年間第9週・木曜日 76 第一の掟

― 唯一の神を礼拝する。現代の偶像。― 神を愛する理由。第一の掟に対する怠りと罪。― 第一の掟は私たちの生活の全ての面に及ぶ。神への愛の表明。

年間第9週・木曜日

76 第一の掟

― 唯一の神を礼拝する。現代の偶像。

― 神を愛する理由。第一の掟に対する怠りと罪。

― 第一の掟は私たちの生活の全ての面に及ぶ。神への愛の表明。

76.1 唯一の神を礼拝しなければならない。近代の偶像崇拝

今日のミサの福音で、善意ある律法学者が、もっとも本質的な掟、もっとも重要な掟はどれかと尋ねます。 イエスは、旧約聖書ですでに明確に述べられていることを確認しました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』この二つにまさる掟はほかにない」。律法学者は、この教えに同感し、すぐに、聞いたとおりの言葉を繰り返します。主は、彼が決定的な改心に向かうのに役立つ適切な答えをしたのを見て言われました。「あなたは、神の国から遠くない」。

すべての預言と律法をまとめたこの掟は、唯一の神の存在で始まります。それは、このように使徒信条で伝えられています。「唯一の神を信じます」。これは、理性の自然の照らしによって知られる真理で、選ばれた人々は、すべての異教徒の神々は間違っていることを良く知っていました。それにもかかわらず、偶像は人々にとっていつも誘惑であり、エジプトの地から連れ出した真の神に度々背く原因でした。預言者は、異教の神々が偽りであることを人々に思い出させなければならないと強く感じていました。イスラエルの民は、自分たちより非常に優れた権力と文化に魅了され幻惑されて、異教の神々を知ったのでした。それは、物質的にはずっと進んでいるが、迷信、無知、過失の暗闇に陥っている富める民族でした。選ばれた人々は、信仰の宝の比較できないほど素晴らしい豊かさを認めることができなかったのです。彼らは、唯一の生ける水の泉を見捨て、そのかわりに、水も含まず、何も蓄えることのできない、壊れてひびのはいった水がめに向かいました

古代の異教徒たちは、その当時、高い教養を持っていた人々でしたが、自分たちのために偶像を生み出し、それを崇拝する様々な方法を見出したのでした。現代における教養のある多くの人々 - 新しい異教徒 - はもっと洗練された偶像を育て上げています。現代では、進歩という名の見かけだけの、さらにもっと物質的な幸福、楽しみ、満足を提供するものを実際に拝み、偶像崇拝に陥っています。 人間が、永遠の生命に定められている霊的な存在であるという事実を完全に忘れているように思えます。フィリピ人への手紙の聖パウロの次の言葉はすべて非常に今日的な話題です。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」。これが現代の偶像崇拝です。大勢のキリスト信者が、信仰の限りない宝や神の愛という素晴らしい豊かさを忘れ去り、誘惑されているのです。

たとえそれが良いものであっても、神よりも優先するなら、十戒の第1戒を破ることになります。なぜなら、私たちは、無秩序にそちらを愛してしまうからです。他のものを優先するなら、人は、被造物の正しい秩序を歪め、創造された目的と対立した異なった目的のために被造物を使用することになります。十戒で教えられた神の秩序を破れば、もはや被造物の中に神を見出すことはありません。自分の神を作り上げ、自分の利己主義と高慢の中に徹底的に自らを隠してしまいます。さらに、愚かにも人間は、善であるものと悪であるものとの源に自分を据え、自分を神の座に置こうと躍起になります。このようにして、悪魔が人祖をそそのかした誘惑に人は陥るのです。もし神の掟に従わないなら、あなたは神のようになるだろう。 まさにこの現実的な誘惑のために、一人ひとりの男女は、度々、こう自分に問う必要があります。今、祈りのうちにしているように、生活の中で私たちの行いや決心の仕方を導いてくださる、最も重要で最高の善であられる神を本当に第一に大切にしているかどうか、どれほど多くの努力をして神を知るようになろうとしているか、さらにもっとよく糾明することができるでしょう。というのは、知らないものを愛することはできないからです。教理・宗教面の形成のために時間を大切にしているでしょうか。所有したり、使用したりしているものが決して最も大切なものにならないように、ほんとうに離脱していますか? あなたは神である主を愛さなければなりません。神だけを礼拝しなければなりません。神が私たち一人ひとりにお望みになる道 - それぞれの個人的召命 - に従う努力は、私たちが持つ愛と礼拝に生きるための具体的な道なのです。

76.2 神を愛する理由。第一の掟に反するいくつかの過失と罪

私たちが神を愛するようになる多くの様々な説得力のある理由があります。神は無から私たちを創り、神ご自身が私たちを統治し、私たちの生命とその維持に必要なことを促し治められています。存在するという単なるこの事実に加えて、私たちを恩恵の状態に上げ、ひとり子の受難と死によって罪から贖い、また、神の子であり聖霊の神殿としての尊厳など、数え切れないほどのものをお恵みになりました。「神が与えてくださったすべてのものに感謝しないなら、恩知らずとしか言えません」、聖トマスはこう指摘しています。エジプトを後にしてから、偶像を造ったイスラエルの子らのように、私たちはもうひとりの神を作ることになるでしょう。

