年間第4週・水曜日 30. 良く働く

年間第4週・水曜日 30. 良く働く ― ナザレにおけるイエスの勤労生活。仕事の聖化。 ― 仕事は私たちを神の創造の御業に参与させてくれる。イエスと仕事の世界。 ― 仕事の贖罪的意味。主の贖いの協力者として相応しい働き方ができるよう聖ヨゼフに助けを願うこと。

年間第4週・水曜日

30. 良く働く

― ナザレにおけるイエスの勤労生活。仕事の聖化。

― 仕事は私たちを神の創造の御業に参与させてくれる。イエスと仕事の世界。

― 仕事の贖罪的意味。主の贖いの協力者として相応しい働き方ができるよう聖ヨゼフに助けを願うこと。

30.1 ナザレでのイエスの生活、仕事の聖化

しばらくしてイエスは故郷ナザレに帰られました[1]。 イエスの母が大喜びで彼を出迎えたことでしょう。イエスに付き従った最初の弟子たちにとって、イエスが少年期を過ごした場所を見るのは初めてだったことでしょう。聖母の家で、彼らは英気を取り戻したことでしょう。マリアほど心を尽くして彼らをもてなした婦人はいないでしょう。

ナザレではイエスを知らない人はいませんでした。彼がしていた仕事、そして家族のこともよく知っていました。ほかの村人と何ら変わったところはありませんでした。彼は大工で、マリアの息子でした。多くの人がそうであるように、私たちの主も父の仕事を継いでいました。

だから、村人は主を「大工の息子」[2]と呼んでいました。彼は、ヨセフが亡くなる何年か前におそらくヨセフの仕事を引き継いでいたことでしょう。家族は、人類最高の宝である、人となられたみことばを見守ってはいましたが、近所の家族と何ら変わりはありませんでした。ただ、誰からも愛され感謝されていた家族でした。「肉となったみことば自身が進んで人間の共同生活に加わった。カナの婚礼に出席し、ザアカイの家を訪れ、徴税人や罪人と食事をともにした。また、彼は社会のごくありふれた事柄を引き合いに出し、きわめて日常的な生活の言葉と実例を用いて、御父の愛と人々への崇高な召命を掲示した。人と人とのつながり、特に社会生活の基盤である家庭生活を聖化し、自発的に祖国の律法に従った。また、その時代の地方における労働者として生活することを望んだ」[3]。 イエスは数日母の家に留まり、親戚や知人を訪ねたに違いありません。そして、安息日には神殿で教え始められました。ナザレの人々は驚きました。家具や農器具を作り、壊れたら修繕してくれた人が、いまや驚くべき権威と今まで聞いたことのない偉大な知恵をもって自分たちに話していたからです。彼らは、イエスの中にただ人間的なものだけしか見ることができませんでした。30年間見続けたもの、つまり全く変わりのないごく普通の生活、それだけしか見ることができなかったのです。この〈普通の生活〉の背後にメシアである救い主を見出すことは彼らにはできませんでした。それは、マリアにおいても同じです。彼女の仕事は、その当時の主婦がしていた仕事と同じでした。マリアの言葉にはガリラヤ地方独特の方言があったでしょうし、その地方の衣装を他の女性と同じように身に着けていましたから。

イエスが受け継いだヨセフの仕事場は、当時のパレスチナ地方にあった仕事場と全く同じものだったでしょう。でも、おそらくナザレでは唯一の仕事場だったでしょう。のこぎりやカンナで削った木片のにおいが仕事場には立ちこめていたでしょう。ヨセフは、通常の代金を正当にとっていたでしょう。おそらく、経済的に困っている人には支払い易くしたでしょう。いずれにせよ、正しい人だったので、公平な額を請求したはずです。

