年間第3週・木曜日 22. 内的生活を深める

年間第3週・木曜日 22. 内的生活を深める ― 内的生活は成長するようにできている。頂いた恩恵への応答。 ― 小さなことにおける忠実と犠牲の精神。 ― 痛悔と内的な成長。

年間第3週・木曜日

22. 内的生活を深める

― 内的生活は成長するようにできている。頂いた恩恵への応答。

― 小さなことにおける忠実と犠牲の精神。

― 痛悔と内的な成長。

22.1 内的生活は成長していくものです。私たちは受ける恩恵のすべてに一致すべきです

イエスは時々12使徒に、教えを注意深く聞くよう言われました。ある時は使徒たちを集めて、彼らにだけもう一度たとえ話を説明したり、起こっていることからどのような教訓を引き出したらよいか教えたりされました。イエスは、彼らが受けたのは全教会のための宝物であり、彼らが後に説明しなければならない宝を与えられていることに気づいてほしいと思われました。事あるごとに「心に留めておきなさい」と言われます。そして、次の教訓をお与えになりました。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」。聖ヨハネ・クリゾストモは、こう解説しています。「勤勉で熱心な人には、神に属するすべてのものが与えられるでしょう。しかし、愛と熱意に欠ける者、神に頼まない者には、神に属するものが与えられないでしょう。主は言われます、彼らは持っているものまでも取り上げられる(ルカ8 ・18 )。 神が取り上げるのではなく、その人が新しい恩恵を受け取ることができないからです」

持っている者にはさらに与えられるでしょう、これはすべてのキリスト者の内的生活のための基本的な教訓です。恩恵に一致する人は、さらに多くの恩恵が与えられます。その結果、ますます多くの恩恵を持つことになります。しかし、実を結ぶ聖霊の霊感、働きと助けを得られない者は、さらにますますみすぼらしくなるでしょう。信頼して才能を使って商売をする人は、さらに大きな幸運や報いを受けました。しかし、才能を土の中に隠した人はそれを失いました。 内的生活は愛のように成長するものです。「もう十分です、と言う人はすでに死んだのである」。内的生活は常に向上し、一致し、新しい恩恵を受ける準備が要求されています。もし、内的生活が前進しないのなら、後退します。

神は、私たちが必要とする助けをすべて手に入れる手段が常にあると約束してくださっています。各瞬間に詩編作家とともに言うことができます。主は、わたしのためにお計らいください」ますと。私たちが、立ち向かう困難、誘惑、内的・外的な障害は、私たちを成長させてくれます。困難が大きければ大きいほど、さらに多くの恩恵を受けます。大変な誘惑や妨げを経験することを神が許されるなら、主は、それに打ち勝つために、さらに大きな助けを与えてくださるでしょう。聖性に至るための努力を妨げるように思えたり、それに到達するのは不可能だと思えたりするようなことが、霊的進歩と使徒職の効果のもとになります。霊的生命が病気になったり死んだりする原因は、ただ、愛の不足と生温さに他なりません。悪い意志や神に対する寛大さの不足だけが、神との一致を遅らせたり、妨げたりするのです。泉に持って行く信仰の器は、その容量に従って満たされます。 イエス・キリストは、助け、愛、理解の無尽蔵の源泉です。どれほどの容量、どのような望みをもってキリストに近づくでしょうか? 主よ、祈りのうちにお願いします。もっともっとあなたに渇かせてください。砂漠で死にそうになっている人が水に渇くよりも、もっと激しくあなたに渇かせてください!

