉という叫びは、毎日いろいろな形で、神のみ旨を果たすための実際的な望みと努力に結びついていなければならない」

たとえ私たちが不思議な出来事と奇跡、たとえば主の名による預言、悪魔払いなどを行うことができても、- このようなことを主の助けなしに行うことができても - 主の愛すべきみ旨を果たすよう努力しないなら、十分ではないに違いありません。最大の犠牲は役に立たず、自分のレ一スを走ることが無駄になることでしょう。それに対し、行うすべてのことに神のみ旨を求める人を、神がどんなに愛し祝福するかが聖書から読み取れます。「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う」。また、聖ヨハネは記しています。「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神のみ旨を行う人は永遠に生き続けます」。イエスは、わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行い、その業を成し遂げることである、とおっしゃいました。 これが、義務を聖化するという意味です。主のみ旨を行うこと、主が私たちにそうであって欲しいと望まれる者になることです。神が私たちに望まれるものに完全に一致して、もっともっと、自己本位な態度や利己主義から抜け出さなくてはなりません。

天国やこの地上での幸福に導く道は、神の意志に従うことであり、ただ神の名を繰り返すことではありません。祈りは行いによって、私たちに多くの様々な方法で表された神のみ旨を行う強い望みによってバックアップされなければなりません。聖テレジアは述べています。「神があるやり方で神の仕事に取り組むようにはっきり命じているのに、私たちが行おうとせず、そのかわりにそれよりもっと大きな喜びがあるからと言って神を見つめたままで突っ立っているだけであれば、恐ろしいことでしょう」。 神がある道で私たちを導こうと望んでおられるのに、私たちが頑固に自分のやることに固執するならば、何と残念なことでしょう! 神のみ旨を果たすこと。ここに私たちの生涯の計画があります。

「イエスが愛された」若い使徒ヨハネのことを時々考えて、聖なる妬みに駆られたことがあるだろう。あなたも、「神の聖(み)旨(むね)を愛する人」と呼ばれたら嬉しいのではないだろうか。そうなれるよう、毎日手段を講じなさい。 このような歩みは、普通は、毎日巡ってくる小さな義務を果たし、1日のうちに度々自らに、「私は、この瞬間に、なすべき事をしているだろうか」と問うことにあります10。 それは、日常生活の困難を受け入れ、霊的指導で受けた忠告に従うために粘り強く戦い、度々、必要な意向に修正することです。このように、意向の修正を繰り返すことは確かに必要です。私たちには、自分の意志に従い、もっと自分のしたいこと、もっと楽しく、あまり困難でないものの方を選ぶ傾向があるからです。

主よ、あなたが望まれることだけを、望まれる方法で行いたいのです。愚かな気まぐれに従って自分の意志を行わず、あなたのみ旨を行いたいのです。主よ、私の一生が、すべてにおいて、あなたのみ旨を果たすことにありますように。そうすればあなたがおっしゃったように、私も大きなことにおいても小さなことにおいてもこう言うことができるでしょう。御父なる神のみ旨を行うことが私の食べ物であり、それこそが私の人生に意味を与えるものである、と。

70.2 私たちは神が望まれることを望みます。神のご保護に自分をまかせます

神にすべての栄光を帰すという強い意志は、困難や災難の中で、特別な力を与えてくれます。病気や中傷、経済的な問題に直面するときなどに、です。

ミサの同じ福音で、キリストは、同時に建てられた2つの家のことをお話しになっています。見たところは同じであるが、大きな違いは、大雨が生じて、洪水と強風の試みの時が訪れた時に明らかになりました。1つは、頑丈な基礎があったので、しっかり建っていました。もう1つは、砂の上に建てられたので倒れました。その壊れ方は完全に破滅的でした。主は、最初の家を建てた人を堅固な賢い人、2番目の家を建てた人を愚かな人と呼びました。

最初の家は、建築上の満足なデザインのせいではなく、屋根が丈夫に組み立てられていたからでもなく、基礎を床岩の上に置いたお陰で、冷たい突風と増してくる洪水に十分に耐えたのでした。その家は持ちこたえました。その所有者に安全な避難所を与え、良い建築の手本にもなりました。これこそ日々の小さなことやもっと重要な事柄でも、また実際に困難に遭うときにも、神のみ旨を果たしたいという望みの上に人生という建物を建てる人です。病気で体が衰弱した方々がその痛みを喜んで愛を持って耐え、神の摂理の手をその中に見てとても強められているのに気がつきます。なぜなら神秘的でとても異なったやり方ではあるけれども、神を愛する人々を神はいつも祝福しておられるからです。ですから、名誉毀損や中傷を忍ばなければならない人たちや、経済的破綻に直面し、家族に降り掛かって来る避け得ない財産問題にぶつかる者、愛する人を若い頃に亡くして苦しむ者、宗教的偏狭さによる職業上の差別を経験する者も同様です。行いをもってキリストに従うキリスト者の生活である家は倒れません。なぜなら、神である御父のみ旨への完全な委託の上に建てられているからです。この委託があるからといって裁判が起きた時に自分を守ることが妨げられるわけではありません。また、働く者としての権利や正当な苦情を補償する手段を得ることも要求します。しかし、すべては、精神的な苦悶や悲痛や怨恨なしに穏やかに行われます。