その小さな仕事部屋で成された仕事は、大工特有の仕事でした。とは言え、小さな仕事しか請け負っていませんでした。梁を組み立てたり、簡単な食器棚を作ったり、歪んだテーブルを直したり、閉まらなくなった戸にカンナをかけたりなどです。そこでは、聖画に見られるような木製の十字架を製作するのは難しかったでしょうし、誰が彼らに注文できたでしょうか。木材をただで手に入れたわけではなく、近くの森から調達していたのですから。

ナザレの住民たちは彼に腹を立てました。でも私たちの婦人、マリアはそうではありませんでした。彼女は息子を、並々ならぬ愛と賞賛をもって見ていました。よく彼のことを理解していました。

聖書のこの場面を黙想すると、間接的ではあってもイエスの幼年時代を反映しているので、日常の仕事とごく普通の事柄で成り立つ日々の生活こそが、聖性の道であるかどうかを見極める助けになります。それは聖家族の生活でもあったのですから。もし私たちが、信仰と超自然的な見方を持って、仕事を人間的にも誠実に完全に仕上げる努力をすれば、聖性の道を歩むことになるでしょう。この地上で私たちが置かれたところで仕事を果たすことは、自らの力で天国に宝を積んでいることになると同時に、教会と全人類のために貢献していることになることを忘れてはいけません。主は現代に生きる私たちに、日常生活の無比の価値を示してくれています。つまり、私たちが日々果たさなければならない仕事や様々の事柄の最高の価値についてです[4]

もし私たちの心構えが本当に真摯なものであれば、神はいつも私たちに主の模範に倣うための超自然の光を与えてくださるでしょう。私たちは、ただ仕事をよく成し遂げるだけでなく、仕事をしながら喜んで自己犠牲をするようになるでしょう。

30.2 イエスと仕事の世界

私たちの主は、ご自分がこの世の仕事に親しんでいたことを自ら示してくださいました。イエスはご自分と同郷の人々が従事していた仕事から頻繁にイメージや譬(たと)え、比喩をとって話をなさいました。

イエスの話を聞いた人々は、使われる言葉の意味がとてもよく分かりましたし、ナザレでイエスがされた仕事は、人間的にも完全でした。つまり完全に仕上げ、職業人として優れた能力を持って仕事をやり遂げておられたのです。だから、故郷に戻られたときに、人々は、大工としてのイエスを思い出したのです。このことから、今でも主が私たちの日常生活と、日々果たすべき仕事の最良の価値を教えてくださっていることがわかります。

心構えが本当に真摯なものであれば、神は必ず超自然の恩恵をくださり、主の模範に倣えるようにしてくださるでしょう。ただ仕事を完全に仕上げることを求めるだけでなく、仕事をしながら自己を否定し、犠牲を喜び、愛を持って仕事を果たすよう努めるでしょう。一日の多くの時間をかけて仕事をしていても、しばしば神のみ前での良心の糾明や神との対話が可能です。このことを深く考える勇気を持たなければなりません。良心的に仕事を果たし、怠惰に負けないで、時間を実りあるものにしなければなりません。毎日、専門職をよくできるように準備し、日々の仕事の細かい点に注意を払い、仕事に伴う日々の労苦である十字架と疲労を、愛を持って受け入れたいと望み続けなければなりません。

正直な仕事を良心的にするなら、神の創造に関与し、キリストの贖いを共にすることになります。ヨハネ・パウロ二世はこう説いています。「人が仕事を通して創造主である神の業に参与するという真理は、イエスが特に強調なさった点で、それをナザレで最初に聞いた人々は驚いて言いました。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この男は、大工ではないか』(マルコ6・2-5)」[5]

イエスがナザレで過ごした年月は、私たちが日々の仕事を聖化するようになるためのしっかりとした学び舎と言えます。例えば、病気などで仕事をどうしても休まなければならない時でさえ、それは神が、私たちが超自然的で人間的な徳を身につけるために意図され許された状況なのです[6]

「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」[7]