22.2 小さなことにおける忠実と犠牲の精神

内的生活がわずかしか向上しないことや、努力をしなくなり落胆を引き起こす理由はいろいろあります。しかしながらこの理由は、わずかなことだけに集約することができます。不注意、神への奉仕と神との友情に関する小さなことへの怠慢、つまり、神が私たちにお望みになる犠牲を退けることです。 私たちが、日々神に捧げなければならないことはすべて、信仰と愛の小さな行いです。祈願、ミサの間の感謝の祈り、聖体訪問、私たちを待っておられるイエス・キリストご自身に会おうと意識していることなどです。毎日の習慣的な祈り、仕事上の自分の欠点を克服すること、喜んで人に応対すること、物事を丁寧に頼むこと、愛をもって愛のために行われた多くの小さなことは、日々の宝物となり、私たちは、この宝と共に永遠の生命に入るのです。内的生活は、普通は、愛と思いやりがこもった小さな行いで養われていきます。他のことをすれば道を誤り、神に捧げることを全く見出さないか、ほんのわずかしか見出さないことになります。モンセニョール エスクリバ-はこう指摘します。「フランスの作家がイメ一ジした人物の話を思い起こしてみるとよい。家の廊下にライオンを捕らえに出かける人は、当然何も見つけない。私たちの生活は全く普通のものであり、大きなことで神に奉仕しようとすることは、廊下でライオンを捕らえようとするようなものです。捧げるものは何もなく、結局は何も得られないでしょう」。私たちには平凡な毎日の事柄があるだけです。

次々に増す水のしたたりが、渇いた地上に命を与えるように、少しずつ小さな行いをしなさい。聖母のご像を見ること、友人を励ます言葉、聖櫃の前でうやうやしくひざまずくこと、祈りの間の注意散漫を防ぐこと、怠慢に打ち勝つこと、すべては霊的生命を生き生きとさせる良い習慣と徳を創り出します。これらの小さな行いに忠実であり、神を喜ばせたいという望みを頻繁に新たにするなら、耐えることが難しい病気や仕事上の失敗のような大きなことが神に捧げるために起こる時も、神がお望みになりおゆるしになることから実りを収穫することができるでしょう。その時、キリストの次の言葉が成就されるでしょう。「ごく小さな事に忠実な者は、大きなことにも忠実である」

霊的生活で後退するもう一つの原因は、神が私たちにお望みになる犠牲を受け入れないことです10。 このような犠牲は、私たちが利己主義に立ち向かう機会になります。それはいつも愛のしるしです。自分自身を求める代わりに一日中神を探し求める決心を示すのですから。

神への愛は、「霊的な苦労によって」11、つまり、恩恵の助けによって、霊魂の深い所に生まれる努力と関心があることで得られます。この喜んで捧げる犠牲がなければ、人間的な愛も神的な愛もありえません。愛は、私たちの内で成長し、困難と自分の内にある愛に対する抵抗のお陰で大きくなっていきます。また、「外からの抵抗」に直面しても成長し大きくなっていきます。つまり、愛とは異質のもの、敵対する外力が多く働くにもかかわらず大きく成長していきます12。 恩恵の助けは、決して私たちを見捨てることはないと神が約束してくださったように、それは、すべて恩恵と一致して、落胆することなく、喜んで何度もやり直す決心をすることにかかっています。私たちが、恩恵に忠実であればあるほど、神はもっと多くの助けを与えてくださるし、さらに容易くその道に従うことができることに気がつくでしょう。私たちは、もっと要求されていること、つまり、霊魂が更に大きく洗練されることに気がつくでしょう。愛は、常にもっと多くの愛を要求します。

22.3 悔い改めと内的成長

この内的生命は、不運な状況に直面した時に成長する特別の機会を与えられます。霊魂にとって、自分の惨めさと不注意と愛の不足の結果として作り出されたものほど大きな障害はありません。しかし、こうした状況では、聖霊が私たちを導いて、痛悔の行為をもって超自然的に振舞うようにしてくださいます。「神様、罪人のわたしを憐れんでください!」13聖フランシスコ・サレジオは、愛と悲しみと深い和解への望みに満ちた、このような射祷のような静かな祈りによって、私たちは強められることを感じとるべきであると教えています。それを通して、私たちが神の憐れみ深い御心を信じるようになるためです14。 悔い改めの行為は、霊的進歩の効果的な手段です。