真の愛 - 人間の愛とさらに大いなる神への愛 - は、常に人間を高貴にし、豊かにします。それは人をより創造主に似たものにさせるのです。

一人ひとりの歴史をみると、人間の尊厳と幸福は、人間的な幸せであっても、神を愛する道においてしか、手に入れることはできません。そして、人生の最終目的が神以外にあるとなれば、自らの情欲の支配下に入る危険に晒されることになります。「地獄への道はすでに地獄である」と言われてきました。隣国の民の偶像に惑わされるままとなった人々への預言者エレミヤの言葉が成就しました。「お前たちは、そこで昼も夜も他の神々に仕えるがよい。もはやわたしは、お前たちに恩恵をほどこさない」

神を愛するのを止めれば、次から次に譲歩し始めます。なぜなら、神に背く者は誰でも一つの罪に留まらず、それどころか、他の罪を承諾するように駆り立てられるからです。罪を犯す人は誰でも罪の奴隷である。(ヨハネ8・34) こういうわけで、聖グレゴリオが言うように、罪から立ち直ることは本当に簡単ではありません。悔悛(ゆるしの秘跡)によって根こそぎにしなかった罪は、その重みによって他の罪を引き起こします。 神の愛があれば、罪を憎むようになり、恩恵の助けと内的な戦いによって、 神に背く機会から遠ざかり、過去の過失と罪を償うようになります。

私たちは、愛の行いと神への礼拝を頻繁に積極的にしなければなりません。聖櫃の前にうやうやしくひざまずかなければなりません。それは礼拝のしるしです。ミサ聖祭の間、聖体に対する祈りの言葉アドロ・テ・デヴォテや栄光の賛歌グローリアの言葉を繰り返しても良いでしょう。「われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」。

当然主に払うべき礼拝もせず、祈りもしない時や、悪しく祈る時があれば、それは神の愛に欠けているからです。信仰に反する疑いを持ち、無知の結果と言える迷信や教義を支持して、見たところ科学的に表現されていても、信仰や道徳に反する書物や新聞、雑誌を楽しむなら、神への愛がない証拠です。自分自身と子どもたち、また私たちの保護のもとにある人々を、信仰や倫理に有害な影響のもとにさらすなら、つまり神に、神の力に、その善に信頼を置くことができない時はいつでも、霊魂が純粋な愛で神を愛しているかそうでないかを、はっきり知ることができるしるしとなります。人間が神を愛するなら、その心は自分中心の生き方をせず、自分の好みや慰めを求めることもないでしょう。成し遂げることには関心を持たないでしょう。神の誉れと栄光を求め、神を喜ばせることに自分の心を捧げるでしょう。心を自分のためにとっておけばおくほど、神のためには少なくなります10。 私たちは、神と人々、そして神のために、神とともに行う業に、自分の心を置きたいと望んでいます。

76.3 神への愛の表れ

神への愛は、神が当然受けるべき崇拝、特にミサ聖祭の中で礼拝することによって表明されるだけでなく、人間の生活のあらゆる面で表れるべきですから、多くの表明の仕方があります。私たちは、仕事を良く行うことによって、家庭、仕事、社会に対する義務を忠実に果たすことを通して神を愛します。精神と心で、神の子どもに相応しい外的な振舞いを持って。この掟は、まず神に栄光を与えるという礼拝を要求します。それは、単に、他の多くの活動の中の一つの活動と言うより、むしろ、私たちの最も平凡に見える行いでさえ含む、すべて行いの究極的な目的でもあります。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」11。礼拝のこの基本的な態度は、実際に、神を喜ばせるためにすべてを行わなければならないこと、少なくとも、すべてを行いたいと望むことを要求します。即ち、私たちは、正しい意向で行わなければなりません。

神への愛と隣人への真の愛は、一日中、神の現存を保つ努力の中で、祈りと秘跡によって、欠点に打ち勝つための絶えず続く戦いによって育まれます。ご聖体は、特別な方法で、私たちの神への愛が常に養われる拠り所でなければなりません。そうすれば、私たちは、聖体に対する祈りアドロ・テ・デヴォテの言葉を言うことができるでしょう。

隠れた神よ、私はあなたを心から崇拝します。

これらの外見の下に本当に隠れているのは誰ですか。

私の心はあなたに服従します。

心が一日中夢中になるものは何ですか? 一日中頻繁に神のことを思い出して神を愛し、礼拝するために、人間的工夫をしているかどうかこの祈りの中で糾明してみましょう。

マルコ12:28-34

エレミヤ 2・13 参照

第2バチカン公会議,Apostolicam actuositatem,7

フィリピ3:19

創世記3:5

Catechism of the Council of Trent,III,2,no6

聖トマス On the double precept of charity,1 参照

エレミヤ16:13

聖トマス,loc cit

10 十字架の聖ヨハネ,Spiriyual canticle,9,5

11 1コリント10:31