30.3 仕事が持つ贖いの意味。聖ヨセフに、仕事を完全に仕上げ、仕事を通して主とともに贖いができるようにお願いするべきです

イエスと同じナザレ人である村人たちは、「この男は大工の息子ではないか」と言って驚きました。この箇所は、イエスの人生に大きな光を投げかけるディテール(些細な描写)です。贖い主の生涯の大部分は、すべての人々と同じく、仕事が占めていることを明らかにするからです。イエスの単純な仕事は、小さな村の大工ですから、それに関連した多くの仕事もこなしていたでしょう。実はその仕事こそ罪の贖いの業に変わりうるし、また実際に贖いの業に変わったのです。なぜならそれは、人となられた至聖なる三位一体の第二のペルソナがなさった仕事だからです。

洗礼を受けた者は、キリスト者としてもう一人のキリストにならなければなりません。私たちが誠実に果たす仕事は、すべて主との共同の贖いの業に変わるのです。人間的に見れば、つまらなく重要でない仕事かもしれないけれど、キリストと一致してすれば、それは何にも比べることができないほどの価値をもちます。

どの仕事をしていても起こり、原罪の結果でもある倦怠感は、新しい意味を帯びてきました。罰と思われていたものは、キリストによって贖われ、神にとても喜ばれる犠牲に変わります。その犠牲は、私たち自身を罪から清めるものになるため、主とともに私たちは全人類の罪の贖いをすることになるからです。ここで私たちは、異教徒によってなされた仕事とキリスト者によってなされた仕事には、大きな違いがあることに気がつきます。キリスト者の仕事はきちんと最後まで仕上げられているだけでなく、キリストと共に神に捧げられているからです。日常生活の中に私たちが探し求める神と一致すれば、あらゆることをただ神の栄光と人々の霊魂のためだけにするという決心は強くなるでしょう。私たちが正しく享受できる名声があれば、よく働く人々を私たちの方に引き寄せることになります。そして多くの人々が、キリスト者の熱心な生活のあり方を見て、同じ道を歩むためのふんだんの恵みを天国から受けるでしょう。このように行動することで、日常生活での私たちの仕事と日々の仕事の中で使徒職を実践する努力は、同時に聖化されることになります。そして、私たちが、正しい意向で本当に働いていることがはっきりとわかるのです。

聖ヨセフは、イエスに自分の仕事を教えました。神ご自身が彼に委ねられたこの神の子が大人になるにつれて少しずつ教えました。ある日は、かんなの使い方、ある日は、のこぎり、次に違う種類ののみといった具合です。イエスはすぐに木材の見分け方や、作るものによってどの木を使用すればよいのか学んでいったことでしょう。つなぎ目をしっかりととめるために強い接着剤をどのように混ぜるか、二つの部分を合わせるためにどのような楔(くさび)の使い方をするか、などを学んでいったことでしょう。イエスは、備品の手入れの仕方をヨセフの指示に従ってしていたでしょうし、木材の削りカスやのこぎりの削りカスを一日の終わりに掃き、道具を元の場所に綺麗にしまうことをヨセフから学んだでしょう。

聖ヨセフに向かい、どのような仕事であってもその仕事を良く果たし、その仕事を好きになるよう教えてくださるように頼みましょう。ヨセフはどうすれば仕事を良く果たすことができるかを教えてくださる最高の教師です。なぜなら、神の子に自分の仕事を教えたからです。ですから、仕事中に彼の助けを求めるなら、そのことを彼から学ぶでしょう。日々の仕事を愛するなら職業上の能力を生かしてそれを良く果たすでしょう。そうする時に、その仕事は、神に捧げられる救いのみ業に与る仕事の一部になるのです。

[1] マルコ 6・1-6

[2] マタイ 13・55 参照

[3] 第二バチカン公会議 現代世界憲章 32

[4] J.L.Illanes, On the Theology of Work. 参照

[5] 聖ヨハネ・パウロ二世 回勅『働くことについて』1981年9月14日

[6] Paul VI ,Address to the Association of Catholic Jurists,15 December 1963 参照

[7] コロサイ3・17