年間第9週・月曜日 73 隅の親石

― イエス・キリストは、生活の基をおくべき隅の親石である。私たちの存在は、キリストの弟子であることにより、全面的にその影響のもとにある。― 信仰は、私たちに光を与え、事物や出来事の真の姿を分からせてくれる。― キリスト者には、世の中の事柄に対する独自の価値基準がある。

年間第9週・月曜日

73 隅の親石

― イエス・キリストは、生活の基をおくべき隅の親石である。私たちの存在は、キリストの弟子であることにより、全面的にその影響のもとにある。

― 信仰は、私たちに光を与え、事物や出来事の真の姿を分からせてくれる。

― キリスト者には、世の中の事柄に対する独自の価値基準がある。

73.1 イエス・キリストは私たちの生命を築き上げるための隅の親石である。キリストの弟子であることは、私たちの全存在に影響を与える

殺人の罪を犯すぶどう園丁のたとえ話の中で、イエスは、救いの歴史のすべてを要約しています。イエスは、イスラエルを、神が垣をめぐらし、ぶどうしぼり機を備えた選りすぐりのぶどう畑にたとえています。泥棒や野生の動物たちからぶどう畑を守るために、見張りを置く見張りやぐらを建てます。すでに預言されているように、神はご自分の心のぶどう畑 ―ご自分の人々―の 世話をするために、可能な限りの手段で備えないはずはありません。 たとえ話のぶどう園丁は、イスラエルの民の指導者です。所有者は神で、ぶどう畑は神の民イスラエルです。

所有者は、ぶどう畑から当然受けるべきものを受けるために、召使いを何度も送ったが、いつもひどい扱いを受けます。これは、預言者の使命です。ついに、彼らが敬うと思って、最愛の息子を送りました。このたとえ話は、キリストの崇高無比の子の身分(子性)に深くかかわっており、イエス・キリストの神性を明確に表しています。ぶどう園丁は、彼を捕まえ、殺し、ぶどう畑から放り出してしまいました。これは明らかにエルサレムの城壁の外で起きた磔刑を示しています。 たとえ話の中でご自分のことを間接的に述べられている主は、大きな悲しみのうちに話されたに違いありません。主が救いをもたらすためにやって来られたまさにその人々から拒まれたからです。彼らはイエスを望まない。イエスは、詩編の次の言葉で終えています。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」

イスラエルの指導者は、たとえ話の明確な救世主的意味を理解し、それが、彼らに向けられたものだと気づきました。それで、イエスを逮捕しようとしましたが、再び人々を恐れたのです。

聖ペトロは、サンヘドリンの前に来た時、イエスの言葉を思い出すのですが、その預言はすでにたとえ話の中で成就されていました。「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」。イエス・キリストはご自分を、建物全体を支え、土台となるかなめ石にされました。この石は、教会とすべての人間一人ひとりにとってなくてはならないものです。それなしでは建物は崩壊してしまうでしょう。

〈隅の親石〉は、商売、関心事、愛、時間など、建物全体、私たちの生活全体に影響を及ぼします。キリスト者の生活で、信仰の要求が及ばない部分はありません。前もって予定された数時間(例えば、祈る時、または、宗教的な奉仕に参加する時)だけ、または、特別の日だけ、キリストの弟子ではありません。キリスト者であることが要求する生活の深い一致により、私たちの生活すべてはキリストに従うのです。だからと言って、物事がそれぞれ特有の本質を保つことを妨げるわけではありません。キリストに従うことは、私たちの人格まさに奥底にまで影響します。誰かが恋に夢中なら、このことは、外見上どんなに些細に見えることでも、その人の物事と出来事の見方すべてに影響を与えます。愛する人と共にいる時だけでなく、その人は通りを歩いている時でも仕事をしている時でも、社会的な活動でとる態度においても影響を受けます。キリスト者であることは、私たちの存在の最も重要な特徴です。この特徴は、熱烈に愛し合う相思相愛の恋人の愛よりも、私たちの生活に比べることのできない大きな影響を与えなければなりません。

