100周年への道(8)神との出会いの場としての仕事

聖書および聖ホセマリアの教えに基づき、本稿は、仕事や日常生活が、どのようにして神との真の出会いの場となり、また世のただ中における具体的な聖性への道となりうるかについて考察します。

シリーズ「100周年への道」


人間の仕事は実に多様な形をとります。静かに一人で行われることもあれば、チームで進められることもあり、人目につく場でなされる場合もあれば、目立たないところでなされる場合もあります。また、公に評価されることもあれば、そうした評価から遠く離れて行われることもあります。しかし、そうした違いを超えて、キリスト教の伝統は常に、仕事のうちに深い霊的尊厳が備わっていると見てきました。

仕事の種類やその置かれる状況は、数えきれないほど多く、しかも非常に多様です。しかし同時に、仕事は人間であるという共通の条件に根ざしているため、すべての人に共通する側面も持っています。仕事は、きわめて異なる環境の中で展開され、歴史の流れの中で大きな変化を受けてきましたし、また少なからず、一人ひとりの人生の歩みの中でも変化していくものです。

多くの人々と絶えず関わりながら働く人もいれば、より自律的に仕事を進め、自分に必要な環境を自ら整える人もいます。また、チームで行われる仕事もあれば、静けさと孤独を求める仕事もあります。機械の音に囲まれて行われる作業もあり、一方で、音の干渉をできるだけ避けなければならない仕事もあります。

医師や教師、受付係の仕事のように、奉仕という側面が明確に表れている職業もありますが、他方で、他者への奉仕は内に含まれてはいるものの、それが表に出にくく、人間関係もより直接的ではない仕事もあります。科学研究に従事することは、顧客の要望を満たすことと同じではありませんし、食料を生産することは、本を書くこととは異なります。評価や報酬を受けやすい仕事もあれば、しばしば人の目に留まらないまま行われる仕事もあります。

祈りとなる仕事

聖書の一節──『シラ書』第38章──は、多様な人間の仕事の営み、とりわけさまざまな職業として具体化される手仕事の姿を、非常に生き生きと描き出し、それらが神の前において持つ尊厳を明らかにしています。職人、陶工、農夫、鍛冶屋といった人々は、高尚な事柄に携わっているようには見えず、王の顧問として名を連ねることもありません。彼らの活動は、権力や政治的な議論の場からは遠く離れたところで行われています。しかしそれにもかかわらず、彼らの粘り強く静かな働きによってこそ、人間社会は支えられ、発展していくのです。

「これらの人々(労働者、職人、鍛冶屋、陶工)は皆自分の腕に頼り、それぞれ、自分の仕事には熟練している。彼らなしに、町は成り立たず、住み着く人も、行き来する人もいない。しかし、彼らは民の会議では意見を求められず、集会においても責任ある地位には昇れない。裁判官の座にもつけず、法律にかかわる決まりも理解していない。教訓や法律を説き明かすこともできず、格言にも精通していない。彼らは造られたこの世界の調和を固く保つ。彼らの願い(=祈り。deprecatio[ウルガタ訳]、δέησις[七十人訳])は、仕事を全うすることにある」(シラ38・31-34[新共同訳])。

「彼らの願い(祈り)は、仕事を全うすることにある」と述べるとき(ウルガタ訳[1]および七十人訳[2]の直訳は「彼らの祈りは、技の働きの中に」)、聖書の著者は、すべての人間の仕事──たとえ地上の権力者たちの目には最も影響力が小さく、重要でないように見えるものであっても──が、神へとささげられる祈りであることを認めています。神を賛美し、神と語り合うために、世を離れる必要はありません。それぞれの人が、自らの行う仕事を通しても、そのようにすることができるのです。

聖ホセマリアの教えは、このような聖書的視点──旧約聖書の知恵文学に特徴的な見方──と連続しています。彼は一貫して、あらゆる仕事が神との出会いの場となりうること、そしてどれほど取るに足りないように見える仕事であっても、神のまなざしから外れるものは一つもないことを説き続けました。大多数の人にとって、日常生活の主な場は仕事であり、まさにその仕事の中においてこそ、それぞれの人がキリスト教的徳を生きるよう招かれているのです。したがって、人は仕事を通して、イエス・キリストと結ばれつつ、聖性へと歩むことになるのです。