今日、祈りの中で、私たちは、主に、主のみ手の中に、すべてを委ねたいと言いましょう。そうすることほど安全なことはないでしょう。良いことも悪いことも、自分自身のためには何も望んではなりません。神が望まれることだけを望みなさい。イエスとともにいる時、辛いことが楽しいことに、荒々しいことが静穏になるのがわかるでしょう。

「イエスよ、信頼しきってみ腕に私自身をゆだね、愛すべき御胸に頭を埋め、心を聖心に寄せます。私は、何事においても御身がお望みになる通りを望みます」11

70.3 生活のすべての面で、小さなことと同様、大きなことで神のみ旨を行い愛すること

困難な時期にしっかりと踏み留まりたいなら、仕事や家庭生活 - 日々の生活のあらゆる面で比較的何の問題もない時期にさえ起こる些細な困難を快く受け入れる必要があります。身分上の義務、勉強、家族の世話の義務、その他その身分が要する義務が何であるとしても、それを誠実に、自分の事を考えないで果たす必要があります。そのようにして基礎がもっと深くなっていくと、建物全体は強められます。殆ど気づかれない小さなことに忠実であることは、大きなことに忠実で12、最も重大な時に面しても私たちを強めてくれます。

小さなことで神のみ旨を果たすために忠実であれば、生じてくるすべてのことにおける働きに、主の摂理を見る習慣を獲得するでしょう。小さなことは、毎日の義務や、日常生活に突然もち上がる避けることのできない困難を受容するために霊的指導で受ける忠告です。私たちは、健康や病気、無味乾燥や慰めの時、平和な時や誘惑の時、骨折りの時にも休息の時にも、神のみ手を見るでしょう。また、これは、私たちを平安で満たします。人間的尊敬を受けることを容易に望まなくなるでしょう。私たちにとって重要なことは、神が私たちに望まれることは何であっても果たすことです。ですから、確信をもって勇敢に、大胆に、神について率直に話すことを恐れずに、常に神に対して責任をもって行動するという自由を享受するのです13

神への愛のために、小さなこと - その小ささ自体を見るのではなく(普通の人ならそう見るでしょうが)、神の意志の偉大さをその中に見て、どれほど小さなことの中にでも、大きなことに対してと同様の忠実さに大いに敬意を払うべきです14

広い、しっかりした、揺らぐことのない土台は、他のもろい、あまり頑丈ではない、建物の土台になることが可能です。それは単にその建物の土台になるだけではないのです。私たちの内的生活が祈りと行いに基づいているとき、それは、多くの人にとって、力が衰え始める時に必要な力を見出す避難の拠り所になります。なぜなら、彼らが受ける困難と試みは大きく、耐えることが難しいかも知れないからです。

イエスを決して片時も見失わないようにしましょう。「苦しみの最中にも、勝利の時にも、繰り返しなさい。『主よ、私の手を放さないでください。放っておかないでください。未熟な子どもを助けるように私をお助けください。いつも、手を取ってお導きください』」15。主と共に、主が指示したことを果たすことが、私たちにとって最良なのです。そうして私たちは目的地、主と顔と顔を見合わせてお会いする所に辿り着くでしょう。イエスとともに、私たちの御母でもある、主の御母マリアを見出すでしょう。今、祈りの終わりに、イエスとの会話が、決して無駄なお喋りにならないよう、聖母に向かいます。聖母が生涯の目的へのひたむきさを私たちに授けてくださいますように。すべての行いで至聖なる御子のみ旨を果たすために、主よ、私を放さないでください! 私を置いて行かないでください! 不器用な子どもをお助けになるように、私を助けてください! 常にみ手で導いてください!

マタイ7:21-27

聖ホセマリア・エスクリバー,『鍛』,358

使徒言行録13:22 参照

1ヨハネ2:17

ヨハネ4:34 参照

リジュ一の聖テレジア,Autobiography of a Soul 参照

ポワティエの聖ヒラリウス, Catena aurea, vol I, p.449

聖テレジア,Foundations, 5:5

聖ホセマリア・エスクリバー,op cit

10聖ホセマリア・エスクリバー,『道』,772 参照

11 聖ホセマリア・エスクリバー,『鍛』,529

12 ルカ16:20 参照

13 V.Lehodey, Holy Abandonment 参照

14 J.Tissot, The Interior Life

15 聖ホセマリア・エスクリバー,『鍛』,654