キリストは、私たちの生活と全存在の中心です。カシアンは次のように評しています。後陣の丸天井を描きたいと思う建築家を想像しましょう。彼は、中心、要所から始め、周辺全体を描かなければなりません。この確実なノルマで進めながら、次に、正確な周線と建物全体のデザインを見積もらなければなりません。このようにして、一つの点が、堂々とした建物にとって、基本的な鍵になります。 同じようなやり方で、神は、私たちの考え、言葉、行いにかかわる要です。私たちは、神とのつながりの中で自分の真の存在を築きたいと望むべきです。

73.2 信仰は物事と出来事の真の現実を認めるための光を与えます

自分に従う者の考え方や生活様式に意味を与えてくださるのはキリストです。芸術作品や政治的要綱を判断しなければならない時、仕事の取引をする時や休日の計画を実行しなければならない時、もしキリスト者であるという永続的で決定的な真実を無視するならば、そういうことはキリスト者として一貫した態度がとれていないことになります。キリストに忠実な弟子であれば、各々の事柄に固有な自律性や法則、そして自由に意見を述べることのできる問題が有する広範囲の自由を尊重しますが、経済や芸術、映画などのある一面のみを考えて、企画や作品を良いと判断することはできません。もしそのような計画や出来事、あるいは作品が神(の教え)に従属していなければ、たとえ部分的には認めうる価値があったとしても、最終的な評価は一つ、すなわち否定的な評価しかありません。

取引を行う、あるいは仕事上のあるポストを受け入れるというような場合、良いキリスト者なら、財政的に好都合なものだけではなく、他の側面も吟味するべきです。倫理の規範に関して正当だろうか? 他の人々のためになるだろうか、それとも害になるだろうか? 良いキリスト信者なら、そのような事業の提案や仕事が社会に貢献する利点を評価しようとします。倫理的に間違っていたり、あるいは少なくとも良い模範にならなかったり、他の特徴 - 例えば良い収入を提供する - などがあるかもしれませんが、それが倫理的に正しいもの、即ち、良い業務になる事はありえません。ビジネスの機会がどんなに有利に見えても、倫理的に正しくないなら、それは非常に悪い仕事で、キリストに従う人なら誰も従事しないはずです。

過失は、芸術、科学、自由の立派な外観に飾られて提示されます。しかし、信仰は真に過失より有力でなければなりません。それは、善に見えるものの背後に隠され、良い文学作品の別の形である、醜さを覆う表面の美しさに隠されている悪を見ることができるようにする力強い光です。すべての建物の隅の親石でなければならないのはキリストですから。

キリスト教信仰と全く矛盾なく、完全に首尾一貫した生き方ができるように、主に恩恵を願いましょう。そうすれば、私たちは決して自分の信仰が、これができない、そこには行けないというように制限を加えるどころか、物事や出来事の本当の姿を知るための光であることがわかるでしょう。作品や考え方の全体像を見抜くことができない人間の無知と高慢、それに誰もが持っている情欲を、悪魔は上手に協力させようとすることを忘れてはなりません。キリストは、人間的なすべての物事の中にある金を見定めるつぼです。たとえ、いくらか人目を引く善良さや美しさで外観を飾られていても、その教えを試す透明さに耐えられないものは、どれも偽りで当てになりません。

この生活の一致が私たちに与える基準 - 私たち自身が主の忠実な弟子であるということを、いつも分かっていること - を利用するなら、私たちは、正しい人間の基準に導かれている人々が、行い、考えた多くの良いことをともに収穫し、更にそれをキリストの足もとに置くことができるでしょう。度々あることですが、信仰の光がなければ、私たちはごまかされた腐敗を見定めことはできないでしょう。このような働きの多くは、必ず、何らかの善良で美しいところがあるからです。