ゆるしを願うことは、愛することです。それは、ますます深まっていく理解と憐れみの心をもってキリストを黙想することです。私たちは罪人なので15、私たちの人生は悲しみと愛の行為で満ちています。そのお陰で、霊魂は希望に満ち、聖性に向かう道を再び始めたいという望みを新たにできます。神の愛にあまり良く応えていない場合がたくさんあるかも知れないけれども、失望したり心配しすぎたりせずに、何度もキリストに戻る必要があります。神の憐れみは限りなく、私たちが、新たな決心を持って、新しい希望と共に、再び出発するように勇気づけてくださいます。私たちは、放蕩息子のようにならなければなりません。恥ずかしさと惨めな生活に満ちて、遠い見知らぬ土地に残る代わりに、正気に戻ってこう言いました。「ここをたち、父のところに行って言おう」16。人の一生とは、ある意味で、何度も御父のもとに戻ることだと言えます。私たちはゆるしの秘跡の手段によって父の家に戻ります。

神は、たとえ話のお父さんのように両手を広げて私たちを待ってくださいます。私たちにはそんなにしていただく値打ちはないのですが、放蕩息子のように、神が大喜びで迎え入れてくださるのです。心を打ち明けて御父の家をなつかしく思慕するだけでよいのです。恩知らずの私たちであるのに、本当にご自分の子にしてくださった神の賜物に驚き、喜びさえすればよいのです17。 神は、決して私たちを見捨てるようなことはなさいません。いつも喜んで迎えてくださいます。私たちを慰め、もっと多くの愛と深い謙遜の心で再び出発するようにしてくださるでしょう。

弱さは、神の憐れみを探し求めるように、また謙遜になるように助けてくれます。謙遜の徳の成長は、内的生活を前進させるのに多くの段階を経ることを意味します。すべての徳は、私たちが、より深く謙遜であることから益を得ます。時に、神から受けている恩恵に一致していないと気づいたり、神が期待されているほど忠実でないとわかることがあれば、悔い改めて、信頼して神に戻らなければなりません。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」18

小さいことでも私たちを神から引き離すものを度々考えてみるべきです。そうすれば、悲しみと痛悔へと心を動かされて、神にもっと近づくでしょう。このようにして内的生活は、外的障害と戦うことによってだけでなく、弱さや誤り、罪を認めることによっても明らかに豊かになります。再び始めることが難しいと気がつけば、息子の所に簡単に連れて行ってくださる聖母マリアに頼みましょう。多くの悔い改めの行為をするように私たちを助けてくださいとマリアに願うべきです。あの徴税人の祈りを繰り返すことは助けになるでしょう。「神様、罪人の私を憐れんでください!」 また、ダビデ王の祈り「打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」19。遠くに教会の建物を見る時、憐れみの源泉であるイエスがご聖体の中に人としておられることを理解して、いくつかの射祷を唱えることは特に助けとなります。

恵み、憐れみ、ゆるしの御母である聖マリアは、聖人になりたいという野心的な目的に達する希望をいつも燃え立たせてくださるでしょう。恩恵に一致すれば、さらに多くの恩恵が与えられることを確信して、個人的な祈りのこの時間の実りをマリアの手に置きましょう。

マルコ4・24-25

聖ヨハネ・クリゾストモ,Homilies on St Matthew’s Gospel, 45,1

マタイ25・14-30 参照

St Augustine, Sermon51,3

詩編40・18

聖アウグスチヌス,Commentary on St John’s Gospel,17

R.Garrigou-Lagrange, The Three Ages of the Interior Life 参照

聖ホセマリア・エスクリバー 手紙1939年3月24日

ルカ16・10 参照

10 R.Garrigou-Lagrange, The Three Ages of the Interior Life

11 聖ヨハネ・パウロ二世 説教 1980年2月3日

12 聖ヨハネ・パウロ二世 説教 1980年2月3日

13 ルカ18・13

14 聖フランシスコ・サレジオ,Treatise on the Love of God 2,20 参照

15 一ヨハネ1・8-9 参照

16 ルカ15・17-18

17 聖ホセマリア・エスクリバー『知識の香』64

18 詩編51・12

19 詩編51・19