「オプス・デイは、家族や友人関係、職業、高い志といった、市民社会が織りなす構造の中に組み込まれて生きるキリスト者が、自分の人生そのものが、そのありのままの姿でキリストとの出会いの機会となりうること、すなわち聖性と使徒職への道であることを理解するよう助けるために生まれました。キリストは、あらゆる誠実な人間の仕事の中に現存しておられます。ごく普通のキリスト者の生活──ある人には平凡で取るに足りないものに見えるかもしれませんが──は、聖なる生活であり、また聖化する生活でありうるし、そうでなければならないのです」(『会見集』60番)。

これまでの記事の一つでは、受肉したみことばが、あらゆる社会的・人間的関係性を伴う真の人性を引き受け、さらに具体的な一つの職業──大工という仕事──を営まれたことの帰結について考察しました。この事実から、本稿の主題に関して、少なくとも二つの重要な含意が導かれます。

まず第一に、日常生活は、すべての人がキリストと自らを一致させ、したがって聖性に至ることのできる場であるということです。キリストが地上においてそれを引き受け、生きたからです。第二に、日々の生活や仕事の多様性が、この召命に真に普遍的な次元を与え、あらゆる時代のほとんどすべての人々がそれに応えることを可能にする、ということです。

この考察は、オプス・デイ創立者によって「地上に神の道が開かれた」(指針、1935年5月、1番参照)という表現に要約されるものですが、仕事の聖化と普遍的な聖性への召命との密接な関係を明らかにするものです。しかし、この関係は同時にいくつかの問いを生み出します。聖ホセマリアの教えにおいて、これら二つの現実はどのような関係にあるのでしょうか。また、彼の思想は当時の神学的伝統と比較したとき、どのような独自性を持っているのでしょうか。

聖性の普遍性とオプス・デイの使命

厳密な意味において、聖性への普遍的な召命は、人間のさまざまな地上的活動が持つ普遍的次元から導かれるものではありません。 その最も深い根源において、聖性への普遍的な召命とは、すべての信者が洗礼において──賜物として、また使命として──受け取る、イエス・キリストと同一化するよう招かれていることの表現です。すべての洗礼を受けた者は聖なる者となるよう招かれています。さらに言えば、すべての人間もまた、キリストの神秘体の生きた一員となるよう定められているという意味で、その召命を受けています。その中には、仕事に従事しない人々も含まれます。例えば、観想生活に専心するために世を離れる人々や、職業や仕事を持たない人々もその例です。

すべての人に対して──その生活の状況がどのようなものであれ、信徒であれ、修道者であれ、司祭であれ、健康であれ病気であれ、世の活動のただ中にあろうとそれから離れていようと──神は、私たちのために人となった御子に自らを一致させるよう求めておられます。この視点は新約聖書や初期キリスト教の伝統には明確に見られるものですが、歴史の中で長い間忘れられてきました。しかし、この理解は近世および現代のいくつかの著作家──たとえばフランシスコ・サレジオ、アルフォンソ・マリア・デ・リゴリ、ジョン・ヘンリー・ニューマンなど──によって生かされ続け、1930年代以降、聖ホセマリアのメッセージの中心となりました。そして後に、第二バチカン公会議によって、「神の民」に関する教えの中で権威をもって再び取り上げられることになります(『教会憲章』第2章参照)。

では、オプス・デイの使命を特徴づけているものは何でしょうか。また、仕事の聖化についての教え──すなわち「仕事を聖化すること」「仕事の中で自らを聖化すること」「仕事を通して他者を聖化すること」という三つの側面──は、イエス・キリストの教会において示されている聖性への普遍的な召命を理解するうえで、どのように寄与しているのでしょうか。

聖ホセマリア・エスクリバーの手紙および指針──とりわけ、彼が自ら推進するよう召されている新しい教会的機関の使命を定義している箇所──から明らかになるのは、オプス・デイの司牧的目的が、聖性への召命がまさに仕事と日常生活という具体的な場において実現されるよう、霊的・修徳的手段を提供することにある、ということです。すなわちそれは、キリスト者が、仕事や人間社会、そして世俗のただ中で営まれるさまざまな活動に、キリスト教的な形を刻み込めるように助けることなのです。