識別したり判断したりするのに、十分形成された規範を持ちたいと思うなら、それを得る手段を用いる一方、何をおいてもまず、神のみ旨を行いたいと望む、正しい意向を持つことが必要です。これは、あまり学問がなく平凡で、生まれつきの才能はあまりないが、深いキリスト教信仰を持つ、全く普通の単純な人々が、なぜ、生じてくる様々なことを賢く判断できる卓越した基準を持つことができるかということを説明しています。反対に、教養の高い、優れた知的能力のある人々が、時には、悲しむべき正しい判断の欠如を示し、最も初歩的な事柄で重大な間違いをすることがあります。

生活の一致という常にキリスト教に準じた生活をしていれば、確信をもって判断し、物事の真の人間的価値を発見できます。このようにして、私たちは、すべての尊い人間界の現実の事柄を聖化し、それをキリストに捧げます。自分に問いましょう。あらゆる状況で、信仰と召命に一致した生活をしていますか? 大小にかかわらず、決心する時、他の何よりも、神が私たちに望まれることを心に留めていますか? 神が、私たちにもっときっぱりとキリスト教的に振舞うよう求めておられる具体的な点において見てみましょう。

73.3 キリスト者は、世間とのつながりに関して、独自の価値観を持っています

キリストである隅の親石の上に生活を築くキリスト信者は、独特の個性、世の中とそこに生じることに対する独自の見解を持っています。信仰によって生きず、物事の世間的な概念を持つ異教徒とは非常に異なった価値観を持っています。けれども、日常生活にほとんど影響を及ぼさない弱く生温いキリスト教信仰を持った人の中には、キリスト教を人間的なものとし、教会を大衆化し、一時期世の中で流行している価値判断に何とかして合わせるように見せかけたいという過度の望みを持つように追い立てる、ある種の劣等感を持つ人たちが出てきます

こういうわけで、この世の活動に夢中になると同様に、キリスト信者として、祈り、秘跡に与り、日々の仕事の聖化をとおして、神に夢中になる必要があります。私たちは、世の中で、毎日の普通の生活において、粘り強い努力を惜しまず、その努力を支える確固とした決心を持ったイエスの忠実な弟子である必要があります。このようにして、私たちは、聖パウロが、当時の異教徒の習慣に合わせる危険があると初代のキリスト者に警告した時、聖パウロが彼らに与えた忠告「この世に倣ってはいけません」を実行に移すことができるでしょう。順応するのを拒むことは、時には、私たちを流れに逆らって漕ぐようにさせ、同時代の多くの人々に誤解される危険を冒すことがあります。キリスト者は、こね粉の塊を発酵させるための隠れたパン種であることを忘れてはいけません

神は、創られた実在のすべてを照らし、その中に潜む真理をあらわにする光です。神は、灯台の光線が、航海者がどちらのコースに舵をとればよいかを導いてくれる灯台です。教会は、人間の歴史全体の鍵、中心、目的が、主であり師であるキリストに見出されることを信じます10

ナザレのイエスは、すべての人の生活における隅の親石であり続けます。キリストのいない建物なら建てられても無駄になります。今日、祈りを終える時、私たちが告白する信仰が、私たちの存在と世の中と人間への見解と私たちの振舞い方に、さらにもっと影響を持つようになっているかどうか考えましょう。私たちの行いをとおして、すべての人が実際に神を知り、キリストの教義に従い、キリストを愛するようになるために振舞うよう、努力しましょう。

マルコ12:1-12

イザヤ5:1-7

cf The Navarre Bible, note to Mark12:1-12and Matt21:33-46

詩編118:22

使徒言行録,4:10-11

Cassian, Conferences,24

J.Orlandis, What is it to be a Catholic?Pamplona,1977

ロ一マ12:2

マタイ13:33 参照

10 第2バチカン公会議,現代世界憲章,10