「自分の環境から離れずに日常生活や職業生活の中で生きる聖性への一般的な召命は、福音書からそれを読み取ることのできる人にとって、どれほど明確であったことでしょう。しかしながら、何世紀にもわたって、大多数のキリスト者はそれを理解することができませんでした。その結果、自分の場を離れることなく、職業を聖化し、また職業を通して自らを聖化するという形で、多くの人が聖性を求めるという修徳的な現象は、起こりえなかったのです」(『手紙3』91番)。

「私の子らよ、オプス・デイの精神は、人間としてのあらゆる正当で高貴な仕事が、神的な営みへと変わりうるという、きわめて美しい現実を汲み取っています。あらゆる正当な職業は──知的なものであれ、手仕事であれ、人々が重要と見なすものも、地味と見なすものも──、キリスト教的道徳とキリスト者としての完全性と両立します」(『手紙14』5番)。

聖ホセマリアは、多様な職業や活動の中に生きる信徒を通して、イエス・キリストのメッセージがあらゆる生活の場へ、そして社会の隅々にまで届きうることを理解していました。その結果として、世界が神と和解することに寄与するのです。

「私たちは容易に、あらゆる仕事の場へ赴くことができます。たとえ神が無視され、あるいは憎まれているような世俗主義的な環境であっても、私たちは日常の職業的な務めに身を置くことによってそこに入っていくことができます。これは私たちの召命の本質そのものに属するものであり、もしこれが取り去られるならば、私たちは私たちの精神に従った聖化のあらゆる可能性を失い、また世界における使徒職のあらゆる可能性も失うことになるでしょう」(『手紙13』115番)。

「オプス・デイの必要に応じてローマに移ってから、二年が経ちました。当時の私の主な務めは、普遍教会を治める人々にオプス・デイを理解してもらうことでした。ある時、非常に分かりやすい例を使おうと決めた瞬間がありました。ラヴィトラノ枢機卿と話していたとき、私は皆さんの兄弟の一人であるオペラ歌手が劇場で舞台に立っている写真を見せました。そしてこう述べました。『これでよく分かるでしょうか。私たちはごく普通の人間であり、私たちの務めは、世を離れることのない人間のあらゆる職業、あらゆる働き方を聖化することなのです』」(『手紙14』2番)。

聖ホセマリアは、オプス・デイの使命を実現するためには、信徒が、職業生活や日常生活の場において福音を証しすることができるようにするための、特別な形成が必要であることを理解していました。それは要するに、現代の文化的・社会的条件に適した、いわば「仕事の霊性」と呼びうるものによって養われることでした。

この光のもとで、オプス・デイに所属する司祭たちに彼が与えた役割も理解することができます。すなわち、奉仕的祭司職は、世俗的現実のただ中に生きる信徒に対して、彼らが自らの共通祭司職を十分に生きることができるように、霊的指導と必要な形成を提供するものでなければならない、ということです。

オプス・デイ創立者の教えは、聖性への普遍的な召命が、聖化しうる労働環境の多様さという単なる事実から導かれるものではないとしても、「仕事の中で、また仕事を通して、人は聖人となることができ、またそうでなければならない」という確信を教会の中に根づかせ、聖性とはイエス・キリストが実際にすべての人に提示しておられる目標であるという理解を広めました。

言い換えれば、聖性への普遍的な召命を宣べ伝えるためにオプス・デイが不可欠であるわけではなく、また教会のいかなる機関も、それを自らの固有の使命やカリスマとして独占的に主張することはできません。しかしながら神は、世のただ中で働き日常生活を営む人々にとってもこの聖性が実現可能であることを具体的に示すために、オプス・デイを興されました。そして、その聖性に到達するために必要な霊的・修徳的手段を彼らに与えたのです。

このメッセージの新しさは、20世紀初頭まで西洋において支配的であった教会の状況を考慮に入れると、いっそう明確になります。そこでは、聖性への召命はしばしば、世俗の仕事や日常生活を離れて、聖職者あるいは修道者という新たな身分に入るよう招くものとして理解されていました。すなわちそれは、世の現実を後にして生きることを意味していたのです。

「大勢の​人々の​耳元で​叫んで​やりたくなる​ことが​よく​ある。​事務所や​商店、​新聞や​教壇、​学校や​仕事場、​鉱山や畑で、​内的生活と​聖徒の​交わりに​守られ、​使徒聖パウロの​『自分の​体で​神の​栄光を​現しなさい』、​あなたの​生き方で​神に​栄光を​帰し、​いつも​人々のもとに​神を​お連れしなさい、と​いう​教えに​則して、​あらゆる​ところで​神の​運び手と​なるべきだ、と」(『鍛』945番)。

「物や​技術、​経済、​社会、​政治、​文化などに​関わる​事柄を、​それぞれの​分野の​勝手に​させておいたり、​信仰の​光を​持たない​人たちに​任せたりすると、​超自然的な​生き方に​とって​大変な​障害と​なる。​教会に​敵意を​示し、​教会の​立ち入りを​認めぬ分野と​なってしまうのである。研究者、​文学者、​科学者、​政治家、​労働者…である​あなたは、​キリスト者と​して、​それら​すべてを​聖化する​義務を​負っている。​使徒聖パウロの​言葉を​思い出しなさい。​全被​造物が​嘆きつつ産みの​苦しみに​遭っている、​神の​子らの​自由に​あずかる​日を​待ち焦がれている、と​書いているのではないか」(『拓』311番)。

「仕事の世界」のための霊性

オプス・デイ創立者は、多くの教えと具体的な模範を通して、自らの霊的子らに対し、仕事と日常生活の中にこそ神との出会いの特別な場があることを見いだすよう励ましてきました。それは、聖性の理想から人を逸らし、引き離し、遠ざけるものではありません。この点に関して最もよく知られているテキストの一つが、1967年10月8日にナバラ大学のキャンパスで行われ、後に「愛すべき天地」という題で出版された説教です。その中で聖ホセマリアは、霊的生活と日常の仕事とが、信者のうちに一種の「二重生活」を形づくることはありえないと述べています。目に見えない神は、まさに最も目に見える物質的現実の中でこそ見いだされるのです。さらに言えば、日常生活の中に神を見いだすことを学ばなければ、私たちは神を見いだすことはできないでしょう。

オプス・デイ創立者の教えは、「現代にふさわしい仕事の霊性」と呼びうるものを形づくってきました。生涯を通して、日々の務めのただ中にあって祈りを養い、真の観想的生活を育むための具体的な指針を示しました。たとえば、仕事を聖体のいけにえに結びつけ、一日のすべてをミサの延長とするよう励ましました。

さらに聖ホセマリアは、信仰の証しが、とりわけ職業上の人間関係や環境の中に、その特別な表れの場を見いだすことを思い起こさせました。とくにそれは、公正と愛に導かれ、人間的・職業的な力量をもって遂行される働き方を通して、周囲の人々に模範として示されるのです。 それは単に、祈りが仕事の始まりや最中や終わりに置かれるということではなく、仕事そのものが祈りへと変えられるべきである、ということなのです。

日々の長い労働時間の中で神の現存を保つための具体的な手段は数多くあります。すなわち、愛をもって私たちを見つめておられる父なる神の御前に自分がいることを自覚すること、キリストのために、キリストとともに、キリストのうちに働いているという意識を新たにすること、そして、その時々に神が何を求めておられるか、また周囲の人々に対してどのように正義と愛を実践できるかを示してくれる聖霊の促しに耳を傾けることです。さらに聖ホセマリアは、一日を小さな愛の行為で満たすよう教えました。たとえば、聖母の像や机の上に置かれた小さな十字架に目を向けること、最も近くの聖櫃に心を向けること(『鍛』745–746番参照)、正午に教会とともにお告げの祈りを唱えること、繰り返しの多い機械的な作業を短い射祷を心の中で唱える機会に変えること、自分が扱っている書類の背後に奉仕すべき人々の姿を見ること、他者の顔のうちに神を見いだすこと、言葉と模範によってより助けを必要とする同僚を慰めること、あまり好ましくない仕事──しかし多くの場合もっとも必要な仕事──から進んで始め、それをキリストのいけにえに結びつけること、そして、自分の机を祭壇とみなし、日々のミサにおいて自らをそれと結び合わせること、などです。

「神の御前においてなされるあなたがたのその職業上の務めの中で、信仰・希望・愛が働くことになります。そこに伴う出来事や人間関係、そしてあなたがたの仕事がもたらすさまざまな問題は、あなたがたの祈りを養うものとなるでしょう。自分の通常の務めを成し遂げようとする努力は、キリスト者にとって本質的なものであるあの十字架を生きる機会となります。自らの弱さの体験や、あらゆる人間的努力に常につきまとう失敗は、あなたがたにより深い現実感覚と、より大きな謙遜、そして他者への理解を与えるでしょう。成功と喜びは、感謝するよう促し、また自分のためではなく、他者と神への奉仕のために生きているのだということを思い起こさせるでしょう」(『鍛』49番)。

職業生活は祈りの生活の妨げとなるものではなく、むしろそれが深く根づき、豊かに展開していく場です。またその中において、私たちの行いに意味を与え、その霊的な意義を明らかにする、隠れたいけにえが見いだされるのです。

「重ねて​言うが、​私たちは​神の​子の​身分に​いるのだから、​あらゆる​人間的な​活動の​なかに​あって​観想の​精神を​持つようになる。​祈りと​犠牲、​宗教・職業面の​教養に​よって、​光・塩・パン種と​なるのである。​そして​世間の​中に​入り込めば​入り込むほど、​より​いっそう神の​人に​なると​いう​目標に​達するのである」(『鍛』740番)。

「な​ぜ木の​十字架なのですか、と​あなたは​尋ねた。​一通の​手紙を​引いて​答えよう。​「顕微鏡から​目を​上げると、​視線は​キリスト像の​ない​黒い​十字架に​出遭います。​キリスト像の​ない​この​十字架は​象徴であって、​他人には​分からない​意味が​あります。​そこで、​疲れて仕事を​止めようと​していた​人は、​ふたた​びレンズに​目を​近づけて​仕事を​続けます。​孤独な​十字架は​担い手を​待っているからです」(『道』277番)。

21世紀において、どのように仕事の中で神を見いだすことができるのか

仕事や職業的活動が神との出会いの場であると主張することは、霊的書物に特有の敬虔な言い回しのように聞こえ、21世紀の日常的な経験からは切り離されたもののように思われるかもしれません。ある人々にとっては、労働関係という世俗的な世界の中に神への明確な言及を持ち込むことは、現実の問題──差し迫った社会問題、失業や移民のもたらす負の影響、労働者と雇用者の対立、市民と国家の間の緊張、市場における競争相手同士の争い、あるいは同じ企業内で管理職の地位をめぐって競い合うライバル同士の対立──を麻痺させるための、人工的で抽象的な戦略のようにさえ見えるかもしれません。

とりわけ産業化された西洋社会においては、多くの職場が不安や競争に特徴づけられ、関係する人々の間の緊張、せわしなさ、そして人間関係の断片化によって彩られており、それらの要因はしばしば疑念や不信へとつながっています。現代の消費社会に生きる人にとって、「よく働く」ということは、徳の実践を意味するというよりも、利益の最大化、メディアにおける可視性の向上、あるいは企業ブランドの強化を指すのが普通です。

生産の加速したリズムと、意思決定のために与えられる時間の乏しさは、ストレスを助長し、人間関係の質を損ない、それらをしばしば手段的な結びつきへと縮減してしまいます。しかもそうした関係は、多くの場合、さらに仮想空間へと移されているのです。 多くの人にとって、仕事は聖化されるべき現実というよりも、そこから逃れるべき重荷のように映ります。人生──真の人生──は、仕事が終わってから始まるかのように考えられています。そのときになって初めて、私たちは再び自分自身に立ち返り、愛する人々や自分の関心、そして人間的に自分を実現してくれるものに専念できる、と。退職の祝いの場で、ときに「やっと自由になった」といった声が聞かれるのは象徴的です。これは、仕事をまず何よりも奴隷状態や重荷、制約として理解する考え方が文化的に存在していることを示す一つのしるしなのです。

もし状況がこのようなものであるならば、ほとんど避けがたく次の問いが生じます。すなわち、オプス・デイ創立者が教えた仕事の聖化というメッセージは、現代の男女に対して何を語りうるのか、ということです。それは疑いなく、文化の潮流に逆らう提案です。実際、聖ホセマリア自身も、後に『拓』としてまとめられることになるいくつかの霊的覚え書きを記していた当時から、この点を十分に自覚していました。

「ある人々は、仕事において偏見にとらわれて行動しています。原則として誰も信頼せず、ましてや自分の職業を聖化する必要など理解しようとしません。もし話をしても、『ただでさえ気乗りせず重荷のように背負っている自分の仕事に、これ以上負担を加えないでほしい』と答えるでしょう。これは、乗り越えなければならない平和の戦いの一つです。すなわち、自らの務めの中に神を見いだし、神とともに、そして神に倣って他者に仕えることです」(『拓』520番)。

聖ホセマリアは、すべての人に──キリスト教の信仰を分かち合わない人々にも──、誠実で建設的な人間関係を築くこと、一人ひとりの才能を認めて大切にすること、そして仕事を自己主張の手段ではなく奉仕として理解することを提案しています。また、働く人々に対しては、キリスト教的愛に導かれて、分裂ではなく一致を生み出す営みを推し進めるよう招いています。すなわち、対立ではなく信頼の上に関係を築くよう促しているのです。

また聖ホセマリアは、仕事の尊厳と重要性は、達成された成果や生み出された利益によってではなく、どれほどの愛をもって行われたか、そしてそれを支える奉仕の精神によって測られるのだと教えています。

「価値の低い仕事などありません。どの務めも、きわめて重要なのです。その価値は、それに従事する人のあり方、その仕事にどれほど真剣に取り組むか、そしてそこにどれほど神への愛を込めるかによって決まります。大地を耕しながら自らを聖化する農民、文化と信仰とを結びつける大学教授、家庭の中で働く職人、経済的手段を社会全体の益のために実りあるものとする銀行家、すべての人々の善への奉仕として自らの役割を果たす政治家、そして自らの手の労苦を主にささげる労働者──そのいずれの務めも尊いのです」(『手紙14』5番)。

オプス・デイ創立者は信者たちに対して、仕事、家庭、そして霊的生活は、それぞれ切り離された領域を成すものではなく、自らと他者を聖化する一つの生活の中に統合されるよう招かれている次元であることを教えています。また彼は、使徒職や神との交わりは、一日の仕事が終わってから始まるのではなく、まさに仕事そのものを営む中から生まれ、そこにおいて展開していくのだということを思い起こさせています。

さらに彼は、それぞれの人が培うプロとしての心構え(professional mentality)が、人生の他の領域をも照らしうることを示しています。すなわち、それは子どもの教育を助け、社会生活への参与のあり方を導き、休息の時間を責任をもって整える助けとなりうるのです。また、家庭生活の中で愛することを学ぶならば、職場においても愛し続けることができること、信者が共通祭司職を通して生きるミサは一日の二十四時間全体へと広がっていくこと、すべての瞬間が永遠の価値を持っていること、そしてあらゆる時が神と他者を愛する機会であることを教えています。

また聖ホセマリアにとって仕事とは、自らの持つすべての力と、他者に奉仕したいという願いを、個人的利益のためだけではなく、共通善のためへと向けるための道でもあります。 仕事を聖化したいと望む人は、「兄弟である​人々の​心配事や​必要事の​どの​一つにも​背を​向けて​生きる​ことは​でき(ません)」(『鍛』453番)。この奉仕の視野こそが、一人ひとりの仕事に意味と価値を与えるのです。

そして、聖ホセマリアの「世のただ中にあって観想的な人として生きる」という教えは、日々の仕事の中で具体的な意味を持つようになります。一日の労働の中で営まれるさまざまな活動において、観想的なまなざしを身につけた人は、周囲の人々の徳を神に感謝し、誤解や侮辱を心から赦し、苦しんでいる人、孤独な人、取り残された人々に心を配り、さらに、一人ひとりのうちに神の似姿としての尊厳を認めるのです。

被造物に対して神の子としてのまなざしを向ける人は、仕事の中で神を観想し、被造世界の美しさとそこに宿る秩序に驚嘆し、技術や人間の知性が成し遂げた成果に感嘆し、さらに、愛と正義に彩られた関係を築くことを通して、社会の発展に貢献できることを喜びます。そして最後に、自らの仕事を通して、被造世界がその完成へと導かれていくことに協力できるという恵みに対して、神を賛美するのです。

「​単に​自然の​驚異の​中のみならず、​仕事の​体験や​努力の​中にも​神を​見出さなければなりません。​そう​すれば、​仕事は​祈りと​なり、​感謝の​行為ともなります。​私たちは​神に​よって​地上に​置かれ、​神から​愛され、​神の​約束の​世継ぎである​ことを​知っているのですから」(『知識の香』48)。


[1] 「deprecatio illorum in operatione artis」。

[2] 「ἡ δέησις αὐτῶν ἐν ἐργασίᾳ τέχνης」。